7限目 密室での再契約

 次の日の朝、義人は学校に登校していた。


 他の生徒より早く登校するのが彼の習慣である。昼休みだと和彦が邪魔するため、誰もいない時間に静かに勉強するためだ。


 いつもなら席につくとすぐにカバンから問題集を出して勉強に勤しむところだが、今日の彼は座ると同時に背もたれに深くもたれて天井を眺めていた。


 朝から彼を深い疲労感が襲っていた。


 原因は確実に昨晩のことだ。


 昨日の昼休み、階段から転げ落ちそうになった同級生の島原千沙を助けたのをきっかけに、その千沙に放課後に街中を引きずり回された。


 その後、“もてなしたい”と彼女の家に連れていかれ、そこでいきなり“くすぐりフェチ”という性癖を告白された。


 そして彼女をくすぐる羽目になった上に彼女の恋人となるという、今思い出しても訳の分からない出来事が起こった。


 その後、精神がズタボロのまま家に帰り就寝したのは今日の午前一時。疲労は決して数時間の睡眠では癒えることはない。




「俺、これからどうなるんだ?」


 自分のこれからの学生生活を無事に過ごせるかどうか、深く悩んでいた。


 しばらくすると、教室の戸が開き、次々と生徒が入ってくる。


 時計を見ると八時。他の生徒が登校する時間になっていた。


 義人は一時間以上ぼーとしていたことになる。


 彼の貴重な時間は将来の不安により食いつぶされてしまった。そんな自分が自分で嫌になる。






 ---






 この日もいつものように学校が始まり、午前の授業が終了した。


 いつも教師の話を一言一句聞き逃さない姿勢の義人にそこまでの覇気がなかった。


 そんな彼に気づいた和彦が授業終了後に真っ先に近寄る。


「どうした義人。お前朝から元気ないじゃん。ついに勉強を放棄しちまったか?」


「うるせえ。関係ねえだろ。あっち行け」


 いつもの和彦の挑発に力なく答える義人。


 拍子の抜けた彼の受け答えに和彦は妙に腹が立つ。


「なんだ? せっかく心配して声かけてやったのに。人の親切は素直に受け入れたほうがいいぜ。よし! 今日は昼飯付き合ってやる。そこで話し合おうや」


 和彦は無理やり義人を立たせ、教室の前のドアへ引っ張る。




「よーしーとーくーーん!」


 教室に響く女子の声の発信元である後ろのドアに全クラスメイトの目が注がれた。


 そこには左手に布に包まれた弁当箱を持ち、右手で大きく手を振る千沙の姿があった。


「おい! どういうことだよ義人! なんであの島原千沙がお前を呼んでるんだよ」


 力なく立つ義人の体を和彦が力任せに揺らす。


 教室にいたクラスメイトたちの目線も義人に集まる。


 千沙は義人のもとに一直線に近づく。


「ねえ義人君。一緒にお昼食べようよ」


「「「「……は?」」」」


 立ち尽くす義人の顔を覗き込む千沙。その二人の姿を驚く表情で見る和彦をはじめとするクラスメイト達。


 誰もが頭の上に疑問符が浮かんでいた。なぜあの優等生の千沙が寄りにもよってあの義人と昼を共にするのか、と。


「あ、あのー。島原さん? なんで義人とお昼をご一緒になられるのですか?」


