第34話 紗枝の部屋③

『少し眠くなってきた』

 紗枝がそう言って数十分が過ぎた頃。


 少しずつ言葉数が少なくなり、仕舞しまいには「すぅ……。すぅ……」と太ももを枕にしたまま小さな寝息を立て始める彼女に対し——。

「はいそこ、寝たふりしない」

「っ!」

 空はバッサリと切り込んでいた。

 確かに伏線を張っていたことで、状況に不自然さはなにもなかったが、それ以外のところで気づく要素が大いにあったのだ。


「そ、空くん……どうしてわかったの? わたし自信あったのに……」

「それは嘘でしょ? ニヤニヤした寝顔だったよ」

「えっ」

「……え?」

 無自覚なニヤけだったのか、はたまた本気で自信があったのか、目をお皿のように丸くして驚きを見せている。


「ほ、本当にわたし……ニヤニヤしてた?」

「うん」

「すぐにわかるくらい?」

「すぐにわかったくらい」

「っっ……」

 素直な言葉を伝えたその瞬間、息を呑んだ紗枝は顔をみるみるうちに赤くさせていく。

 そして、いきなり攻撃をしてくるのだ。


「じ、じゃあ、しばらくわたしの顔見るの禁止。寝顔のことも忘れて」

「うおっ!?」

 空は膝枕していることで、上から見下ろすような形で彼女を見ることになる。

 そんな構図になっているせいで、顎の下をグイッと押されて強制的に上を見上げさせられるのだ。


 賢いのは肘をしっかり伸ばし切っていることで、力で押し返すこともできず、下を向くことができないこと。


 わ、わかったから! もう見ないから!」

 首の痛さに耐えながらしっかり約束すれば、ようやくその手は離され、自由になる。


「……」

「……」

 意地悪なことだが、気になること。

 バレないようにチラッと視線を落として顔を覗こうとすれば——枕元にあったクッションがいつの間にか紗枝の顔に置かれてあった。

 完全ガードである。


「膝枕のまま寝たふりをするのは……失敗だった」

「そもそもどうして寝たふりなんか」

「空くんがどんな独り言を言うのか気になった」

「あははっ、たったそれだけの理由で?」

 コク。

 顔に置いているクッションがズレないように、手でしっかり持ちながら頷いた。


「も、もしかしてだけど……自分がなにか紗枝さんの悪口を言わないか心配だった? それなら……」

「ううん、その逆。……なにか嬉しくなること言ってくれるかもって思った。可愛い……とか」

 おねだりをしているような言い方。いや、そう聞きたいような様子。

 それも余裕がないように顔をクッションで隠しながらである。

 さすがに込み上げるような笑いが出てしまう。


「ふっ、こんなこと誰にでもしないのに。特別な人にしかできないよ?」

「……それ言ってくれるなら、最初から寝たふりしなければよかった」

 ボソリと後悔したような声が聞こえてくる。


「空くん……あと少し待って。今顔が熱いから」

「そう言われると、そのクッションを剥がしたくなるんだけどなぁ」

「そんなことしたら、懲戒免職」

「ッ、だから怖いこと言わないでよ」

 クッションを剥がされないように、前腕を使ってさらにガードを固めながら脅してくる。

 そんな紗枝は『息ができているのか?』と心配になるくらいの押さえつけ方をしている。

 窒息するようなことはさすがに困るためにもちろん言う。


「は、剥がさないから安心して。ちゃんと待つから」

「わかった……」

 やっぱり苦しかったのか、しっかり押しつけていた前腕は離れた。

 今、どんな顔をしているのか気になるが、真っ赤になっている耳を見て、その衝動はすぐに治るのだった。


 * * * *


 それから数分後。

「よし。空くん、今から一緒にお絵描きしよ。液タブで」

 顔からクッションを外し、何事もなかったように立ち上がった紗枝は、いきなりこんな提案をしてきた。


「ペンも二つあるから大丈夫」

「お、お絵描きって自分めちゃくちゃ下手くそだよ? 描いたらみんなが笑うくらいで」

 図工や美術で真ん中以上の評価を一度も取ったことがない空であり、前に勤めていた高校でわかりやすかなと黒板に絵を描いて説明しようとした時には——。

『先生、その絵なに!?』

『アハハッ、いいねえ!』

『めちゃくちゃ堂々と描くじゃん!』

『やべ、なんかバランスがすげえ!』なんて騒がれたほど。

 そのために今の高校では絵を使わないことを決めてもいるほど。


「ふふふ、見てみたいから描こ? 膝枕もよかったけど、せっかくお家にきてくれたから、他のこともしたいって思った」

「……絶対に笑わない?」

 自身の下手な絵を、プロのイラストレーターに見られるのだ。

 それも、大学生の頃から関わりがある教え子に。

