あなたと山を

@rinyanzet

前編

 新村信一郎が妻に先立たれてから訪れた、最初の初夏。夕暮れの薄闇が空に張り出すと、彼の心も自ずと薄暗く翳る。赤から紫に色を変えてゆく空のように、信一郎の胸中も暗くなる。

 定年後の楽しみは、縁側に座り、夕陽が稜線に消えてゆくのを肴に、二人で猪口を酌み交わすことだった。その相手がいなくなった一人の酒は、不味い。

 早期退職に志願したのは、早く楽になりたいこともあったが、妻の容態が心配だったためでもある。寝たきりにはなっていなかったし、話す内容も明確だったが、それが為に、明確に盛大に間違ったことを言い出すので恐ろしかった。いつ何をやらかすか分からない彼女を放っておけなくなったのが、最大の理由だ。介護認定も受けてはいたが、大したサービスは受けられなかった。

 定時に帰り、時には早退も辞さない信一郎が会社にしがみついていなければならない理由は、早期退職による退職金の金額が、あっさり氷解させたのである。

 なのに。

「こういうもんやんなぁ、人生ってのは」

 晩酌と呼ぶには早い酒を手にして、信一郎が呟く。これからだと気合いを入れた矢先に、第二の人生の目標と定めていた筈の相手がいなくなってしまっては、一人相撲も良いところだ。

 まるで、あなたに迷惑は掛けられないわと言われた気がした。

 臨終の夜は、桜が吹雪いていた。彼女はまるで、桜の精に連れて行かれたかの思いが湧いたものだ。病院でなく、この縁側で、自分の側で息を引き取ってくれたことを、俺は誇りに思うべきなのだろうか?

 思える訳がない。

 もし病院に連れて行ってれば。

 もし、もっと早くに退職していれば。

 もし、介護の依頼を最大限に増やしていれば。

 もし。

 後悔は尽きない。

 俺は努力しただろうか。

 良くしてやれていただろうか。

 あいつは幸せだったのだろうか。

 考えれば考えるほどに酒が進み、そして不味くなる。不味くなるほどに飲みたくなる。これでは駄目だと分かっていても、酒の力に頼って何もかもを忘れたくなる。

 そうだ。俺が認知症になれば良かったのに。などとも思った。

 いや、そうしたら、あいつが苦労をするはめになっていた。俺のシモの世話などさせないで済んで良かったのだ。あいつのシモは……。

「いや。ちっとも、苦労なんかあらへんかったよ」

 言い訳するかのように、慈しむかのように。暮れて涼しくなった夕闇に向けて、信一郎は息をついた。鈴鹿山脈に日が隠れ、稜線が紫色の影を浮かべている。

 ふと思い出した。

 生前、妻が登山をしたがっていたなぁ、と。

「今度、今度って! あなた、そればっかり」

 耳元に、妻の声がよみがえる。まるで今しがた言われたばかりのように、鮮明に思い出せる。困ったものだ、近頃は昨日何を食べたかすらも忘れるというのに、こうした、心に響いた嫌な言葉ばかりが、脳裏にこびりついて離れない。

 彼女は呆れたような困ったような、それでいて冷ややかで怒っていて……美しかった。

「思い立ったが吉日って言うじゃない。定年を待っていたら、あなた足が上がらないわよ。最近、お腹も出てきたみたいだし! ちょうど良い気晴らしにもなるわよ」

 もし早口選手権などがあったなら、妻は優勝できたのではないだろうか。そんな馬鹿なことを、小言を聞き流しながら考えていた。四日市弁に染まらない彼女の流暢な標準語は、声の美しさもあってか、いつ聞いても心地よかった。

「あなた! 聞いてるの?」

「聞いとるよ」

「聞いてない」

「なんで分かるんや」

 今度こそ本気で呆れられる。

 だが心のどこかで、いつも妻が苦笑して折れてくれることに甘えていた。この時だって結局は、ここで話が途切れたはずだ。風呂が沸いて、俺は早々にパンツを握って風呂場へと避難したのだったように記憶している。

