一章 一条仁

一章 一条仁(1)

「ねえ、秘密のアプリって知ってる?」

 それは昼休みのことだった。小うるさいせみごえが、閉め切られた窓を外からたたいて、空調の音がごうごうと頭上でうなる。しかし、そのどちらも気にならないくらい甲高くて、底意地の悪そうな声が聞こえ、教室の中が少しだけ静かになったように感じられた。

 僕は思わず弁当をつつくはしを止め、声がした黒板前の方に聞き耳を立てた。顔を上げてしまうと、「何見てんの」と、ガラの悪い彼女たちに気付かれてしまうためだ。だから普段は、僕を含めてたくさんの生徒が、彼女たち三人と関わらないようにしている。

 けれども今回ばかりは、僕以外にも何人か、彼女たちの話し声に耳をかたむけているようだ。教室の中が少しだけ静かになったのは、そういうことだろう。

 秘密のアプリのうわさというのは、それくらい、学校の中でっていた。

「最近有名なやつだよね。過去を変えられるとかなんとか」

「そうそう、わいくなったり、お金持ちの家に生まれなおしたり……なんなら、人の死をなかったことにしたりとか、本当になんでもできるんだって」

「でも、どうせ噂でしょ? 私そういうオカルト興味ないんだけど」

「まあ確かにそうだけどさ。もし本当にあったらどうするって話。なんでもできるんだよ?」

 彼女たちの話題に上がっているように、秘密のアプリの噂とは、好きなように過去を変えられるという単純なものだった。

 しかし、だからこそわかりやすくて、たくさんの生徒に受け入れられた。過去を変えられるという所が重要なのだ。もしこれが未来についての話で、夢や望みをかなえられるというものならば、変な噂話に頼らずとも努力でなんとかできるかもしれない。

 でも過去は絶対に変えられず、犯した罪や、刻み込まれた傷痕というのは、永遠に消えないのである。

 だからやはり、僕は秘密のアプリというものに対して魅力を感じていた。

 そうやって考えている間にも、彼女たちは話を続けた。

「それなら私、隣のクラスのふた君の彼女になりたーい。野球くて頭も性格も顔もいとか最高じゃん?」

「確かに。なんであんなタバコ女なんかと付き合ってんだろ?」

「顔でしょ顔。あのタバコ女、服着てれば見てくれだけは良いから」

「ねー。つうか、よくあんな気持ち悪いの人前にさらせるよね。ホントかんべんしてほしいんだけど」

 教室の前で固まる三人の白い夏服が、まるで入道雲みたいに見える。巨大な悪意のかたまりで、腹の内に雨や雷みたいなじくじくとしたものを抱えており、結託しているぶん余計にたちが悪い。

 しかし僕は、そんな彼女たちの言葉に、不快感よりも心配を覚えた。

 なぜならという言葉は、とある人物にとって禁句であったからだ。

「あなたたち、今はるの話をしてたでしょ?」

 その一言は恐ろしく、ドスがいていた。事実、冷たく鋭利な彼女の言葉のやいばは、教室にわずかに残っていた談笑の気配すらも一刀の下に伏し、誰も気軽に口を開けないような緊張感を周りにいた。

 僕は口をつぐんだまま、思わず、他のみんながしているみたいに教室の前の方へ目を向けた。すると噂話をしていた三人の女生徒の前に、ひたいに青筋を立てた学級委員長、ずまが立っていた。

 彼女はおぞましいほどの美人である。高い鼻筋や細いあご。はっきりとしたふたや顔の細部がぱきりと鋭利であり、日本刀じみた意思迫力のたけだけしいぼうを持っているのだ。それにただ顔が良いというだけではなく、手足が長く、学年で一番頭が良く、規律正しい、けっぺきてきな精神を持つ人である。

