第32話 紗枝の部屋②

「久しぶりだ……。ふふ、懐かしい」

「ま、まあ懐かしいことには懐かしいんだけど——」

 ベッドをトントンと叩かれ、隣に座った空が今されているのは、家庭教師をしていた頃に設けていたご褒美。

 もっと詳しく言えば紗枝本人からねだられたご褒美。


「——緊張が勝たない?」

「……意識したら緊張してきた。だから意識しないようにする」

「え、そんな器用なことできるの? それすごくない?」

「すごい」

「あはは、自分で認めるんだ」

 ベッドに横になる教え子は、その頭を自分の太ももに乗せ、猫のように頬擦りをしながら器用に会話をしていた。


「空くん、頭も撫でて。昔みたいに」

「えっと……紗枝さん? 一応自分は先生だからね、担任の」

「ママとの大事なこと話し終えたから、顔見知りにお兄さんになった」

「ま、まあ……その見方もできないことはないけど……」

「だから撫でる」

「も、もー……」

 この圧に押し負けるように、紗枝の頭に手を乗せて要望に応える。

 家庭訪問での本題はもう終わっている。先生としての仕事が終わっているからこそ、という理論だが、こんな姿を高校の関係者に見られたら当然アウトである。


「むふ。今、すごい優越感がある。担任の先生を独り占めしてるから。わたししかできないことで独り占めしてるから」

「ええ? そんなに感じるもの?」

 フォロワー数が40万人を超えるイラストレーターの紗枝にこんなことをしている。もしくはこんなことをされている。で優越感を感じるのは誰もが納得するだろうが、空は有名でもなんでもないただの先生である。


「空くんはなにも知らないから、そう思うだけだよ」

「ちなみに自分がなにも知らないって言うと?」

「空くんはすごく人気のある先生ってこと。優しくて、教え方も上手で、かっこいいから女の子から大人気」

「……だ、男子から人気じゃなくて?」

 このように引き合いに出すのは、空本人がそう感じている部分が多いから。

 先生と生徒という絶対的な立場はあるが、年も近く、歌やゲームの話題にもついていけて、なにより同性なのだから。


 しかし、紗枝には紗枝の情報がある。


「私は女の子からの人気の方が高いと思う。だって、卒業式の日に空くんに告白しようとしてる人を知ってるから」

「えっ!?」

「嬉しそうにしない」

「う、嬉しいよりも驚きが強いよ?」

 この高校に勤めてまだ2ヶ月ほどなのだ。『さすがにそれは嘘でしょ?』となるような話である。


「ならいいけど」

「いいんだ?」

「うん」

 話を広げる目的で『なぜいいのか』の理由を聞こうとすれば、その前に紗枝は話題を出した。


「空くんは今の学校に勤める前、別の学校にいたんだよね?」

「そうそう。前の高校では二年間勤めてて、今年で教員暦が三年目だね」

「最初に勤めてた学校で、女の子から告白されたことはある?」

「そ、それは……」

「あるんだ」

 まさかの質問で言い淀めば、すぐに悟られる。

 目を細めてムニっと太ももを摘まれる。


「確かにあるけど……ほんの少しだけだよ?」

「一回?」

「ど、どうだろ——痛っ! なんでつねるの……」

「なんとなく」

 予想が外れたことが気に食わなったのだろう、力を入れてきて痛みを与えてきた紗枝である。

 加減はしてくれたのか、そこまで痛いというわけでもない。


「……でも、さすがは空くんだと思った。先生なのに告白されてるから」

「あ、ありがとう?」

「そう。その告白してきた人はすごく人を見る目がある」

「あ、あはは」

 家庭教師というのは、学校の先生と同様に勉強を生徒に教える職業。

 勉強という嫌なことを教えるだけあって、ウザがられたりもすることも多い。

 そんな事実もある中、教え子からそこまで思ってもらえていると言うのは、なんとも幸せなことだろう。


「空くん、頭撫でる手、止まってる」

「は、はいはい」

 高校で久しぶりに再会した時にはかなり大人っぽく見えた紗枝だが、昔と変わらない姿も発見する。

 改めて頭を撫で始めれば、満足そうな息が漏れ始めた。


「……そ、それでなんだけど、この体勢はいつまで続ければいいの?」

「ママのご飯が出来上がるまでだから、あと一時間から二時間くらい」

「さすがにそれは長くない? なんかもっと別のことを……」

「これが一番いいの」

 平静を保つように頑張っている空だが、ここで器用に腕を回してぎゅーっと抱きついてくる彼女に、さらに緊張が高まってしまう。

 当時の頃は『妹ができたらこんな風なのかなぁ』なんて余裕があったが、担任の先生という立場になったのだ。

 妹と思うようなこともできなくなった。


「……ジ、ジトちゃん、それはやりすぎ」

「ぁ、懐かしい呼び方……。嬉しい」

「さらに力入れようとしない」

 ジト目っぽい形の可愛らしい目を持っているからこそ、そのあだ名をつけた空。

 紗枝自身も『可愛い』と気に入ってくれた呼び名であり、気に入ってくれたからこそフィギュア化している『ジト目のジトリちゃん』というオリジナルイラストの名前をつけたのかもしれない。