 笑われた時の恥ずかしさは数倍も違う。が、偽りのない声が飛ぶ。


「多分難しいと思う」

「そ、そっか。正直でよろしい」

 ここまで素直になられたら、こちらが割り切るしかない。

 よくよく考えれば、紗枝と一緒に過ごすこの時間は本当に貴重なもの。

 絵を仕事にしている人と共同の作業ができるだけでも贅沢だろう。

 いつもは胸を貸しているが、ここは胸を借りる気で遊ぶことにする。


「じゃあ空くんはそこの椅子に座って」

 と、指をさすのはオシャレな白色の仕事用の椅子。


「えっと……椅子は一つしかないみたいだけど、他にもあるの?」

「うん。あるから先に座っていい」

「ありがとう」

 授業を教える際は、いつも立ちながら行っているのだ。

 長時間立つことには慣れている分、キツいと感じることもないが、椅子が二つあるなら座るべきだろう。

 ベッドから立ち上がって、指示された椅子に座る。


「おっ……」

 職員室で座っているような椅子とは違い、長時間座っていても疲れることがないような座り心地。

 仕事で使うものは、やはりお金をかけているのだろう。


「す、すごいなこの椅子……」

 なんて感心の声を出した瞬間である。


「……おいしょ」

「……」

 そんな可愛らしい声が聞こえ、当たり前に座った。


「え?(なんで?)」

「え?(なに?)」

 ニュアンスの違う『え?』が互いに交わる。

 頭が真っ白になるが、すぐに状況を理解する。膝の上に堂々と座っているのだ。


「ッ、ちょっ!? も、もう一つの椅子は!?」

「これがわたしの椅子」

「い、いやいやいやいや……。それ人間の膝でしょ!?」

「これがよかった」

 もう絵を描くスイッチが入っているのか、一切動じない彼女は腰を下ろしたままPCと液晶タブレットを起動させて落書きができる状態にした。


「はい空くん。ペン」

「あ、ありがとう……」

 この体勢で描くのは確定事項なようで、もうツッコミが入れられないような状態。

 膝枕をすることと、膝に座られるのは全く違う。後者は臀部おしりの感触が伝わってくるのだから。


 ドギマギする空だが、すでに絵を描くスイッチが入っている紗枝は、平気な顔で聞いてくる。


「ふふ、最初はなに描く?」

「え、えっと……じゃあその……最初は軽く絵しりとりとか?」

「それすごくいい! 最初に描くのはどっちにする?」

「最初は紗枝さんからでいいよ」

「わかった。じゃあスタート」

 そうして始まる絵しりとり。

 紗枝は液タブにペンを走らせ、最初の『り』をものの数秒で生み出す。


 簡単な影や果梗かこう、一枚の葉っぱがついたリアリティのある見事なリンゴを……。

 あり得ないくらいに上手いイラストである。


「じゃあ次は空くん」

「よ、よし。『ご』だから……」

 邪な気持ちを考えないように、集中して描いていく。


「ぷっ、くふっ、そのゴリラさん本当に個性的」

「で、でもなんかちょっと上手に描けてない!?」

「ううん、全然上手じゃない」

「ええ、これ自分にとってはかなり上手にかけたよ!?」

 まだ、リンゴ→ゴリラの2つしか続いていないが、すでに盛り上がる。


 空は紗枝の上手な絵を見て楽しみ、紗枝は空の個性的な絵を見て楽しむ。

 気づけば夕方になっているほど二人は夢中になっていた。


「はい、次空くん」

「や、ヤバいなぁ……。『ら』ってもう描けるのが……」

 そんな声を漏らした時、この部屋のドアがノックされる。


「ご飯ができたからそろそろ出てきてちょうだいね〜」

「はーい」

「あっ、ありがとうございます」

 母親からの呼び出しである。


「自分の負けです」

「やったー」

 キリもよいところでギブアップして絵しりとりも終わらせる。

 勝利を得た紗枝が嬉しそうに笑った瞬間、すぐにその表情が変わるようなことが扉の奥から放たれたのだ。


「——それと紗枝、あなた先生にたくさん甘えて迷惑かけてたから、今日の夕食は覚悟しておきなさいね〜? 昨日から注意してたから」

『苦手なものを入れたからね』なんて含み。


「な、なんでたくさん甘えたこと知ってるの。わたしのお部屋覗かないって約束ママ破った!」

「ええ? 私はただそう言ってみただけよ? でもその通りで安心したわ〜」

「なっ……」

 紗枝の表情が固まった。

 絵しりとりで勝った者は、もう一つの勝負で負けたのだ。

 そして、さすがは産みの親である。予想が的中していることを前提に料理を作っていたのは見事としか言いようがない。


 ちなみに空に苦手な食べ物はなく、本当に紗枝のみが痛い目を見る罰だった。

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