第10話 Side、帰宅後の紗枝

 これは、7時間目の授業が終わり、ジトちゃんこと紗枝が帰宅した後のこと。


 キッチンに立って夕食の準備をしていた母親に、『ママ。聞いて、聞いて。手を止めて』とエプロンを引っ張り、目と鼻の先で今日の出来事を興奮混じりに報告していた。


『今日空くんに会ったの』と。

『空くん、学校の先生になってたの』と。

 さらには空のことを気に入っている相手だからこそ、『わたしずるいでしょ』との自慢を。


 そうして、無事に格付けした完了させた紗枝は——。

「ふんふんふんふん……」

 いつものように自室に入り、鼻歌を歌っていた。

 仕事を引き受けた企業とメールのやり取りをしながら、ご機嫌の極みに達していた。


 客観的に見れば、空に会えたこと+αで良い仕事が舞い込んできたんだと思うだろう。良い仕事を依頼されたのだと思うだろう。

 だが、それは全くもって違う。


 今、紗枝がやり取りしている内容は、提出したイラストについて『ワンアクセサリーを追加してほしい』という修正依頼。

 仕事が増えたというわけでもないのだ。

 では、どうしてこんなにも極まっているのか……? それは言うまでもないだろう。


「ふふっ、空くんすごく嬉しがってた……。わたしのこと、たくさん褒めてくれた……」

 今日のお昼休み。その相談室でのことを思い出して。


『空先生に、謝らないといけないことある」

『えっ? 謝るってどうして?』

『だって、空くんのおかげでもう一回学校にいきたいって思うことができて、高校にも合格させてくれたのに、わたしは毎日登校できてない……から』

 大きく頭を下げようとした。怒られるかもしれないなんて思ってもいた。

 だが、そんなことにはならなかった。


『自分は紗枝さんのこと誇らしく思ってるんだから』

『紗枝さんは自分でその道を決めて、その通りに努力してるから。これは誰にでもできることじゃないよ』

『立派になったね。本当に』

 不快に感じてもおかしくないのに、こんなにも褒めてくれた。


 そして、Twieetyツイッティーを見せた時には——。

『紗枝さんこれは本当に凄いよ! 本ッッッ当に凄いことだよこれ!!』

『全部紗枝さんの実力だって! 本当に凄い以外の言葉が見つからないよ……! いやぁ、あれからこんなに頑張ってたなんて……』

 自分のことのように喜んでくれた。

 紗枝にとって恩師が喜んでくれるというのは、これ以上にない喜びなのだ。


「ふふっ。空くん、なにも変わってなかった……」

 家庭教師と高校教師。『人に勉強を教える』という仕事は同じだからか、当時のままだと感じていたのだ。

 紗枝が一番好きな空の姿は……家庭教師を担当してくれていた時の姿。

 2年以上経っても、その姿は一緒だった。


 だが、違うところも見つけていた。


大人おとなの人になってた……空くん」

 この印象が強かったのは、空がスーツをしっかり着こなしていたからだろう。

 教壇に堂々と立ち、先生として授業を展開していたからだろう。


「すごくかっこよかった……」

 両手を口元に当てながら、呟く紗枝は……自然と顔に熱がこもっていく。


「…………」

 無表情のまま固まること数秒。

 紗枝は顔を両手で覆う事態となっていた。

 この時、紗枝は思い出してしまっていた。

 そんな異性相手に『が大好きなイラストレーター』なんてSNSプロフィールを見せてしまった鮮明な記憶を。


「わたし、とんでもないことしてた……」

 思い返せば思い返すだけ、人生で一番の恥ずかしさを更新する。

 あの時、空が誤解していなければ、生徒が教師に告白をするという状況になっていたのだから。


「……ぅんんっうぅ……」

 そんな紗枝は企業にメールを送信した後、声にならない声を上げて机に突っ伏した。

『とんでもないことをしてた』という理解は、これだけではなかったのだ。

 相談室で、『空が大好き』の言葉を初めて音読されてハッとしたのだ。


 ——努力を続けた結果、40万人を超えるアカウントで、仕事用のアカウントで、ずっとずっと好きな人をアピールしていたのだと。


『空が大好きなイラストレーター』というのは、アカウントを作った日からプロフィールに書いたもの。

 フォロワーが0人の時に設定し、当時は趣味アカウントでもあり、2年以上同じ文面で続けているからこそ、その事実が薄れていた。


「わたし、いつの間にか40万人の人に大好きな人教えてたなんて……」

 今まで友達にすら好きな人を教えたことがなく、恥ずかしいからと恋バナすらしたことがない紗枝である。


 そんな現実リアルを過ごしているからこそ、顔を見せられなくなっていた……。



∮    ∮    ∮    ∮



 その数時間後のPN、SaKuのTwieetyツイッティーには動きがあった。


 まるでなにか吹っ切れたように、やけくそになったように、『空が好きなイラストレーター』の文字が元に戻っていた。

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