 信一郎は彼女の苦笑を思い出しながら、また猪口を傾けた。

 定位置を占めていた縁側の左半分には、主を失った座蒲団だけが干されている。彼女が愛用していた猪口も置いてある。そこに気持ちばかり酒を注いでから、信一郎も自分の猪口に酒を入れる。彼女に一滴、自分に一杯。彼女の減らない酒が猪口を一杯にしたら、それを飲み干して自分も終わる。そんな飲み方を覚えて、二ヶ月が経っている。


 などと物思いに沈んでいた自分が、つい先週のこととは思えない。と信一郎は、滝のように流れる汗を拭きもせず、歯を食い縛りながら「なんで、こんな目に」と自問する。

 人聞きの悪いこと、この上ない。自分が行きたいと言ったのだ。酒の勢いで。

「新村、大丈夫か?」

 大丈夫じゃない。と言いたい。

 すたすたと歩く健脚の主は信一郎より二つ年上、同じ退職仲間だ。たまたま用事のあって行く予定の町が彼の家の側だったので、連絡を取ってみたところ、じゃあ一杯という話になり、山の話題になり、登ってみたい気がすると発言したところ、登らされている現状に至る。

 友人と呼べるほど親しい仲ではなかったはずだが、同じ時期に早期退職をしたせいか、いやに親近感が湧いたものだった。彼が住む町に訪れた理由も、己の背中を押していたのだろう。

 理由。シルバー人材派遣への、登録だ。

 せっかく辞めたくせに、すぐまた就職したいだなんてと彼に笑われ、信一郎は事情をこぼしたものだった。昭和然とした居酒屋の雰囲気がまた、しけた話題にピッタリだったものだ。

 妻に先立たれてね。そう、ポツリと呟いただけで察してくれた彼に感謝しつつ、杯を傾ける。すると。

「実は、俺もなぁ……」

 彼もポツリと呟くではないか。

 酒の席というものは、いつもは重くなる口をも軽くするものだ。たまたま近くに寄ったから、などという理由で会いたがった信一郎に付き合ってくれた、彼の内情も近いものだったからこそ、会ってくれたのだ。

「カミサンとのんびりするつもりで辞めたら、カミサンまで主婦を辞めたいとか言いおってな」

 つまりは、熟年離婚の危機にあるらしい。

 とにかく家にいると邪険にされるので外出するしかなく、だが下手な場所に行っても金を使うばかりなので、どうしようかと悩んでいる。などといった話である。

 せやから昔とった杵柄で、ちょいと山でも登ろかと思てな。

 ガハハと笑う元先輩社員の横顔が、やけに淋しげに見えた瞬間。信一郎の口から「俺も」と言葉が飛び出ていたのである。

「俺も登ってみたいな思っとったんですよ」

 先だった妻が御在所に登りたがっとったんですわ。そう言った時、全ての方向性が決まったのだ。


 学生時代から数えて五年ほどやったかいな。と笑う元先輩社員、後藤太一に連れられて、翌日さっそく靴を買いに行った。太一もが新しい靴を買い直す必要が出た為、善は急げとばかりに翌日となったのだ。

 十数年ぶりに陽の目を浴びた山靴が、さぁ試しばきをと足を入れて踵をコンクリートに打ち付けた途端、砕けたのだ。その日すぐに信一郎に自慢してくれようと出した、年期の入っていた靴は、見事に主人の期待を裏切った。

 靴底のウレタンは、劣化しやすい。ずっと履いていなかったことも、拍車をかけていた。

「でも山で壊れたん違ぅて良かったわ。これは山の神さんが、買い直せってぇお告げをくれたんや」

 ふんぞり返って言い切る辺りが、図太い。靴が壊れたことを、信一郎なら、俺の手入れが悪かった為にと悔やみそうなところだ。だが太一は非常に楽天的な男だった。

 彼の口から出た離婚の云々でさえ、夢ではないのかと言いたくなる軽快さである。それが彼の処世術なのかも知れない。重苦しい事情があろうとも、重いようには振る舞わない。同情されたくないからか、自分が重さを感じたくないからかは推測の域を出ないが、そのうち、訊いてみたいなと思う。