 そんな吾妻は、普段は冷静であるのに、とある話題になると人が変わったように狂暴になってしまうのだ。

 それは彼女が唯一の親友としている、さんのみや春乃、つまりタバコ女と呼ばれていた生徒に関する、悪意ある話題である。

「そういうのやめてくれない? 気分が悪いのよ。大体あの子は、あんたらみたいなブスより、身も心もよっぽどれいよ」

 高校二年生にしてはあまりにも強すぎるあつに、女生徒たちは言い返す気力も湧かないようだった。特に吾妻自身が非の打ちどころもない美貌を持っているために、なおさらだ。

 だから、彼女たちは逃げようとしたのだろう。女生徒の内、一人が口を開いた。

「……ふうん。吾妻さん三宮さんと仲良かったんだー。ごめんね、次から気をつけるよ」

 軽口風に言って、そそくさと弁当を片付け、女生徒たちは席を立とうとした。

 しかし、吾妻はそれを許さなかった。長い右足を持ち上げると、何のえんりょもなしに、彼女たちが寄せていた机をまとめてり飛ばした。もつれあいながら倒れた机は盛大な音を立てて、中に詰められていた教科書やらノートやらの臓物たちがぶちまけられる。暴力的な光景だ。静まり返っていたクラスの中に、さらに身動きさえできないような、重圧じみたものがのしかかってきた。

「誰も、私がいないところで春乃の悪口を言えなんて言ってないわ。私は、もう二度と春乃の悪口を言うなって言ったの。だから、次なんか無いはずでしょ?」

 ぜんとして動けなくなった女生徒たちに吐き捨てるように言い、更にもう一歩、吾妻は彼女たちに詰め寄ろうとした。それを見ていよいよまずいと思い、彼女を止めるため、僕は箸を置いて、立ち上がろうとした。確かに吾妻が怒った時は恐ろしいが、僕は彼女が普段どれだけさとく、友達思いで、誠実であるかを知っていたため、他の生徒程、吾妻を恐ろしいと思わなかったのだ。

 だがその時、教室の前の方のドアが開いた。

 そこには、ひとりの男子生徒が立っていた。

 丸めた頭のてっぺんからこんがりと日に焼けた肌。厚い胸板はたくましく、夏服のそでから突き出た両腕は筋肉質である。見た目通りに頼もしい男で、屈強な体つきは部活生らしい。先ほど話題に上がっていた、野球部のエース、双葉そうだ。

 彼は扉を開けた格好のまま、あまりの空気の重苦しさと、教科書やノートをぶちまけて倒れる死体のような机を見て、少しだけ驚いたようになる。

 だが、あくまでも少しだけだ。彼は逞しい容姿の通り、ひるむことなく、恐ろしい怒気を放つ吾妻へと視線をえた。

「吾妻、どうしたんだ? これお前がやったのか?」

 倒れた机を目端にとらえた草太は、尋ねながらも、あらかたの事情を察しているようだった。彼もまた、僕と同じく吾妻と交流があるため、彼女がどんなことで怒るかを理解しているのだ。

「こいつらが春乃の悪口を言ってたのよ。陰湿にね」

「だからって、ほら、教室なんだ。周りに人もいるだろ?」

「あのね、貴方あなたは何も思わないの? 春乃の彼氏なんでしょ?」

 草太がなだめにかかるが、吾妻はいまいらっている。それに草太も言い返されて、言葉を詰まらせていた。彼も、もちろん春乃の悪口を言われて良い気はしないだろうが、だからといって吾妻みたいに攻撃的になることはないのである。

 それでも草太が現れたことによって、少しだけ教室内の緊張がやわらいだ気がした。

 だから、僕も再び動きだした。草太が止めてくれたのならと携帯を取り出し、メッセージアプリを開いて、とある人物に文章を送った。

 すると言いよどんでいる草太の後ろに、すぐに別の人影が現れた。

 彼女こそが、タバコ女と陰口を叩かれていた女生徒、三宮春乃である。

「どうしたの、結衣? 何かあった?」

 なんとも気さくで、明るい声音。清涼感があって、本当に底からはつらつとしており、何よりも吾妻に一番効く声である。

「春乃。貴方、どうして……」

 現れた春乃を見て、一気に吾妻の怒気が抜けた。

「いやぁ、ほら、いとしい愛しい草太を追いかけてきちゃったみたいな? あはは! ねーえ草太、私たちラブラブだもんねー!」

 てんしんらんまんに笑う春乃は、大胆にも草太の腕に抱きついた。いかにもほんぽうという感じの彼女は、こういったところが非常にオープンであり、草太も戸惑いを隠せない様子だ。

