第35話 別れと道

 日も落ち、月が悠々と浮かぶ時刻。


「いやぁ、今日は夜遅くまで本当にお世話になりました。美味しい夕食も本当にご馳走様でした」

 紗枝からもらったサイン入りのプレゼントが入った袋を両手で抱える空は、玄関で大きく頭を下げていた。


「いえいえ、私もとっても楽しめたわ。本当にありがとう」

「わたしも楽しかった。すごく楽しかった」

「そう言ってもらえるとこちらも嬉しいです」

 夕食時の賑やかな時間とは違って、別れのやり取りは心寂しく、しんみりするもの。

 一人暮らしをしている空だからこそ、今回の団欒は時間を忘れるほどに楽しかったのだ。


「……そ、空くん、今ならこのお家泊まれる……よ? 大丈夫?」

「あ、あはは。泊まるのはさすがになぁ……」

 心を見透かしてか、それとも自分のためか。しょんぼりとした表情からするに後者だろうが、こちらにとってもありがたいことを言ってくれる。

 ——しかし、こればかりは分を弁えるところ。

 さらには紗枝ママは再婚し、夫のいる既婚者でもある。少し考えるだけでも絶対に呑むべきではない。


「もう……。先生を困らせないようなこと言わないの。家庭訪問が終わってそのまま泊まらせるなんて話、聞いたことないでしょう? それに大事なお話が終わって紗枝の部屋で過ごしていただいただけでも本当にありがたいことだったんだから。夕食時、そう説明したわよね」

「された……」

 なにもかもが正論の母親である。

 反論がなにも浮かばないのは当然。肩を落としながら認める紗枝である。


「じゃあほら、ちゃんと割り切ってバイバイしなさい。先生もお家に帰ったらやることがあるんだから、長話は迷惑よ」

「うん……」

 まるで小さな子どもをあやすようなやり方だが、紗枝にはしっかりと効いている。


 夕食時、紗枝が一番甘えたのは『空の車が止めてあるコインパーキングまで見送りたい』というもの。

 しかし20時という時間帯は、家庭訪問が終わるにしても遅すぎる時間。

 そんな時間に一緒にいるところを学校の関係者に見られたら、お互いの立場が悪くなる。

 いろいろなリスクを考えた結果、ここでお別れしようという判断になったのだ。


「……空くん、わたしお仕事もっと頑張るからね」

「はい。是非全力で頑張ってください。でないと困ります」

 先生らしい口調で言い切り、笑顔を作る。


 専業の道は本当に大変だ。40万人以上のフォロワーと実績からするに、確かな土台を作れているかもしれないが、慢心せずに頑張れば、もっと頑丈な土台を作ることができるはずだ。

 大切な教え子だからこそ、もっと成功してほしいと思う空である。


「それでは改めて、今日は本当にありがとうございました。お邪魔しました」

「気をつけて帰ってちょうだいね」

「バイバイ、空くん……」

 そうして二人に手を振られ、頭を下げながら玄関を出る空だった。


 * * * *


「空くん行っちゃった……」

「行っちゃったわね」

 玄関が閉まり、それでもそこから動かないのはこの二人である。


「ねえ紗枝、あなたは本当にいい先生に巡り会えたわね」

 母親はしみじみと、気持ちを込めて言う。

 忙しい中、この家庭訪問の時間を作ってくれたこともそう。

 出席率等々、わかりやすい資料を用意してくれたこともそう。

 そんな資料と資料の間に挟まれていたのは、自作で作ってくれたと思われるチェッカーシート。

 休んだ日を含め、授業に参加できなかった科目に毎日チェックをしていけば、最終的にこれ以上は休めないものが簡単にわかるという代物。

 紗枝をしっかり卒業させられるような工夫を空は凝らしていたのだ。


「高校の最後で恩師の先生が担任になってくれるなんて、あなたはきっと一番幸せな学生よ、紗枝」

「うんわかってる」

 とんでもない即答である。


「これも全部ママのおかげ。あの時に家庭教師をお願いしてなかったら、空くんに会えなかったから。お家にずっと引きこもってたままだったから」

「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃないの」

 紗枝が中学を不登校になってしまった理由は、描いていたイラストを同級生に見られ、からかわれ、イジメに発展したため。


 そんな苦しい状況を救ってくれたのが空で、救いの人物を雇ってくれたのが母親である。

 そのことを一番に理解している本人ではあるが——。


「でも……それはそれ。今日の夕食のことは根に持つから」

「え〜? それは逆恨みでしょう? 紗枝が私の言うことを聞いていたら、オムライスにグリーンピースは入れなかったんだから」

「ママの言うこと聞いてても、絶対にアレが出てた。理由は最初からもう作ってたから」

「ま、まあまあ彩りが良くなるんだからいいじゃないの」

「色はよくなるけど、あのお豆はいらない」

 グリーンピース君は可哀想な言われようだが、好き嫌いがわかれる有名な食材だ。

 紗枝の言っていることに共感する人もいるだろう。


「ふう。それにしても……あなたはとんでもない人を好きになってしまったわねえ。今日接してさらにわかったけど、あの人は本当に強敵よ?」

「……ん。空くん真面目すぎるから、わたしのこと『生徒』としか見てくれない」

「まあそれが空先生のいいところなのだけどねえ。あのような方だから、私は安心して我が子を任せられるの」

 信頼に足る人物でなければ、家庭訪問が終わった後、紗枝の部屋になどいかなせい。

 話が終わった時点で帰ってもらっている。


「ママの言ってることはわかるけど……生徒としてしか見てもらえないから、早く卒業したい」

「ふふっ、でもよかったわね。卒業ができたら先生のお家にお邪魔していいって許可が取れたんだから」

「それはよかったけど、まだ10ヶ月くらいある。それに住所教えてくれなかったから、忘れられるかも……」

「先生のことだからそれはないわよ。それに住所を教えたくても教えられない様子だったでしょう? きっとトラブルを避けるために規制が厳しくなっているのよ。常識的な範囲で明確な理由がなければ教えられないってところかしら」

「そんな規制はいらないのに」

「なにかトラブルがあったから規制が入ったんでしょう? つまりは必要なの」

「……」

 わがままは母親の手によって完封される紗枝である。


「まあ住所なら必ず教えてもらえるから安心しなさい」

「……えっ?」

「時期はまだ先だけど、『年賀状を送りたいから住所を教えてください』って理由なら、必ず教えてくれるから」

「っ! その時に、卒業したらお家に行っていいことも書く」

「それもアリよね〜」

 一筋の希望を見つけたように目をキラキラさせる紗枝に、ニッコリとした笑みを返す母親は、エールを送る。


「頑張りなさいよ〜紗枝。あの先生を狙うとなると、ライバルが絶対に多いから」

「うん」

「最悪はあなたがたくさん稼いで、『ずっと養います』って言っちゃいなさい!」

「うんっ。だからお仕事頑張る」

 “空ならば”ヒモになったとしてもお釣りがくる。そう考える母親と、同意する紗枝。


 やはり血は争えないもので、ようやくここで玄関から移動を始める二人だった。



 * * * *

 

 それからのこと。

 

 出会いの春。日盛りの夏。実りの秋。細雪の冬。


 平和な日常は優しく進んでいく。

 

 ——この日から一年が経つのだった。



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