 信一郎は、あまりにも自分から背負い込むタイプである。

 持たなくても良いものまで抱えて途方に暮れて、周囲に呆れられることも、しばしばあった。総務の課長を十年も続けると、他の何者にもなれなくなっていた。

「経歴は悪くないのですが、これといった特技をお持ちではないようですねぇ……」

 そんな溜め息をつかれた人材派遣会社の窓口に不快感を持ち、スカッとしたくて太一を訪ねたのだ。再会が身を結んで山行へとつながったことは、ある意味では正しい流れであった。

 どうせなら一番良ぇもん揃えとけ。そう言われて、万札が何枚も消えるほどの買い物をした。何しろ山道具は高い。それだけの性能がなければ生きていけない過酷な環境なのだと言われている気分である。それに、それだけ買えば後に引けないという気合いも入る。

 山靴、ウェア、ザック。地図とコンパスまで揃えた。一通りは持たないと気が済まない性格だ、見た目だけは立派な登山家と化したものだった。歩きだすまでは。


 太一を迎えに行って駐車場に入り、用意を整えて登山口に向かい、さていよいよと歩きだす、最初のうちこそ良かった。新緑の時期は終わったものの、朝一番から登りだす山の緑に包まれて、森の住人を気取った。

 だが実のどころ山は、そんなに甘くない。頭では分かっていても、よく、そうした言葉を耳にはしていても、やはり、どこかで舐めてかかっていたのである。綺麗に舗装されたアスファルトのハイキングコースを歩くかの気持ちを持っていたことは否めない。舗装とまでは行かなくても、きっと、とても歩きやすいように整備してくれている、老人向けの散歩道だと、そんな風に思っていた。

 信一郎はすぐに、自分が「山歩き」でなく「山登り」に来たのだと、実感させられた。公園を散歩するような、神社や名所史跡を巡るような歩き方とは、まるで次元が違う。敷いて言うなら、アスレチックだった。ロッククライミングと呼ぶほどのものではないのだろうが、だが普通には歩けない。

 木の根や岩を掴み、よいしょと足を振って身体を持ち上げなければならない。すぐに、太股が悲鳴を上げだした。いつもは眠っていた筋肉が、突然ハードな仕事をさせられて不平を漏らしている。

 とてもではないが、周囲の景色を楽しむ余裕もない。足下を見据えていなくては、滑ったり、つまづいたりなどしそうで怖い。

 今回、山用品の買い物をしていて、店のパンフレットなどを見るにつけ、山経験の有無を問われるページに首を傾げたものだった。一人では行くななどとも書いてある。山に対して、そんなにも専門知識などが必要なのだろうか? と感じたのだ。

 こう言っては何だが、信一郎は、登山をする高齢の人種のことを、そこらを往来している老人や主婦らのお金を費やせない層が、せめてもの旅感覚として山に行くのだと思いこんでいたのだ。アルプスやら富士山やらの名のある山となれば話は別だろうが、たかが地元の山である。毎日のように眺めていた低い山に登るぐらいなら、どうせなら名物なども食べられて面白いところに行った方が良い。

 と、思っていた。

 信一郎は心の底から反省し、それらの層に向けて謝った。内心で、平謝りだ。

「よっしゃ。ここらで休憩しよか」

 彼が声をかけてくれたのは、まだ登りだして三十分も経っていない場所だ。道が開けて展望が良い。だが立ち止まる者は誰もない。まだ休むには早すぎるのではないだろうか?