「おい春乃、こんなところで引っ付くなって」

「えー、じゃあここ以外なら良いの?」

「そういう意味じゃないが……」

 二人ののろのおかげか、教室の中の重々しい空気が一変した。あまりにも明け透けな春乃の振る舞いに、ぽつりぽつりと笑いまで出てきたのだ。そのすきをついて三人の女生徒たちは、足早に教室を抜け出してしまう。吾妻もこれ以上その三人にとやかく言うつもりもないようで、腕組みをしてため息をいた。

 そこで僕も立ち上がり、教室の前の方に行くと、吾妻が蹴り倒した机を起き上がらせ、ぶちまけられた教科書やノートを拾い上げる。

 すると、吾妻が隣に来て、一緒にものを拾い始めた。

「ごめんなさいいちじょう君。私がやったんだから、自分で拾うわよ」

 すでに吾妻は、いつもの冷静でそうめいな人物に戻っていた。声音は硬くはあるが、それは騎士が身に着けるよろいたてのように高潔そうであり、向かい合うと恐ろしいものの、並ぶとやはり心強いものだ。

「別にいいよ。あれはやっぱり、向こうが悪いから。もちろん吾妻もやり過ぎだと思うけどね」

 詳しく経緯は知らないが、春乃と吾妻は中学時代からの親友らしく、特に吾妻から春乃への感情は、単なる友情を越えた忠誠心じみていた。それだけ吾妻は、春乃のことを大切に思っているのだ。

 そんな親友という関係は、ずっとおかしなやつ、であったり、変人と呼ばれてきた僕にはないものだった。

 だから、やはり吾妻の怒りはやり過ぎているとは思うものの、一概に悪いものとも思えないのである。

 それだけ純粋に人のことをおもえて、大切な人がいるということは、すごく幸福なことに思えるから。

 考えていると、入り口の方から草太がずしん、ずしんと歩み寄ってきた。彼は本当に体が大きく、目を合わせようとすると、平均的な身長の僕では首が痛くなってしまう。

「全くだ。いきなりあんなににらまれたんじゃ、たまったもんじゃない」

「……悪気はなかったわよ。つい、かっとなっちゃって。ごめんなさい」

 いさぎよく頭を下げる吾妻に対して、草太も僕と同じように、理解のようなものを示していた。そうしながら、ふと僕は、草太の腕にカブトムシのようにしがみついていた春乃が、もうどこにもいないことに気が付いた。

「あれ、草太。春乃は?」

「ああ、次の時間プールだろ? あいつ、その……あれがあるから、早めに着替えに行くんだよ、いつも」

 草太が言った春乃のとは、彼女がタバコ女と陰口を叩かれる原因になっているものだ。不良じみて煙草たばこを吸っているからタバコ女と言われているわけではないのである。

 むしろ彼女は誰よりも差別をせず、誰とも気さくに交流をして、誰にでも気遣いができる人間だ。今回も、僕が「吾妻が怒ってる」とメッセージを送っただけで全てを察し、すぐに駆け付けてきてくれた。

 ただ、すでにいなくなったところを見れば、草太が言うとおり、春乃はこれから着替えに行こうとしていたところだったのだろう。彼女のを知っていれば、仕方がないとも思える。そうなると、僕は意図せず、彼女を引き留めてしまっていたらしい。

「悪いことしちゃったかな」

 つぶやくと、草太がまゆひそめた。

「どうした、じん?」

「いいや、なんでもないよ」

 結局三人で倒れた机を元通りにすれば、吾妻がすっかりいつもの委員長気質を取り戻し、てきぱきとした口調で切り出した。

「二人ともありがとう。じゃあ、次の体育はプールだし、遅れないようにね。あのセクハラハゲ怒らせると面倒だし。あんなのが担任だなんて、春乃と双葉君には同情するわ」

 先ほどまでの三人組の女生徒に対してではなく、吾妻は、今度は彼女がセクハラハゲとさげすむ体育教師に対しての苛立ちをかいせる。無論、それこそ仕方のないことではあるのだが、舌打ちをした彼女はやはり恐ろしい。

 そんな時、こっそりとした陰口が、また聞こえる。

「さっきの吾妻、マジで怖かったよな」

 どうやら二人には聞こえていないようで、だからこそ僕も、聞こえていないふりをした。

 すると次に陰口は、また、噂話をした。

「やっぱり、人殺したことあるって噂も、本当なんじゃないのか?」

 冗談交じりに、笑いながらにつむがれたその声は、いつも通り、普通に戻った教室のにぎわいの底へと、沈んでいった。

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