後編

 死んだかと思った。という言葉は、実際には使っている暇がないなと信一郎は思ったものだった。きっと本当に死んでしまう時は、「あっ」と思った次の瞬間に、もう死んでいる。

 そんな気がした。

「……死んだかと思った」

 呟いてみる。

 呟きは、太一の耳に届いていた。

「俺の方が思ったわい」

 声は思いの外近く、むしろ、ほぼ背後と言って良い位置から聞こえてきた。太一が降りてきてくれたのか、自分があまり落ちずに済んだのかは分からない。信一郎は山を背にして空に向かって、宙吊りになっていた。

 返す言葉がない。ひどいなと笑おうとしたが、口が震えていた。足も震えている。地面についていないせいではないに違いない。下手をすれば失禁していたかも知れなかったが、幸いなことに股ぐらは乾いているようだ。

 という、そんなことをまず確認できるのだから、余裕はある方なのだろう。身体のどこも痛くなく怪我をしていないようだという確認より先に、股ぐらを気にできるぐらいなのだから。

 自分がどういう状態で助かったのかを把握したのは、それからだった。崖かと思うほどの傾斜に立つ木に、ザックが引っかかっているようなのだ。ようだ、としか分からないが、ザックが引っ張られているので間違いないだろう。信一郎が背中から落ちた為にザックが枝に引っかかり、半回転してぶら下がったらしい。引っかかったのがザック本体の下の方だったので、首が締まったりもしていないし、腕がすっぽ抜けなかったのも幸いだった。

 幸運すぎる幸運だった。

 身動きできないまま事態を把握した信一郎は、太一に肩越しに訊いてみた。

「……俺、動いて大丈夫やろか?」

 斜め上辺りから聞こえてきた太一からなら、信一郎の背中とザックが見えているはずだ。木の大きさも枝の強度も見えない以上、引っかかっているザックが外れやしないかと危惧される。下手に動いて外れてしまったら、今度こそ止まりそうな場所が足下に見あたらない。

 そっと足を動かして地面を踏もうとしたものの、落ち葉と雑草が密集していて滑ってしまい、どうにも踏ん張れなさそうである。背後の木に掴まりなおして、懸垂で上がるしかないと思われるが、そんなことをして落ちないとも限らない。

「ちょっと待っとれ」

 言葉通りに大人しくしていたら、目の前にロープが落とされた。何やら器具まで付いている。

「そのカラビナをベルトに引っかけろ。引っかけたらザックから手を抜いて、捨てて上がるんや」

「え?」

 思わず聞き返した理由は、カラビナなる用語が分からなかったからではない。ザックを捨てろと言われたことだ。

 太一は、信一郎の疑問を悟っているかのように答えてくれた。

「ザックは枝に引っかかっとる。引っ張れば行けるかも知れんが、お前を引き上げるのに重いから捨ててくれ」

 信一郎は固まった。

 落ちた行為が、どれほど危険だったかは分かっている。つもりでいる。が、まさかザックを捨てなければ助からないとまでは思えなかったのだ。

 太一はこともなげに、さらりと言ってのけている。山では当然の措置らしいと伺い知れる。それはそうかも知れない。ザックより命だ。当たり前だ。

 当たり前なのだが……。

 信一郎は黙ったまま、カラビナと呼ばれるフックをベルトに引っかけて腰を固定し、肩をぶら下げてくれているザックに、後ろ手で触れてみた。信一郎のザックは20Lというサイズである。軽登山用で、しかも日帰り分しか荷物を詰めていないので実際、重さは5kgもないだろう。どれほどの負担にもならないはずだ……と思いたい。

 助けてもらうのに贅沢な話だが、どうしても信一郎はザックを手放したくなかった。

「ロープだけ確保していてくれないか? 自力で登ってみる」

 信一郎ははっきりと告げて、それからザック伝いに手を伸ばして枝に触れた。ザックに這わせた手に堅く尖ったものが当たる。ザックの中身が尖っているのだ。それが枝に引っかかって、ザックと背中の間に枝を押し込んで、信一郎を助けたのだと分かった。

 ザックの中身が、俺を助けてくれた。

 分かった瞬間、信一郎は胸の詰まるのを感じた。

 今は泣いている暇ではない。とにかく上がらなければならない。ロープがぐっと引き上げられるのを感じて、信一郎は背後の枝を掴んだ。懸垂の要領で身体を持ち上げる。背中から枝が離れるのが感じられた。ザックがふっと緩まった。