 御在所で一般的とされている、ファミリー向け登山道と書いてあったはずなのに……と、信一郎は顔から火が出る思いがした。いや実際に火が出ているのではないか、と思われるほどに熱い。

 信一郎は太一にも、口に出して謝った。

「すまん」

「なんの」

 太一がカラカラと笑う。否定もフォローもしないということは、やはり休むには早すぎるポイントなのだろう。だが信一郎の足はすでに重く、わずかに上げることすら困難だ。

「ここが良ぇ」

 指定された岩によっこらしょと腰をかけると、身体も重かったのだなと実感する。ザックを背から下ろすと、まるで羽が生えたかと感じられる。背中が涼しくて軽い。

「ほれ、水。こまめな水分補給せぇへんと、疲労蓄積するんや」

 酸素が足りないからだとか何とか言われたが、その辺りは自分が水を飲む喉の音に阻まれて、聞こえなかった。最近は耳も遠くなったよな、などと思う。

 ペットボトルから口を放して、太一を見上げる。彼は立ったままだ。

「すまん、何やて?」

「いや別に、えぇよ」

 繰り返すほどの内容でもない場合、太一は発言を面倒がる。先日、酒を酌み交わして感じた、彼の癖であった。逆に信一郎は、よく人の言葉を聞き逃してしまうため、聞き返すことが一種の癖になっている。

 一度で聞き取りたいのに聞きそびれてしまう信一郎と、相手に届かずとも言葉を紡ごうとしない太一。互いを足して二で割れば、ちょうど良くなるかもなと思ったりなどもした。

「いっぺんに飲み過ぎんなや。山に便所はあらへんでな」

「そんなん……」

 分かっとると反論しかけて、口をつぐむ。伝えねばならないことは明確に喋ってくれる太一の厚意を、無駄にしてはならない。

「……そうやな」

 考えなおしたのは、小ならともかく、もし大をもよおしたりなどしたら確かに大変そうだと想像したためだ。しかも、そうした想像などしてしまっては、なかったはずの便意が感じられてくる。

「あと足も叩いとけ。乳酸が溜まっとるんを散らすんや」

「なるほど」

 言われて素直に、太股を叩く。どこをどれぐらい叩いたら良いかは、身体が教えてくれた。気持ちの良い場所というのは、専門知識でなくとも自然と分かるものだ。腕も叩いた。腕力がなくなっているなと、つくづく感じる。

 五分ほど、そうしていただろうか。そろそろ立った方が良いのか、いや、まだ休んでいても大丈夫かと逡巡する信一郎に、いきなり太一が提案したのだ。

「帰るんなら、今やで」

 登りに費やしたのは三十分、ここからなら二十分歩けば帰れる。だが登るとなると、まだまだ一時間半か二時間は、かかる。

 それだけの体力がお前にはあるかと訊ねられているのだということは、頭では分かっている。つもりだった。

「帰らへんわっ」

 語気の荒くなった自分の声に、自分で驚いたほどだったのだから、太一が目を丸くするのは当然だっただろう。

「いや、ゴメン。大丈夫や。せっかく来たんやで、登りたい」

「せっかく言うても、山は逃げへんで。初めて来たんや、無理するこたぁない」

「それは、そう……なんやけど」

 同意しかけて、否定で言葉尻を濁す。ちょうど、すれ違った登山客に太一が「こんにちは」と声をかけたところだった。若い男女五人衆だったが、彼らは全員が気持ちよく「こんにちは!」と会釈して、スタスタと登っていく。

 そのうちの一人が、信一郎に言った。

「この傾斜を登ったら、ちょっと楽になりますよ」

 教えられて、前方にそびえる岩と根っこの傾斜を眺める。どこまでも続く、そびえ立つ壁に見える。信一郎を励ましてくれた若者は、少なくとも一度はこの道を登ったことがある、ということだ。

 信一郎は一度ぎゅっと目を閉じて、開けて、景色を眺めた。四方を木々に囲まれていて、鬱蒼としている。だが全体に行き渡っている太陽の光と熱がすべてに反射していて、生き生きとして見える。

