一章 一条仁
一章 一条仁(1)
「ねえ、秘密のアプリって知ってる?」
それは昼休みのことだった。小うるさい
僕は思わず弁当をつつく
けれども今回ばかりは、僕以外にも何人か、彼女たちの話し声に耳をかたむけているようだ。教室の中が少しだけ静かになったのは、そういうことだろう。
秘密のアプリの
「最近有名なやつだよね。過去を変えられるとかなんとか」
「そうそう、
「でも、どうせ噂でしょ? 私そういうオカルト興味ないんだけど」
「まあ確かにそうだけどさ。もし本当にあったらどうするって話。なんでもできるんだよ?」
彼女たちの話題に上がっているように、秘密のアプリの噂とは、好きなように過去を変えられるという単純なものだった。
しかし、だからこそわかりやすくて、たくさんの生徒に受け入れられた。過去を変えられるという所が重要なのだ。もしこれが未来についての話で、夢や望みを
でも過去は絶対に変えられず、犯した罪や、刻み込まれた傷痕というのは、永遠に消えないのである。
だからやはり、僕は秘密のアプリというものに対して魅力を感じていた。
そうやって考えている間にも、彼女たちは話を続けた。
「それなら私、隣のクラスの
「確かに。なんであんなタバコ女なんかと付き合ってんだろ?」
「顔でしょ顔。あのタバコ女、服着てれば見てくれだけは良いから」
「ねー。つうか、よくあんな気持ち悪いの人前に
教室の前で固まる三人の白い夏服が、まるで入道雲みたいに見える。巨大な悪意の
しかし僕は、そんな彼女たちの言葉に、不快感よりも心配を覚えた。
なぜならタバコ女という言葉は、とある人物にとって禁句であったからだ。
「あなたたち、今
その一言は恐ろしく、ドスが
僕は口をつぐんだまま、思わず、他のみんながしているみたいに教室の前の方へ目を向けた。すると噂話をしていた三人の女生徒の前に、ひたいに青筋を立てた学級委員長、
彼女は
そんな吾妻は、普段は冷静であるのに、とある話題になると人が変わったように狂暴になってしまうのだ。
それは彼女が唯一の親友としている、
「そういうのやめてくれない? 気分が悪いのよ。大体あの子は、あんたらみたいなブスより、身も心もよっぽど
高校二年生にしてはあまりにも強すぎる
だから、彼女たちは逃げようとしたのだろう。女生徒の内、一人が口を開いた。
「……ふうん。吾妻さん三宮さんと仲良かったんだー。ごめんね、次から気をつけるよ」
軽口風に言って、そそくさと弁当を片付け、女生徒たちは席を立とうとした。
しかし、吾妻はそれを許さなかった。長い右足を持ち上げると、何の
「誰も、私がいないところで春乃の悪口を言えなんて言ってないわ。私は、もう二度と春乃の悪口を言うなって言ったの。だから、次なんか無いはずでしょ?」
だがその時、教室の前の方のドアが開いた。
そこには、ひとりの男子生徒が立っていた。
丸めた頭の
彼は扉を開けた格好のまま、あまりの空気の重苦しさと、教科書やノートをぶちまけて倒れる死体のような机を見て、少しだけ驚いたようになる。
だが、あくまでも少しだけだ。彼は逞しい容姿の通り、
「吾妻、どうしたんだ? これお前がやったのか?」
倒れた机を目端に
「こいつらが春乃の悪口を言ってたのよ。陰湿にね」
「だからって、ほら、教室なんだ。周りに人もいるだろ?」
「あのね、
草太が
それでも草太が現れたことによって、少しだけ教室内の緊張が
だから、僕も再び動きだした。草太が止めてくれたのならと携帯を取り出し、メッセージアプリを開いて、とある人物に文章を送った。
すると言い
彼女こそが、タバコ女と陰口を叩かれていた女生徒、三宮春乃である。
「どうしたの、結衣? 何かあった?」
なんとも気さくで、明るい声音。清涼感があって、本当に底から
「春乃。貴方、どうして……」
現れた春乃を見て、一気に吾妻の怒気が抜けた。
「いやぁ、ほら、
「おい春乃、こんなところで引っ付くなって」
「えー、じゃあここ以外なら良いの?」
「そういう意味じゃないが……」
二人の
そこで僕も立ち上がり、教室の前の方に行くと、吾妻が蹴り倒した机を起き上がらせ、ぶちまけられた教科書やノートを拾い上げる。
すると、吾妻が隣に来て、一緒にものを拾い始めた。
「ごめんなさい
すでに吾妻は、いつもの冷静で
「別にいいよ。あれはやっぱり、向こうが悪いから。もちろん吾妻もやり過ぎだと思うけどね」
詳しく経緯は知らないが、春乃と吾妻は中学時代からの親友らしく、特に吾妻から春乃への感情は、単なる友情を越えた忠誠心じみていた。それだけ吾妻は、春乃のことを大切に思っているのだ。
そんな親友という関係は、ずっとおかしなやつ、であったり、変人と呼ばれてきた僕にはないものだった。
だから、やはり吾妻の怒りはやり過ぎているとは思うものの、一概に悪いものとも思えないのである。
それだけ純粋に人のことを
考えていると、入り口の方から草太がずしん、ずしんと歩み寄ってきた。彼は本当に体が大きく、目を合わせようとすると、平均的な身長の僕では首が痛くなってしまう。
「全くだ。いきなりあんなに
「……悪気はなかったわよ。つい、かっとなっちゃって。ごめんなさい」
「あれ、草太。春乃は?」
「ああ、次の時間プールだろ? あいつ、その……あれがあるから、早めに着替えに行くんだよ、いつも」
草太が言った春乃のあれとは、彼女がタバコ女と陰口を叩かれる原因になっているものだ。不良じみて
むしろ彼女は誰よりも差別をせず、誰とも気さくに交流をして、誰にでも気遣いができる人間だ。今回も、僕が「吾妻が怒ってる」とメッセージを送っただけで全てを察し、すぐに駆け付けてきてくれた。
ただ、すでにいなくなったところを見れば、草太が言うとおり、春乃はこれから着替えに行こうとしていたところだったのだろう。彼女のあれを知っていれば、仕方がないとも思える。そうなると、僕は意図せず、彼女を引き留めてしまっていたらしい。
「悪いことしちゃったかな」
「どうした、
「いいや、なんでもないよ」
結局三人で倒れた机を元通りにすれば、吾妻がすっかりいつもの委員長気質を取り戻し、てきぱきとした口調で切り出した。
「二人ともありがとう。じゃあ、次の体育はプールだし、遅れないようにね。あのセクハラハゲ怒らせると面倒だし。あんなのが担任だなんて、春乃と双葉君には同情するわ」
先ほどまでの三人組の女生徒に対してではなく、吾妻は、今度は彼女がセクハラハゲと
そんな時、こっそりとした陰口が、また聞こえる。
「さっきの吾妻、マジで怖かったよな」
どうやら二人には聞こえていないようで、だからこそ僕も、聞こえていないふりをした。
すると次に陰口は、また、噂話をした。
「やっぱり、人殺したことあるって噂も、本当なんじゃないのか?」
冗談交じりに、笑いながらに
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