 外せる。

 登れる。

 太一の怒号が降ってきた。

「阿呆、早ぅザック捨てろや! 枝がしなっとるぞ」

 信一郎が枝に体重をかけたせいだ。だが折れる感じはしなかった。そう信一郎が思いこんだだけかも知れなかったが、身体を反転させて枝から幹に移るまで、枝はしっかりと彼を支えてくれていた。

 幹に身体を預けて足場を探し、踏み込んで立ち上がる。草葉の下に隠れていた岩が、ぐっと信一郎を持ち上げた。もう安心だ。だが気を抜かず、信一郎は最後の一歩まで確認しながら稜線へと戻ったのだった。

 その距離、約二メートル。いや、そんなにもなかったかも知れない。わずかしか落ちなかったのだ。太一も、すぐ側にいた。だが、このほんの二メートルが明暗を分ける。

 信一郎は自分がどれほどの大冒険をやらかしてしまったのかを、しみじみと感じた。そして、どうしても捨てられなかったザックについて、真っ先に太一に謝罪したのだった。

「すまん!」

 登りきって、まだ足が崖に残っているうちから信一郎は謝っていた。

「ザックを捨てられなくて、迷惑をかけてすまなかった。どうしても……いや」

 言い訳をしかけて、口をつぐむ。

 いきなり言い訳をしようとしたことが男らしくないと思った為もある。言い訳の内容を口に出すのが、はばかられた為もあった。

「俺は今、お前を殴りたいのを必死で我慢しとる」

 太一がロープを片づけながら、低く呟いた。彼は稜線の際に立つ大木にロープを巻き付け、自分にも巻き付けていた。信一郎を引き上げる為に、どれほどの労力と手間がかかったのかが伺われる準備がされていたのだ。

 人一人の命が、こんなにも重い。想像や理想論でなく、事実として、物理的に重さを実感する。ベルトからカラビナを外してロープを返すものの、うなだれるのが精一杯で言葉が出ない。

「取りあえず、あそこまで行こか。ここは狭いで、立っとると迷惑や。景色の良ぇとこ連れてったるし、存分に釈明せい」

 怒りの色を隠しもせずに太一は吐き捨て、すたすたと歩き出した。足に迷いがなく一定な辺りはさすがだな、と変なところで信一郎は感心したのだった。どれほど頭に血が昇っていても、足下が冷静な辺りが太一らしいと言えば、らしい。

 鬱蒼と攻め寄ってくる両脇の樹木が、ふっと途切れた。足場が岩だらけになり、手を使って乗り越える。信一郎の足にも何の違和感もないのが、歩いてみて実感できた。つい先ほど死にそうな目に遭ったというのに自分が平然としているのが、何だか可笑しくもある。ザックの中に想いを馳せている為と、それから姿が見えなくなってしまいそうな太一を必死で追いかけているせいだ。

 太一が立ち止まっていた。

 岩と岩の間を縫うようにして、その先を顎でしゃくって、信一郎に行けと命じている。太一の側の岩を乗り越えて見て、信一郎はため息をつきかけた。

 美しい。

 空を背景とした、稜線からなる山の景色が広がっていたのだ。斜め手前の山肌に小さく、ロープウェイの動いている様子が見える。まだ、山頂ではない。だが大きな一枚岩が、まるで舞台のようにどぉんと鎮座していて、そこに座ってこの景色を眺めろとでも言っているかのようであった。

 森の中を歩いてきた信一郎が目にするには、広大すぎる景色だった。あまりにも近いのに、あまりにも広くて大きい山の迫力に、圧倒される。

 引き寄せられるように、信一郎は岩の上に座った。その横に太一も座り込むが、それでも岩は、まだ広い。すぐ下が崖のような斜度だが落ちる気はせず、ぎりぎりの端まで寄って、景色を眺められた。

「良ぇ景色やろ」

「うん」

 互いにポツリと呟いてから沈黙が訪れる。ザックを下ろした太一が水を飲み、口を放してから言葉を発した。

「なんでザック捨てへんかったんか、俺を納得させてみろ」

 挑まれて睨まれて、至近距離の太一が見られなかった。信一郎もザックを下ろして、まずは水を取り出した。一口含むと、生きた心地がした。ずいぶんと喉が乾いていたらしい。道理で股ぐらも乾いているはずだ。

