異変

 その日は朝から六花ちゃんの様子がおかしかった。口数は少ないし、話しかけても無視されることが何度かあった。午後になると六花ちゃんは行きたいところがあると言い、僕をがらんとした街はずれの通りまで連れて行った。アパートから三十分と歩いていないが、今まで一度も来たことがない。六花ちゃんは通りの中でもひときわ寂れた廃ビルの前に止まった。

「ここです。来てください。絶対にゆうさんのためになりますから。」

 そう言って六花ちゃんは廃ビルの古びた扉を押し開けて中に入り、入口近くの階段を上って行く。ほこりの積もった階段を上る間、六花ちゃんは一度も口を利かなかった。

「着きました。」

 どこまで登るのだろうと思い始めたちょうどその時、目的地に着いたらしい。そこはビルの屋上だった。夏らしく痛いほどに日差しがまぶしい。

「こっちに来てください。」

 手すりも柵もない屋上の上を六花ちゃんはずかずかと進んでいった。風が無くて助かった。僕は高いところが苦手だ。六花ちゃんは屋上の端の方で立ち止まり、空の一点をじっと見つめていた。今までにもこんなことは何度かあった。こんなことというのは六花ちゃんがどこかを見つめてじっとすることであり、廃ビルの屋上に僕を連れてくることではもちろんない。原因を完全には把握できていないが、情報過多になると起こることがある。と以前六花ちゃんが言っていた気がする。僕と初めて会った時、僕にコーヒーをぶっかける直前にもこの現象が起こり、そのせいで躓いてしまったらしい。大抵すぐに治るらしいが、あの時はかなりひどかったようだ。高性能なロボットが躓くほどに。

 六花ちゃんがこちらを向いて言った。

「ここです。ここに立ってください。」

 六花ちゃんの目的が何なのか僕にはわからなかった。何か裏があるのだろうと思いつつも六花ちゃんに言われたとおりにビルの屋上の縁に立った。足を一歩踏み出せば落下してしまいそうだ。生暖かい風がかすかに吹き、怖くて足が震えた。六花ちゃんは何を考えているのか。


「ここで押したら死んじゃうねえ」

 後ろから六花ちゃんが言った。何かまずいことが起こっている。愚かにも僕はこの瞬間にそう気づいた。普段の六花ちゃんらしからぬ口調。思わず振り返ると六花ちゃんは気持ち悪いほどの満面の笑みを浮かべていた。

「私は六花じゃない。」

 六花ちゃんが言った。いや、六花ちゃんだったものというべきだろう。雰囲気だけでなく、声も少し変わっている。女の声だ。六花ちゃんの体の中には今別の何かが入っている。

「あら、呑み込みが早いね。」

 わけがわからなかった。こいつは誰だ。

「どういうことかというと今から君は突き落とされて死ぬんだ。突き落とされるためにこの子にここまで連れてこられたんだよ。」

 思考が追い付かない。恐怖と混乱で頭の中が真っ白になっていた。

「うーん、いまいち理解できていないな。最後だし君には丁寧に説明してあげるよ。」

 六花ちゃんを乗っ取った何者かは語り始めた。

「私の目的は君の父親、あの小汚い社長に復讐することだ。私の人生、価値観、家族、仲間をめちゃくちゃにしたあの男に。ただあいつを殺すだけではつまらないから、あいつの大切な人間に対してあいつが私にしたことと同じことして、その上で殺すことにした。ターゲットはあいつの妻、娘三人、不倫相手、その息子の計六人。そして、そのためのヒューマノイドも六体というわけだ。私は君以外の五人を見事に始末して、今まさに最後の仕事に取りかかろうとしている。これで理解できたかい?」

 すぐに理解できるわけがない。母さんの急死はこの女が原因だったのか?六花ちゃんは僕を騙していたのか?この女がされたこととは?疑問は尽きない。最終的に僕の思考はわかりやすい所に着地する。あの父親がそもそものきっかけだったのだ。僕の中には怒りが立ち上がってきた。理不尽に対する怒り。目の前の女に対する怒り。僕と母さんの人生を最初から最後までめちゃくちゃにするあの男に対する怒り。

「あはは、理解したみたいだね。賢い賢い」

 女は僕を小馬鹿にして大笑いしている。そもそもこいつは何者なんだ。六花ちゃんが度々口にしていた母とはこいつのことだったのか?怒りと混乱のままに僕は女にめちゃくちゃに言い返した。ほとんどは意味のない言葉だった。女は気分が良いのかいちいち僕の言葉に返事をする。

「足がつくだろって?それが狙いなんだよ。愛する者の死体の隣に壊れたロボット。あの男に私の存在を気付かせるにはちょうどいいじゃないか。」

 僕があいつの愛する者だって?ありえない。こいつは何を言っているんだ。それにロボット、つまり六花ちゃんがここで壊れる?