「登りたい」

 生き生きとして見える、この坂を登りきったら自分の何かが変わる気がした。

 妻がなくなり仕事もなくなり、自由になったといえば聞こえは良いが、実際には自由など少しも満喫しておらず、シルバー人材派遣にしがみつき、また元の生活を取り戻そうとしている自分がいる。

 元になど、戻るべくもないのに。

 戻すのではない。

 進むのだ。

 その思いが、彼を山に登らせたのだ。と、休んでいたら、そう思えていた。

 登れる道がそびえている。山頂から見下ろす自分の軌跡は、どんなものに見えることなのだろう。景色が開ける瞬間を、体感したい。

「今日これを登らんかったら、この先も、ずっと登らんで終わってまう気がするんや」

 太一は返答を口では返してくれなかった。が、彼の心の声は聞こえた気がした。信一郎は「よし」と立ち上がる。

 どこかから、うぐいすの鳴き声が聴こえた。

 エールをもらったような気がした。


 信一郎を追い越して行った若者が言った通り、歩き出して少し経つと、道が緩やかになった。しかも身体が傾斜に慣れたのかコツが分かってきたからか、微笑む余裕も出てきた。

「大丈夫か?」

 振り返ってくれた太一に顔を上げて、「ああ」と笑って見せる。頷いて前を向く彼の足取りも、心なしか軽いように見えた。

 登りはじめの過酷さが喉元を過ぎて行ったかのように、坂が楽しい。足場を探して、ぐっと踏んで身体を持ち上げるのが、楽しい。一歩一歩、着実に進んでいるという実感が、自分が歩いてきた道に現れている。

 これが、山の醍醐味なのかもな。

 信一郎は少し分かった気になり、そして今ここを歩いている自分を誇りにすら感じた。感じたと同時に脳裏をよぎるのは、妻のことだ。彼女にも、この楽しさを与えれば良かったと、悔やんでも悔やみきれない。

「父ちゃんが殺したみたいなもんやん!」

 通夜の時に吐き捨てられた、息子の呪詛がよみがえる。兄ちゃん……と、たしなめる娘の声も弱いところを見ると、彼女も兄に同意だったのかも知れない。もしくは自分の子供の前で、声を荒げたくなかった為か。娘は男二人のやり取りを見守ることなく、まだ小学生になったばかりの子供を連れて、台所に逃げたものだった。

 二人の子供を授かれたことは、純粋に嬉しかったものだった。だが大変なことや喧嘩も多く、二人とも家を出てからは、なかなか帰ってこなくなった。息子は大学入学と同時に。娘は結婚と同時に。

 妻とはメールなど、ちらほらと連絡していたようである。と、話は聞いていた。正月にだけは顔を出してくれたりもしていた。信一郎が会える時は、この正月三日目の半日だけだ。娘はともかく、息子が宿泊もせず帰るとはと立腹したことは、数知れない。

 妻に諭されたものだ。竜也は何しろ都心部に家を持つ身となったじゃない、なかなか身動きが取れないものよ、と。だが、その度に信一郎は、実家をかえりみないほど忙しいとは、どんな日々なのだと妻をなじったものだった。それが単なる八つ当たりだと彼女なら分かっていて、だから受け止めてくれているのだと信じて、なじってきた。

 そんな父親を見るのが嫌で、子供たちが顔を出さないのだろうなとは、内心では気づいていたし、直さねばとも感じていた。けれど直せず、直らない自分の嫌な部分をも妻のせいであるかのように責めたりもした。

 ひょっとしたら彼女も、信一郎のせいで、辛かったのかも知れない。とは、今になったから考えられることだ。もし彼女が生きていたら、太一のように自分も離婚状を突きつけられていたかも知れない。