 と、くだらないことを考えて口元が緩んだ。

 それから信一郎は、ザックに入れていて堅い品物を取り出した。これが引っかかったおかげで助かった物だ。

 モノクロの写真を納めた、大きな額縁である。

 妻の遺影だ。

 いつ撮ったものだったかは、はっきり覚えている。一昨年の秋、近所のコスモスを観に行った時に信一郎が撮ったのだ。はにかむ笑顔で照れくさがる妻に、ほら笑ってと指示をして撮った。五枚も同じ写真を撮って、一番良い笑顔のものを選んだ。

 滅多に撮らせてくれない、写真嫌いだった妻の笑顔は、希少だ。遺影には背後のコスモスもそのままにしてもらい、一緒にモノクロ加工を施した。普通は人物だけを取り出して遺影にするものらしいのだが、この写真には、いや、妻には、この秋の桜がセットである必要があったのだ。

 太一が激高するかと信一郎は覚悟して、額縁を取り出した。だが太一は黙って両手で受け取り握りしめ、じっと額縁の中をのぞき込んでいる。

「……怒らないのか?」

「……怒れるか、阿呆」

 気が抜けたかのような、太一の溜め息。出した瞬間に信一郎は、どうしてもっと小さな写真にしなかったのだと叱られるのではないかと想像した。しかし太一は何も言わず、だが何を考えているのかは分からない複雑な睨み顔で、信一郎の亡き妻を見ている。

 どう話しかけて良いものかという信一郎の逡巡が終わるよりも先に、太一が額縁を返してくれながら応えてくれた。

「カミさん、良ぇ顔しとるな」

 妻の笑顔が伝染ったかのような、はにかんだ彼の笑みに釣られて、信一郎もほっと息をついたのだった。


 さて、どうする? と訊かれて、迷うことはなかった。

 太一も、信一郎が引き返すとは言わないと、分かっていたかの聞き方だった。と信一郎は思った。

 この先は岩場が多くなり、難所のキレットも出てくるから気を引き締めろよ、と太一が笑う。笑いながら言われても、楽しそうにしか思えない。

 それに足の力だけで登るより、岩を掴んで腕の力も使った方が登るのが楽だ。信一郎は背負いなおしたザックの紐をぐっと引っ張り、身体に密着させた。背中の高い位置に固定され、ザックの重みがなくなる。一体化したかの気分になった。よし、と背伸びをした。

 時々樹林に潜り込み、また開けた場所へと出る。二・三カ所抜けると、彼の言った「キレット」なる岩場が姿を現した。そびえ立つ……では、ない。そこは覗き込まなければ見えない、下りの岩壁だった。

 六合と書いてある看板を見ながら、岩の際に立つ。眼下に、数メートルはあろうかという崖が待ち受けていた。鎖がぶらさがっている。他の登山客が皆、鎖に掴まって降りている。ここまでで良いやと泣き笑いで諦めている若者の言葉も聞こえてきた。彼らの足には、普通のスニーカーが履かれていた。

「山を舐めると、痛い目ぇ見るで」

 彼らに聞こえないように太一が、ぼそっと言った。が、すぐに息をついて、こうも付け加えたものだった。

「だが必要以上には、恐れんでも良ぇ。山は、ここにおるだけやからな」

 太一の山に対する主観は、あっさりしたものだ。先に降りている中に、子供もいる。子供を指さして、太一は「ほら」と言う。

「あんな子でも降りとるんや、三点支持さえ守れば怖ぁない。子供は柔らかいから、スニーカーでも良ぇんや」

 そういうものなのかと感心しながら、ひょいひょいと、まるでカモシカのように降りていく小学生の勇姿を見下ろす。

「ああいう子が山に来てて、山を好きになってくれると嬉しいよな」

「……ああ、そうやな」

 同意を求められて相づちを打ったが、言葉の意味を飲み込んだのは、それからだ。飲み込んでから、やはり息子たちを連れて来たいな、と思ったものだった。

 だが息子たちの足では、もうスニーカーは無理だろう。ちゃんとした山靴を買ってやって……と息子の姿に似合いそうな靴を想像してみて、それが妄想であることに少しだけ落胆する。勝手に買って送っても、きっと彼は山には来ない。