「この子を構成する重要な部分に無理やり割り込んでいるからね。廃人、いや廃ロボットのようになるんだ。私が抜けたらこの子はそれで終わりさ。ろくに口を利くことも出来なくなる。」

 廃人、廃ロボットという言葉が重く僕にのしかかった。ものを言わなくなった六花ちゃんの姿が脳裏に浮かぶ。嫌な考えを振り切り、再び意味のない問答を続けた。僕は無力で、できることはそれしかなかった。

「今から死ぬってのに元気がいいねえ」

 女が思いついたように続ける。

「そうだ、取引をしよう。君はあの社長つまり君の父親を殺すあるいは二度と元に戻れないくらいに傷つけてくれ。そうしたら君の命は見逃してやろう。ついでに、君の大切なこの子も元通りにしてあげるよ。どうだい?悪い取引じゃないだろ。君もあいつのことが嫌いなようだし。ぜひその元気を存分に活用してほしい。」

 できるわけがない。情けなくも僕は真っ先にそう思った。あいつはむかつくし気に食わないが自分の父親であることには変わりない。それに大企業の社長を簡単に殺せるはずがない。


「ごめんなさい。ごめんなさい。」

 六花ちゃんは目を覚ましてからずっとこの調子だ。何に対して謝っているのだろうか。僕に対して謝っているのだろうか、それともあの命令を下した母に対して謝っているのだろうか。きっとこれがあの女の言っていた廃人状態なのだろう。六花ちゃんは謝り続けること以外何もしなくなった。こんな姿になった六花ちゃんは見ていられない。僕に取れる手段は一つしか残されていなかった。


 僕は父親の会社に向かった。受付で大切な話があると伝えると簡単なボディチェックもされずにあいつのところまで行くことができた。エレベーターの中で懐に隠した包丁の感触を確かめる。六花ちゃんとの生活で何度も使った包丁。あいつと話すと気持ちが揺らいでしまいそうだったから一言も話さず、一発で決めよう。僕は覚悟を決めた。ドアを開ける。あいつは外を見ていた。ここは高層ビルの最上階だから、壁一面に張られたガラス窓から八月らしい雲一つない真っ青な空が見える。僕は走ってあいつに、父親に駆け寄る。足音で気づいたのかあいつがこちらに振り向いた。一瞬見えた顔はひどく暗く、目の下にはクマがついていた。構うものか。逆手に持った包丁をあいつの胸に向け、走る勢いも乗せて思い切り振り下ろす。しかし、らしからぬ素早さでとっさに後ろに下がられて包丁はあいつの太ももに突き刺さった。ずぷぷと生々しくて気持ち悪い感触が手に伝わってくる。包丁を強く握っていたせいで僕はあいつと一緒に倒れこんだ。包丁を抜いて止めを刺そうとしたがかなり深く刺さってしまっているせいでなかなか抜けない。どくどくと流れ出る血がぬめぬめして包丁を持つ手が気持ち悪い。

「お前も、お...も俺がちち...不満だったの...」

 あいつがうわごとのようにつぶやいた。もたもたしているうちに何者かに後頭部を殴られた。鈍い痛みとともに僕は気を失った。


 目が覚めると自分のアパートに戻っていた。刑務所でも警察署でもなくここだった。隣には電源につながれたまま椅子に座っている六花ちゃん。その目は僕の方を向いていた。六花ちゃんが元に戻ったのかもしれないと一瞬考えたが、よく見るとその目は焦点が合っていなかった。六花ちゃんは相変わらずごめんなさい。ごめんなさい。と繰り返している。家を出た時と何も変わっていない。僕は失敗したのだ。


 僕は完全に気力を失ってしまった。外は怖いし何もやる気がしないから一日中六花ちゃんの世話をしている。もっとも、六花ちゃんはロボットで電源さえつながっていれば身の回りの世話をする必要がない。だから僕は六花ちゃんの頭に積もったほこりを払ったり、毎朝服を着替えさせたりしていた。六花ちゃんが全く動かないせいで着替えさせるのは想像以上に大変だった。下着は面倒だったから、替えずにそのままだ。

 僕は自分が子どもの頃、託児所でいつも一人で人形遊びをしていた子のことを思い出していた。あの子の名前も顔ももう思い出せない。どんな人形で遊んでいたのか、何時ごろに遊んでいたのか思い出せない。どんな顔で、どんな気持ちで人形遊びをしていたのか思い出せない。あるいはあの子とは僕のことなのかもしれない。そもそもそんな子なんて存在しなかったのかもしれない。部屋は静かだったが、どこかで水が垂れる音と六花ちゃんの声だけが定期的に響いていた。


 お腹が空いた。喉が渇いた。電気も止まってしまっている。外は怖くて出る気にはなれない。僕と立花ちゃんどちらが先にくたばるだろうか、最近はそればかりを考えている。時計は遅々として進まないが終わりの瞬間はもうすぐそこにある気がする。ふいに玄関の方から足音と人の話し声が聞こえてきた。その音は僕に迫る現実のことを想像させてしまった。自分と立花ちゃんの将来を予想させてしまった。誰かがここに気づいて僕が捕まったり、死んだりしたら立花ちゃんはどうなるだろうか。間違いなく廃棄されるだろう。こんな状態のロボットのことを誰も必要としない。あるいは僕の犯罪の証拠品として頭の中をばらされるかもしれない。六花ちゃんがそんな目に合うのなら。僕は考えた。


 取れる手段は一つしかなかった。台所に行き包丁を取り出した。六花ちゃんとの生活で何度も使った包丁。六花ちゃんの後ろに立って包丁を逆手に持ち、六花ちゃんの頭部、記憶媒体が入っているあたりに狙いを定める。きれいなつむじだ。僕は既視感を感じて気持ちが悪かった。今度は失敗しないように。僕はこう思いながら包丁を思い切り振り下ろした。

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メイドロボと過ごした数ヶ月について ひよひよひよひよ @Hiyokoooo

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