第4話 Side、紗枝

「……もう限界……」

 悠々と月が浮かび、夜も静まり返った時間。23時過ぎ。

 部屋の中で、ふわふわボブをした銀髪の彼女は小さな声を漏らしていた。


 朝から液晶タブレットにペンを走らせ、恋愛シミュレーションゲームを扱う会社から依頼されたイラストを完成間近まで進めていた彼女は、ここで集中の糸が切れてしまったように、ぐでーっとデスクに華奢な上半身を預けるのだ。


 だが、このようになるのは仕方がないだろう。今日はもう12時間以上仕事をしていたのだ。


「……」

 残った作業は仕上げ。最後のブラッシュアップ。

 入念なチェックを行わなければいけないところだが、今の状態でそれを行うのはクオリティーを高めるという点においても難しいもの。

 今回の締め切りは明日の14時まで。

 一度寝て、起きてからの作業でも十分間に合うペースではあるが——。


「今日中に終わらせたかったな……」

 ボソリとまた呟く。

 彼女はまだ学生なのだ。

 つまり、今日完成できなかったということは、明日、金曜日の学校に遅刻してしまうということ。


 春休み期間中に仕事を入れ込みすぎなければ、こうなることもなかっただろう。

 しかし、少しでも多く活躍して、立派な姿を見せたいという欲が彼女には――小町紗枝さえにはあったのだ。


「明日は、もっと早起きして……頑張る」

 そう小声で意気込むと、上半身を上げる。

 そのまま半ば閉じたような黄色の目をPCに向け、慣れた手つきでスリープモードをオンにした。


 今日の作業は終了。

 眠たい目を擦りながら部屋の電気を消してベッドに倒れ込む紗枝は、枕元に置いていたスマホから通話チャットアプリ、LAINを確認する。

 今朝から開いていないLAINにはクラスグループからたくさんの通知が入っていた。

 そのLAINを軽く流し読んでいけば、昨日、一昨日おとといとあまり変わらない内容が話されていた。


『なあ、マジで俺らの担任の先生神じゃね? ヤバくね?』

『マジでそれな。優しすぎる』

『オレさ、遅れた課題を出しに職員室行ったら、部顧問が間に入ってきて死にかけたんだけど、期限を過ぎた課題だったこと隠してくれたんだぜ? 空先生』

『それエグすぎ(笑)』

『だろ!? 毎回庇うことはできないから、余裕を持って出すようにねって言われたんだけど、普通こんなこと言われないよな(笑)』

『優しい人が怒ったら怖いって言うから、空先生が怒ったらどんだけ怖いんだろ……』

『すっごい寄り添ってくれる先生だから、怒らせるようなことしたくないよね』

『ねー』

 このようなやり取りが30件ほど。

 始業式が明けてから、クラスで大きな話題になっているのだ。この新担任の先生が。

 まだ学校に登校していない紗枝は話についていけず、先生の顔も知らない。

 知っていることは、LAINで書かれたものだけ。


 大まかに挙げれば、わかりやすい授業をすること。優しい性格であること。融通を利かせてくれること。

 そして『空』という名前であること。


「……」

 今日もまた、担任を褒める内容を持つ内容を見た紗枝は——細い眉を中央に寄せ、表情を曇らせるのだ。

『いい先生なのにどうして?』なんて思うだろうが、これは個人的な理由。

 優しい担任がいい、というのは紗枝も望んでいることだが、似ているところが多いのだ。名前に関しては同じなのだ。


 ――感謝してもしきれない恩師と。


「空くん……」

 紗枝は無意識に考えてしまうのだ。

 優しいと噂される担任と、恩師の名前が同じであるばかりに――宝物の記憶が薄れてしまいそうだと。

 この大切な記憶が上書きされてしまいそうだと。


 中学時代、とあることで不登校になって塞ぎ込んでしまった自分を救ってくれただけでなく、高校に進学できるだけの学力をつけてくれた、さらには楽しく過ごした恩師との思い出を。


 今の仕事にありつけたのも、(家族を抜きにすれば)彼だけは笑わずに応援してくれたから。

 ネットに疎かった自分に、SNSの使い方を丁寧に教えてくれたから。

 イラストをお仕事にするなら、デジタルでも描けるようになった方がもっと幅が広がるはず。……と、数万円もする液晶タブレットをプレゼントしてくれたから。

 ——お金に困っているからこそ、家庭教師のバイトをしているはずなのに。


 その行動にお母さんも遠慮していたが、彼は『応援させてください』と気持ちのいい笑顔で答えてくれた。


「……」

 彼と出会えなかったら、中学時代と変わらず、今も引きこもりのままだっただろう。

 今、大好きなことをしてお金を稼ぐことはできなかっただろう。

 SNSを使って、液晶タブレットを使って、イラストを描くなど考えてもいなかったのだから。

 中学時代、大好きなこと——二次元の絵を描いていることが周りにバレてしまい、イジメられてしまった過去があるのだから。


 本当に感謝してもしきれない。彼との記憶を、彼の笑顔を思い出せば、顔がどんどんと熱くなってくる。


「……どんなに先生が優しくても、わたしの中だと空くんが一番だよ……」

 紗枝はスマホの電源を切り、布団を目の下まで被せる。

 誰にも聞こえていない声だが、一人恥ずかしくなり、さらに頬が赤く染まっていく。


「早く寝なきゃ……」

 そんな高校三年生、親が再婚したことで『野坂』という苗字から『小町』になった紗枝の仕事用SNS、イラストを主に投稿しているTwieetyツイッティーのフォロワーは脅威の40万人越え。


 今話題のVtuberのモデルイラストを担当したり、ゲームイラストを担当したり、ライトノベルの作画を担当したり。

 まだまだ成長段階の紗枝だが、その仕事は多岐に渡っている。


 PNペンネームはSaKu。漢字に直せば紗空。自分の名前と、彼の名前をこっそり入れたもの。

 あえてアルファベットにしている理由は、『こっそり』の通りバレないため。


 彼とはたくさんのこと、、、、、、、を約束しているのだ。

 その一つが、有名になったSNSアカウントを教えるというものだった。

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