 というか、もし本当に贈るなら、家族全員の靴を買ってやるべきだろう。駄目で元々、今度サイズでも訊いてみれば良い。

 山と同じだ。

 一歩一歩だ。

「さて、行くか」

 先行の者が降りて鎖が空いたので、太一がさっさと降りる。後続の者も並んでいる有様だ、ぐずぐずはしていられない。だが焦ってもいけない。

 信一郎は慎重に的確にと心がけて、ひとつひとつの足の置き場を確認しながら降りた。鎖に体重をかけるなと教えられて、手を添えるだけにする。基本的には岩を掴んで三点支持で降りるのだと太一は言う。

 そういうものかなと思った時、上から降りてきていた後続の男性が「うわっ」と揺れた。鎖に掴まっており、身体が左右にぶれている。なるほど、こういうものか。と納得が行って、信一郎は思わず笑いそうになったのだった。

「大丈夫ですか?」

 手を添えてやる。そのぐらい、余裕があった。

 身体を安定させた男が、すみませんと小さく頭を下げて足を止め、信一郎が降りきるのを待ってくれた。自爆も許されない山の事故だが、他人を巻き込むのは、もっと許されない。

 信一郎は岩を降りきって、男性に気をつけてと声をかけ、先に進んだ。狭い場所だ、立ち止まっていては迷惑になる。

「やったな」

 太一が振り返って笑う。大偉業を成し遂げた実感は、なかった。普通に皆が進んでいる道だったのだ、それを自分が降りれたことぐらいなんでもなかった。

 と、思っていたが。

 じわじわと。歩いているうちに、キレットを降りきったという喜びが、こみ上げていた。

 かなり緊張していたのだ。今とて気を抜いてはならない、他ごとを考えていては足を滑らせる状況にあるのだが、だが、あの岩を降りたのだから大丈夫だ、という自信が身体から沸いているのを、信一郎は感じていた。

 先の道に、不安はなかった。あと少し、もう少しと自分に言い聞かせ、ルートと地形と景色を見ながら先へと進む。景観を楽しみながら、道も楽しむ。上がる息を整えて水を飲み、息をつく。生きている実感を得ながら、山肌を眺める。

 ああ。

 俺は生きているんだなぁ。と、おもむろに思った。

 背中が軽い。背負っている額縁の重さは、もう感じない。自分を助けてくれたアイテムでもある。俺は、これを背負って生きていくのだと思った。妻の笑顔が胸によみがえった。ふわりとコスモスが揺れる。

 草木をかき分ける。梯子が出現した。とはいえ、ほんの数段だ。だが数段とて油断はできない。しっかりと掴んで、踏みしめる。点検を済ませたばかりらしい梯子は新しくて綺麗で、丈夫に作られている。こうした整備をしてくれてあるから安心して登れる。

 信一郎は梯子を一撫でしてから、次に進み……と、思ったら。

「着いたで」

 太一が立ち止まり、信一郎に振り向いていた。手を差し出してくれている、それを信一郎は「いや、いい。大丈夫や」と断った。太一は微笑んでいる。

 信一郎は、自分の足で、登りきった。

「……着いたんか」

 呆けた。

 まだ山頂ではない。アスファルトの道路に出たのだ。だが、ここが登山道としての終点らしい。見ると看板が出ていた。

「中道登山道」と矢印付きだ。細くて、やもすれば見落としてしまいそうな入り口である。登る人間だけが見つけられる入り口のように思えて、なんだか誇らしかった。

 登山客が次々に上がってくる。二人は看板の側で写真を一枚撮った後、道路を上にと歩き出した。

「せっかくやで三角点も拝んで行くで」

 太一が指さした先に、山頂がある。それはもちろんだ。どうせなら山頂まで行っておかないと。だが。

 信一郎の登山としての物語は、すでに終わっていた。ここからはオマケ、ご褒美のように思われた。アスファルトの道が、むしろ山靴には歩きにくい程度の試練しか感じない。いや、こんなことを試練と呼んでは登山道に失礼だ。

 冬にはスキー場になるのだという開けた草原を登っていくのも、気持ちが良かった。晴れ渡っていて遠くまで見渡せる。暑いほどだった。いや、もう、すぐ夏になる。浮かんでいる雲が、わずかに立体的になっている。