 あまりの動揺に日ごろと異なる丁寧な口調で質問する和彦に千沙は胸を張って大きく明るい声で回答する。


「だって、ボクたち付き合ってるんだもーん」


「「「……えーーーー!」」」


 一瞬の静寂の後、教室中で衝撃の悲鳴が響いた。


「てめぇ、昨日島原さんと何でもないって言ってただろ! 俺に嘘をついていたのか! 裏切りやがったのか!」


「ふん。俺にも何がなんだかわかんねえよ……」


 怒号のように問いただす和彦に力なく返事する。


 千沙を除くこの教室にいる全員がこの状況を理解できていない。が、彼ら以上に義人が自分の置かれた状況を理解できていないのだ。


「まあまあ。そんなに乱暴なことをしたらダメだよ」


 千沙は興奮する和彦をなだめながら、義人をつかむ手をゆっくり離す。


「それじゃあ、義人君をお借りしまーす!」


 義人の右腕をつかみ、強引に引っ張り教室を出ていった。


 その姿を教室内そして廊下の生徒はただ見送るだけであった。






 ---






 千沙が義人を連れて行ったのは旧校舎にある空き部屋であった。


 陽正高校には新校舎の裏に旧校舎がある。


 ふたつの校舎は一階と二階にある渡り廊下でつながっている。


 ほとんどの機能が新校舎に移行したため、旧校舎のほとんどの部屋が空き部屋だ。


 千沙はその中でも二階の最も奥にある、ほとんど人が来ることのない”元”音楽準備室を選んだ。


 すべての道具はすべて新校舎の音楽室に移動し、室内には古く使えなくなった机と椅子が数組残っているだけの仄暗くもの悲しい教室。


 千沙は引っ張ってきた義人を強引にこの部屋に入れ、建付けの悪いドアを閉め、鍵をしっかりと閉めた。


「どうしてここで飯食うんだよ。食堂でいいだろ」


「あのね、さっき見ただろ? あんな騒々しい中でご飯なんて食べられるものか。それに他の用があるからね」


「他の用?」


「まあ、とりあえずお昼を食べようよ。もうお腹空いちゃった。用事はそのあとということで」


 そういうと、後ろに並んでいる中でも比較的きれいな一台の机と二脚の椅子を部屋の真ん中に移動させ、そこに座った。


「ちょっと何そこで突っ立ているんだよ。立ったままじゃゆっくり食べられないだろ。早く座った座った」


「お、おう……」


 義人は千沙に促されるように、彼女の正面に置かれた椅子に座った。


「さあ。早速いただくとするかな。うちのクラス、一時限目から体育でもうお腹空いていたんだよ」


 机の上に置かれた弁当箱を包む布をほどくと、中には二段の弁当箱があった。一つは千沙用、そしてもう一つは義人用である。


 昨晩に義人の分の昼食を千沙が用意することを約束していた。


 弁当箱を開けると、その半分には白いご飯と梅干が、仕切りを挟んでもう半分にはハンバーグや卵焼き、プチトマトなどが入っていた。


「もしかして手作り弁当か?」


「そうだよ。ボクは基本的に自分で作って持ってきてるから」


「てっきりコンビニで買ってくるものだと思っていたんだが」


「ひどいなぁ。女の子が男の子にお昼を準備するって言って、コンビニで買ったものを渡すと思ってた? そんなに無神経だから君はモテないんだよ。ま、その顔じゃあどっちにしろもてないだろうけどね」