「うわ」

 考えごとに気を取られすぎて、わずかに足が滑った。

「おい?」

 すかさず太一が振り向く。思わず出てしまった声に、すぐ反応してくれる気遣いは嬉しいが、申し訳なさと苛立ちも感じてしまう。そこまで俺は子供じゃない。

「うっかり声が出てしもぅた。なんもあらへん」

「気ぃつけぇよ。低山でも滑落するし遭難もする。意外と、鈴鹿の事故は多いんやで」

「俺は……いや、うん。ありがとう」

 口答えしかけて言葉を換えたことを、察したのだろう。太一が肩越しに、ふっと微笑んだ。見なかったふりをして信一郎は、足下に目を落とした。

 むき出しの岩に砂利が敷き詰められているかに見える道を、一歩一歩、確実に踏んでいく。きちんと体重を乗せないと、足を取られて滑るのだ。踏んでいるうちに、また楽しさがよみがえってきた。

 そして連想して妻と息子が、また浮かんでくる。

「母ちゃん、しんどそうやったやん。やのに俺らの前では無理して笑っとったんを、父ちゃん当たり前に思っとったやろ。母ちゃんはそんなことない言うとったけど、父ちゃんが母ちゃんに気ぃ遣っとるようには、全然見えへんかった」

 母の死亡時期が速まったのは父が原因であるとする、息子の言い分だった。

 そんなことない、と信一郎も言い訳をしたかった。だが真実は彼女が墓に持っていったのだ、どれだけ言葉を重ねても深部には到達しない。重ねれば重ねるほど見えなくなる心もある。

 太一の声が、信一郎を現実に引き戻す。

「集中せぇよ。一歩でも、一瞬でもヘマすると死ぬ思え」

 大袈裟なと言いかけたが、これも言葉が出なかった。それぐらい厳しく言われて、ちょうど良いぐらいに、信一郎の気がそぞろだったのだろう。

 心がむき出しになって行く。

 山を歩くと気持ちが晴れるのだと先日、太一が言った。どうして晴れるのだと訊くと、歩けば分かると言われた。困ったことに、歩いていたら何だか分かってきた。

 無駄なことを、ごちゃごちゃと考える暇がないのだ。下手な考えごとに気を取られては、足下が疎かになる。山は浮気を許さない。なるほど山の神は、カミさんだ。余所を見ることを許してくれない。一心不乱に登らねば応えてもらえない。

 くだらないことばかりを考えている自分を、戒められた気分になる。人はひたすらに、懸命に進むしかないのだ。

 今こうして歩いている自分の姿を息子に見せたいと思うも、きっと一緒に歩く日など来ないだろう。先ほどの若者が見せてくれた笑顔が、息子の顔と重なる。

 だが自分は自分の道を行くしかない。誰かと道が交わることは稀なのだ。その稀を得られることを奇跡と喜べるようになりたい。この世は奇蹟の連続なのだと。

 昔の自分が、あまりにも色々なものを当たり前に持っていた気がして。

「!」

 驚きすぎて声が出なかった。またやってしまったと後悔するも、もう遅い。太一に振り向かれたくなくて唇を噛んでしまったことは、否めない。

 ふわりと足が上がったのだ。上体を起こしすぎたらしく、ザックの重みに身体が後ろへ倒れてしまった。

 尾根の下に向かって。

 まずい! 一気に冷や汗が吹き出たが、一瞬のことで、まずいと思った時にはもう取り返しのつかない体勢にまでなっていた。足を踏ん張って身体を前に戻そうとしたが、戻れないほど倒れてしまっていた。

 転んだら、今まで登っていた分がすべて水の泡になる。

 振り出しに戻ってしまう。

 なぜか信一郎が感じた懸念は、そんな程度のことだった。まだ、どこかで自分が死にそうになっている事実が身にしみていないのだ。

 後ろ足を蹴り出して倒れる身体を支えようとする。

 だが。

 蹴り出した足の踵に地面がない。

 空を蹴った時になって、やっと信一郎は声が出せた。

「うわぁ!」

 手遅れだった。

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