 観光用リフトなるものも通っていたが、あまり誰も乗っていない。そりゃそうだろうなと思えた。気持ち良い原っぱだ、歩かなければもったいない。

「あそこや」

 立派な看板が見えた。

 近づくと、その側に小さく三角点なるブロックもあった。これが真の山頂だ、と太一が触れる。信一郎も三角点を撫でてみた。ここまで来たのだなという感慨が生まれた。

 山頂付近は公園状態になっていて、あずまやもベンチも揃っている。休憩には、もってこいの場所だ。さっそく腰を落ち着けて、持ってきた弁当を広げた。太一はバーナーと呼ばれる小さなガスコンロを取り出して、これまた小さなコッヘルなる鍋を置き、水を入れてラーメンを作り出す。

「良いな、それ」

 笑うと「せやろ?」太一も笑う。

「山に来たら、これが一番の御馳走や」

 袋ラーメンをバリッと開けて、沸いたお湯に入れる。やたらと美味そうで、一口くれと頼んだものだった。信一郎のコンビニお握りは、落ちた時の騒動ですっかり潰れていたのである。

 ラーメンの暖かさが、身にしみた。

 暑いと思っていたが、身体の芯は冷えていたらしい。

 ラーメンをすすりながら、太一がぼそりと呟くのが聞こえた。

「……帰ったら、ちとカミさんと喋ろかな」

 一瞬、信一郎は聞こえなかったふりをしようかと思ったが、やはり、返した。

「おう。そうせい」

「……おう」

 太一はラーメンを作った後、別のコッヘルで湯を沸かして、コーヒーも作ってくれた。ほらと差し出されたカップを、太一は二つ持っていた。信一郎の分も持ってきてくれたのだ。

「用意が良いな……ありがとう」

 入れたてのコーヒーが、これまた胃に沁みる。心に沁みる。山の飯の美味しさが、身体に染み込むようだった。

「どうだ?」

「ああ……」

 質問の意味を飲み込みつつ、言葉を探る。

「……また、来たいな」

「そら良かった」

 端的な回答の意味を、太一もすぐに飲み込んでくれた。

「ほな、また来週な」

「いきなりやな」

 笑ったものの、来て来れないことはない。本当に来週も来そうだ。それならそれでも良いなと思った。また、この御在所の道を歩くのも良いだろう。もしくは他の登山道もあるし、隣の山も良いのだと太一は言う。

「鎌ヶ岳もな、なかなかのくせもんなんや」

 曲者が好きなのか? と笑うと太一は、いや、そうでもないけどなと、はにかむ。どんな山でも登れば楽しい。登れば分かるで。と言う、太一の言いたいことは、まだ一つしか登っていない信一郎だが、分かる気がした。

 アルプスも良ぇんやでぇと太一の夢が膨らむ。と同時に信一郎の未来も広がる。まだ何も終わっていない。これから、今から開いて行くのだ。

 信一郎は自分のやってみたいことが、どんどん出てきそうな予感を覚えた。


 さぁ帰りもしっかりキツいで、気合い入れて行くでと言われて降りた道も、やはり楽しく。足首を捻挫しやすいから気をつけろと教えられて、登り以上に慎重にしっかりと足を置かなければならない場面も多かったが、それらも降りきってしまえば、夢のように楽しかった時間でしかなく。

 降りて、温泉に入って汚れを落としてサッパリとしたら、まるで本当に夢だったかの気持ちになっていて……信一郎は、それが夢ではなかったことを確かめたい気持ちで、すぐにまた登りに行きたくなっていた。

「お前も、せっかちやな」

 信一郎が心境を告げると、太一に笑われた。

 が、「俺もや」と言われて、安堵の爆笑を交わす。山馬鹿仲間が増えて良かったわという太一の冗談は、きっと本音だ。馬鹿の仲間入りを証明する為にも、来週も登りたいものだと思ったものだった。

 まだ日が高い中にそびえる山の稜線が、昨日までとは違って見える。どの辺りに、どんな道があったのかが、思い出される。あの線に向かって進み、そして、あの線の上に乗りたくなる。

 なぁ、良子。

 信一郎は内心で呟く。

 お前を背負って俺は登る。お前がおったからこその、今の俺やからな。

 妻の人生を背負う、などという偉そうな生活ができていた自信はないが、少なくとも遺影を背負って登頂できたことは、信一郎に何らかの影響を与えていた。

 一歩、一歩。

 今後も続く人生の為に。

 何も捨てない。

 すべてを背負って。

 だが重くなどない。

 身体に密着させて。

 一体と化している。

 今夜の酒は、昨日とは違ったものになるに違いない。

 暮れゆく稜線には、二人で歩く姿が見えるに違いない。


〜fin〜

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