「すまん……」


「それにボクたちは付き合っているんだよ。彼女が彼氏にお弁当を作るって当り前じゃないかな」


「勘違いするな。俺はまだお前と付き合ってるなんて思ってねぇ」


「へえ、そんなこと言うんだ。言っとくけど、あの動画、家に帰ればすぐにでもネットに流せるんだから」


「てめぇ~」


 “あの動画”とは、義人が千沙とくすぐりプレイをしていた(させられていた)風景を隠し撮りしたたものだ。


 そんなものネットに流されたら高校生活どころか一生をまともに過ごすことはできないことは確実だ。


 それほどまでにネットとは恐ろしいものなのだということは現代人の常識である。


「そんなことより早くお弁当食べようよ。それとも、あたしの作ったものなんて食べられない?」


 千沙が少し瞳を潤ませながら義人に尋ねる。


 美少女に上目遣いでそんな表情をされて「食べない」という男子はいない。いるとすれば、それはもう聖人だ。


 もちろん義人は聖人などではない。


「まあ、せっかく作ってくれたんだもんな。残すのは、なんというかもったいねえし……」


 義人は頭をかきながら照れくさそうに答える。


 すると、千沙の表情は明るい笑顔に一変する。


「そうだよね~。人の親切は素直に受け取るべきだよ」


「自分の見せ方をわかってるよな。ある意味、尊敬するよ」


 もしかしたら女優として成功するんじゃないかと義人は真面目に思った。


 ちなみに、千沙の作った弁当はあながち悪くなかった。むしろ、おいしかった。


 その時初めて義人が千沙を彼女にしてもいいんじゃないかと本気で思った瞬間である。




 二人は十五分で昼食を終えた。


 話し合いの中で義人が千沙を下の名前を呼び捨てで呼ぶことが決めた。そのほうがいろいろと千沙が強引に推し進めてしまった。


 千沙は水筒のふたにいれたお茶を飲み干すと、ある話題を持ち出した。


「さて、では本題に入ろう」


「そういえば『用がある』って言ってたな。一体何のことなんだ?」


「それはこれを見てのお楽しみ♪」


 千沙は立ち上がると弁当箱を乗せたまま机と椅子を部屋の後ろに運んだ。


 そして、鼻歌を口ずさみながら物入れから引きずり出したマットを部屋の真ん中に広げる。


「どうだい?」


「なんで旧音楽準備室にこんなもんがあるんだ?」


「実は数か月前からこの部屋を使ってたんだ。しっかり防音してるからどれだけ声を出しても大丈夫なんだよ」


「外に声が漏れるのを気にするって、何してたんだ」


「え? それはほらさ、女の子にはいろいろ秘密があるんだよ。詮索なんて野暮な真似はよしてくれ」


「お、おう……」


 全身をモジモジさせながら答える千沙。義人はそれ以上の追及をやめた。


「こほん。そんなことはどうだっていい。重要なのは過ぎたことじゃなくて、これからどうするかということじゃないかな?」


「は?」


 千沙はジャケットを脱ぐと、マットの上に大の字に倒れた。


「千沙、もしかして……」


「お察しの通りさ。早くくすぐってくれ」


 昨晩のデジャブである。下着姿が制服に変わっただけだ。


「あの感触を昨日から忘れられないんだ。だから午前中の授業を集中できなかったんだよ」


 顔を紅潮させて、息を荒くする女子高生。これが男子だったら即通報事案だ。


 昨晩のことで授業を集中できなかったことは義人も一緒だが、根本的なところで何かが違う。


「もしこれで成績が下がったら義人君のせいだよ。ちゃんと責任とってもらわなくちゃ」


「とんだ言いがかりだな」


「そんなことより~早くやってよ~。朝からずっと~我慢してるんだよ~。早くしないと~時間が無くなっちゃうよ~」


 手足をじたばたさせながらくすぐりを要求する千沙。


 これが成績クラス一位の優等生の姿だ。これに負けた自分が情けなく感じる。


「それとも“くすぐる”より“くすぐられる”ほうがいいのかな?あたしは基本“ぐら”だけど“ぐり”もやぶさかじゃないよ」


 両手をワキワキしながら義人を挑発する。もうエロおやじとしか言いようがない。


「それは勘弁だな。ところで“ぐり”と“ぐら”ってなんだよ。絵本の話か?」


「知らないの? “ぐり”とはくすぐるのが好きな人のこと、“ぐら”とはくすぐられるのが好きな人のことさ。くすぐり界隈では常識だよ。これからあたしと一緒にいるなら覚えておくべきだね」


「くすぐり界隈ってなんだよ! そんな異世界の知識いらねぇわ!」


 この世の中には自分の知らない世界があると意外な場所で学んだ義人であった。


「そうだ。この部屋にはカメラは隠してないだろうな? お前には前科があるんだからな」


「“前科”って人聞きの悪い。それじゃあまるで犯罪者じゃないか」


「盗撮も歴とした犯罪だ」


「安心してくれ。この部屋にはそんな無粋なものは置いていない」


「本当か? どうも信じられないな」


「あぁ、もうじれったい! じらされるのもそれはそれで興奮するけど、これ以上されると何をするか分からないよ?」


「くそっ!」


 盗撮も心配だが、千沙が本当に何をするか分からないため、義人はしぶしぶ千沙の要求に従うことにした。


 マットに横たわる千沙の左側にあぐらで座り、気持ちに整理をつけるため大きく深呼吸する。


「さあ、思いっきりやってくれ。手加減なんていらない」


 義人は千沙の脇腹に手をかける。そして、彼女をくすぐりを始めた。


「いやーーあはははは! いいよ! いいよ! こ、これを待ってたんだ! あははははは!」


 千沙は体を左右にくねらせ、くすぐる義人の両手首を掴みながら、足をじたばたさせ大笑いする。


 防音が施された旧音楽準備室じゃなかったら、とっくに他の生徒にバレていただろう。


(相変わらず、笑いと苦しみが共存したこの表情はいつ見ても怖いな)