「ね、空くん」

「うん?」

「空くんは……いつまでに結婚したいとかある? あまり聞いてなかったから、将来のこといろいろ話そ」

「お、それは面白そうだね」

 盛り上がりそうな話である。

 もしかしたら今日のことを見越して、いろいろな話題を探してきてくれたのかもしれない。


「そうだなぁ……。結婚となると30歳を迎える前にはしたいと思ってるかな。確か平均がそのくらいだったから」

「そうなんだ」

「ちなみに紗枝さんは?」

「わたしは高校を卒業してすぐ」

「……へ!?」

 結婚ができるようになるのは18歳から。確かに基準として満たしてはいるが——。


「さ、さすがにそれは早くない? 口を挟めることじゃないけど、もっと相手を見る期間があった方がいいって言うか……」

「それでも、結婚するなら早い方がいいと思ってる」

 空の意見に納得しているものの、この意志は変わらないようである。


「早い方がいいって言うのは、子どものこととか考えて?」

「ううん。できるだけ早く確保しないと、他の女の人に取られる可能性があるから。お仕事を続ければ続けるだけ、出会いの場の合コンとかあると思うから」

「それは付き合って確保する、みたいな形じゃダメなの?」

 恋人がいながら出会いの場に本気で参加するような人は、全体で見ても少数だろう。

 その少数の中の大部分が、『人数合わせで友達を助けるため』というような理由なはずだが、紗枝は立派な理由を持っていた。


「あのね、付き合ってるだけだと取られちゃう可能性がある」

「なるほど。結構その……徹底的だね?」

「わたしが狙う人は、そのくらい素敵な人だから」

「あははっ、それは大した自信だ」

 あまり自信家なタイプでないのは家庭教師をしていた頃から知っているが、なぜか自信満々である。


「じゃあ、次に空くんは子どもは何人欲しい?」

「子どもは……そうだなぁ。自分の収入次第だけど、できるだけたくさんの子宝に恵まれたいとは思ってるよ」

「空くんは子ども好きって言ってた記憶がある。家庭教師してた時に」

「ははっ、確かにそう言ってても不思議じゃないね」

 もう何年も前のことで記憶には残っていないが、隠すようなことでもないのだ。

 なにかの話題で口にした可能性は高いだろう。


「まあ……妊娠から出産、さらには子育てって本当に大変なことばかりだから、そこはお嫁さんと相談しながらだけどね」

 妊娠や出産の影響というのは、思春期の頃に親から教えられたこと。

 それは『しっかり責任感を持て』という理由で。

 その時に聞いたことが想像する以上の内容だったからこそ、鮮明に覚えているのだ。


 妊娠初期にはつわりと言う、吐き気やだるさに眠れなさ、何か食べていないと気持ちが悪いなんていう症状が出る。

 お腹が大きくなれば、立っているだけでも痛みが発生したり、寝返りが打てないほどの痛みに襲われたり、骨盤の歪みまで発生する。

 そして、妊娠の時には不安や恐怖、緊張なども深く関与する複雑な痛みが襲ってくる。

 この部分は女性に耐えてもらわなければいけない部分。相談するのは当たり前なのだ。


「別に子どもがいなくても、幸せに暮らしている夫婦はたくさんいるから、一番はお嫁さんの意見を尊重したいな」

「空くんはいきなり先生になることがあるから、心がビクってなる」

「ご、ごめんごめん。真面目な話になるとちょっと力が入っちゃって」

 50分の授業時間は真剣に、10分の休み時間は少し気を抜いて、時には仕事の話をして。

 何度も何度もスイッチを切り替える仕事だからこそ、無意識にスイッチがONになってしまうのだ。


「でも、やっぱり空くんは優しい。そう言ってもらえるだけですごく気が楽になると思う」

「実際にこの手の考えの人は多いと思うから安心してね」

「安心した」

 太ももの上でコクコク頷く紗枝。

 こうして安心してくれたのなら、この話をしてよかったと思える。


「少し眠くなってきた」

「……ジトちゃん、先生が言うのも変だけど、男だよ? 自分」

「そうだね」

「いや、性別の確認をしたわけじゃなくって……」

 これで伝わってくれると嬉しかったが、残念ながらそうじゃなかった。


「じゃあ空腹のライオンが眠っているシマウマを見たら、どうすると思う?」

「起きるまでずっと頭を撫でると思う」

「……ほう。さては気付いてた、な?」

 解答がおかしすぎるのは言うまでもない。気付いていながら知らないふりをしていただけだった。


「紗枝さんはもうすぐ成人になるんだから、警戒するところはしないと危ないよ、本当に」

「こわい」

「そんなに感情のこもってない『怖い』は初めて聞いたよ……」

 この先にあるだろう合コンに参加すれば、一瞬で簡単にお持ち帰りされるんじゃないか……。なんて不安になる空だった。

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