EPISODE 4:授乳


「やべぇラン」


 突然の第三者に驚き飛び退き、グランはすぐさま観葉植物の陰に身を潜める。人型とはいえ見た目もサイズも妖精、一般人との接触は問題なのだろう。怪人達が跳梁跋扈ちょうりょうばっこしている時点で今更ではないか。遊は首を傾げるのだが、それよりも今気にするべきは来訪者だ。グランのことは後回しに、やってきた女性へと向き直る。

 二十歳過ぎくらいだろうか、薄紫の長髪を緩く纏めて左肩から流しており、細めた目でニコニコ笑顔をたたえている。胸や太腿ふとももが豊かに実っているせいか、シャツもスキニージーンズも膨れてぱつぱつだ。そして最も目を引くのがチェック柄のエプロン、たわわな乳房に押し上げられて暖簾のれんのように吊る下がっている。

 以上の容姿からして幼稚園の先生、あるいは保育士だった女性か。初対面なのに不思議と安心感を覚えるのはそれが理由だろう。


「あらあらまぁまぁ、こんなにボロボロで可哀想かわいそうな僕ちゃん」


 しゅるり、と。女性は獲物を狙うへびの如くしなやかに近寄ってきた。

 一瞬の出来事に反応すら出来ず、あっという間に抱きかかえられてしまう。男女逆転したお姫様だっこだ。目線が高くなったことに気付き、遊は慌てふためく。


「あのっ、実はその、黒いお姉さん達にやられちゃって……」

「まぁ、シャドーメイデンの仕業ね。あの子達ってば人工生命体で意識もないのに、本能のまま可愛い男の子を襲っちゃうもの」

「く、詳しいですね」

「でも安心して。僕ちゃんのことは私が――ママが守ってあげるから」


 ママ、つまり母親。

 一体何を言っているのだろうか。遊の母親は夫共々怪人に拉致されて不在であり、目の前の女性は赤の他人である。年下の娘を母親扱いする業の深い業界もあるのだが、幼い遊は露程つゆほども知らないし知らない方がいい。

 何にせよ、意味不明な発言に困惑しかないのだ。しかし、女性からは基準値を超えた強烈な母性がにじみ出ており、閉口せざるを得ない説得力がある。気を抜けば光の速さでほだされてしまうだろう濃密なママ味に、保護を求めていた遊は生唾なまつばを飲んでしまう。


「ねぇ、お名前は?」

「えっと、く、黒貴遊です」

「そう、遊ちゃんって言うのね。一人でずっと頑張ってきて偉いわね~」

「ひ、一人じゃなかったです。本当はえる姉さんもいて……」

「他に、女がいたの?」


 室内の気温がガクッと急激に下がった、ように錯覚する。空気の変化を敏感に捉えて、腕がざわざわ鳥肌を立てていく。

 見上げると女性の糸目が薄らと開き、覗かせる瞳があやしい飴色あめいろに輝いていた。腕にも心なしか力が入っているらしく、抱かれながら締め付けられて息苦しくなる。

 何か気に障ることを言ってしまっただろうか。

 遊は怯えて視線を逸らそうとするが、


「ううん、別にいいのよ。これからはママが遊ちゃんを守るんだもの」


 女性はにっこりと微笑みを返してくれた。

 失言は杞憂きゆうだったのか。感情の起伏に不自然さが拭えないのだが、そんな些末事さまつごとを気にしている場合ではない。


「それよりも、ママのおっぱい飲んで元気出しましょうね」


 なんの脈絡もなく、耳を疑う発言が飛び出してきたからだ。


「お、おぱっ!?」

「どんなに辛いことがあっても、おっぱいにうずまれば元気百倍だもんね」


 どんな理屈だ、というツッコミを入れる隙も与えずに、女性はエプロンの肩紐をずらす。こちらの混乱はお構いなしで事が進もうとしている。

 出会ったばかりの少年相手に文字通り胸を貸す。母乳が出るか否かに関わらず、突飛で奇異な状況に変わりない。役得と思い身を任せる人もいるだろうが、背伸びしたがりの年頃からすれば嬉し恥ずかしのシチュエーション。興味の対象たる双子山にありつける喜びと、女性相手に甘えるなんて言語道断という葛藤が鍔迫つばぜり合い。故に抵抗出来ない。見下ろしてくる彼女の視線も相まって、微動だにせず石化したかのよう。

 高鳴る鼓動にせき立てられ、徐々に思考がおっぱい一色に染まっていく。このまま本能と欲望に身をゆだね、赤子同然の吸い付きぶりを見せて良いかもしれない。なんて、恥も外聞もかなぐり捨てた決断すらしそうになる。


「ほら、遠慮しなくていいのよ?」


 シャツがまくり上げられて、どぷんと真っ白な果実が弾力豊かに跳ねる。衣服の上からも規格外に思えたが、拘束を外すとそれすらも控えめな表現だったと気付かされる。桃源郷はそこにあったのだ。

 果実の先で輝く二つのつぼみが誘惑している。何もかも忘れてむしゃぶりつけばいい、と堕落の道へ手招きしている。かつて知恵の実を食して楽園を追放されたのなら、この実で無知となりて桃源郷の住人になるのも良いだろう。

 だが、もう一つ。

 遊を現世に繋ぐ違和感が視界に飛び込んできた。

 胸の中心部分、二つの乳房の上に立つかのように刻まれた入れ墨タトゥー。とぐろを巻いた蛇をイメージしただろうそれが、何故か妙に気になってしまう。

 言葉巧みにそそのかし、果実をもぎ取るよう仕向ける――それが蛇。

 本当にそれだけ?

 もっと大事なことを見落としている気がしてしまう。


「その紋章、さてはお前怪人ランな!」


 物陰より、グランがロケットよろしく飛び出してきた。

 甲高い妖精の叫びではっと我に返る。

 一体自分は何をしていたのか。その答えすなわち、考えなしにおっぱいを吸おうとしていた。間違いなく愚行である。羞恥心で耳の先まで熱を帯びてしまう。


「あら、もう見破られちゃったのね」


 だが一方の女性は冷めており、糸目の奥で鋭い眼光をごろりと転がしている。

 思い返してみるとおかしい点ばかりだ。

 街が汚染されて大半の住民が連れ去られた今、幼稚園の先生や保育士のような人がいるはずない。それに、赤黒い大地から生まれる存在に詳しい上に、黒い婦人集団の名前すら知っていた。そもそもの話、過剰なボディタッチの末に授乳なんて、普通の人間だったらするはずがないのだ。異常以外の何物でもない。

 要するにこの女性こそが侵略者、地球と敵対する怪人の一人なのだ。

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