 昨晩一時間以上くすぐったせいか、義人は千沙のくすぐりのツボを少し理解できた。


 どこをどれくらいの力で押せばいいのか、どうやってなぞればいいのか、手が覚えている。


 それがどうしようもなく嫌だ。


 


 くすぐり始めてから数十分後、千沙のスマホのアラームが鳴る。


 事前に三限目の授業開始時刻の十分前になるようにセットしていた。


 その音を合図にくすぐりの手を止める。


「あひ、あひひひ……」


 マットの上には制服と髪を乱して息を荒くする千沙がいた。


 笑い続けたせいか、にやけた状態で顔が固まり、ぴくぴくと痙攣している。


 もし間違って部屋に誰かが入ってきたら、何の言い逃れもできない。


 ドアの鍵をかけた千沙の判断は正しかった。


 荒い息を整えながら千沙は上半身を起こして、乱れた制服と髪を整える。


 その姿に少し魅了される義人であった。


「今日もいいテクニックだったよ。いやぁ、昨日よりうまくなっていたんじゃないか?」


「褒められているのか? 全然うれしくないんだが……」


「当然だろ。まるで天国にいるようだった」


「地獄の間違いじゃないか?」


「あはは。それもあるね。でも、よかったっていうのは本当だよ。くすぐられていると何かマッサージされてる感じで気持ちいいんだ。それと同じぐらい苦しくて、屈辱的で。この何とも言えない快感が……」


 くすぐられる感覚を噛みしめるように自分の体を抱きしめ、うっとりとする。


「そんなもんかね?」


「そうだよ。また経験するかい?」


「それはもういいって言ってんだろ」


 二人は立ち上がり、制服のほこりを払う。


「やっぱり君なしではどうもダメだね。あのさ、お願いなんだけど、毎日ここでボクをくすぐってくれないかな?」


「いやだ。そんな時間があるんだったら教室で勉強するわ」


「そんな~。毎日君にくすぐられないと生きていけないよ~」


 体をくねらせながら駄々をこねる千沙にどう対応すればわからない義人。


「そうだ! さっき君はこの時間に勉強したいって言ったよね?」


「そうだが?」


「それだったら、君に勉強を教えてあげる! お昼休みは九〇分でしょ?ここまでの移動に三分くらい。ご飯は早めに食べれば一〇分くらいで終わるから二〇分間あたしをくすぐってもらって、あとの三〇分間は勉強を教える。そうしたら、着替えや教室移動があっても時間に余裕があるでしょ?」


「それはまぁ……」


 確かに性癖はどうであれ成績クラス一位である千沙から勉強を教えてもらえば、義人にもメリットがある。一人で問題集を解くより効率的かもしれない。


「その条件なら……いいだろう」


「やったー! 交渉成立だね! よし、それじゃあ特別サービスでお弁当もおまけにつけてあげるよ」


 両手を挙げて喜ぶ千沙は本当に子供のようだ。


「だが、平日はいいとして休日はどうするんだよ?」


「どうせ君、土日暇だろ? だったら、あたしの家で会おうよ。どうせうちには誰もいないだろうから。そこで君があたしをくすぐった後にあたしが君に勉強を教える。それでどうだい?」


「“どうせ暇”ってなんだよ。まあ実際そうなんだが……。わかった。そうしよう」


「君、案外物分かりがいいじゃないか。うん。より恋人みたいでいいじゃないか!」


「あはは。なってしまったな……」


 徐々に千沙とカップル化する自分にほぼ諦めがついていた。


 今後の契約を済ませた二人はマットを元の場所に戻し、それぞれの教室に戻っていった。


 教室に戻った義人が和彦と岳人に詰問され、そのほかのクラスメイトに好奇の目で見られたのはいうまでもない。

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