#0.3 "久馬那一"

 終業のベルが鳴った。今日の学校の授業は終わりだ。

 教師が黒板を消す。等加速度運動についての方程式と簡略な図が消え去っていく。


 その少年、久馬那一きゅうまないちは鞄にノートと教科書をしまう。

 そして、ポケットから手帳を取り出してスケジュール表を確認した。丁寧な字で、予定が整然と書いてある。今日の日付の場所に記されているのは、『スーパー特売日』。

 あまり高校生らしくないこの予定を無表情で見つめる彼は立ち上がり、肩に鞄を掛けた。

 他の生徒が部活に行こうとする中、教室から出た那一は真っ直ぐに下駄箱へと向かっていく。


「那一!」

 廊下を歩いていると、後ろから駆けてくる足音が響いて、その直後に肩を叩かれる。

 振り向くと、活発そうな少女がいる。彼女は千崎薫せんざきかおる、那一の幼馴染みだ。

「今日ももう帰るんだね」

「学校にこれ以上用事はないからね」

「あはは、さすが帰宅部」

 可笑しそうに笑う薫。

 対照的に、那一の方は無表情なままだが、これが彼の『普通』であるため、彼女は特に気にしたりはしない。

「ねえ、部活に入らないなら、生徒会の仕事とか手伝わない?」

 千崎薫は、この学校の生徒会長。そのため、部活に入っていないにも拘らず、彼女は毎日放課後まで生徒会の仕事で忙しくしている。

「この話、これで何回目?」

「まだ五回目くらいじゃない?」

「十分多いと思うけど」

「えヘへ」

 呆れたような口調の那一だが、面倒そうな顔はしていなかった。

「僕はやらないよ」

「ええー、やっぱりダメか……」

 五回目の玉砕だが、薫はやはり残念そうな顔をしていた。

「じゃあ、僕は帰る」

「うん、じゃあね」

「また」

 

その後、真っ直ぐに下駄箱まで向かった那一は、靴を履き替え立ち上がる。

 そこに駆けてきた少年。足音からして慌ただしいその少年は、スポーツウェアを着て、大きなエナメルバッグを肩から掛けていた。。

 少年の名は木島竜平きじまりゅうへい、那一のクラスメート。典型的なスポーツ少年で、サッカー部に所属していた。

「よお、那一!」

「これから部活?」

「そうそう、最近練習キツくてさ……しんどいのなんのって」

 そう言いながらも、竜平は楽しそうにしていた。

「あ、今日の物理のノート、また明日写させてくれよ」

「今日もよく寝てたよね」

 無表情で那一は言うが、貶すような響きはない。

「ハハハ……じゃあ、俺行くわ。ノート頼んだからな!」

 陽光射す外へと、竜平は飛び出していった。

 その姿が見えなくなってから、那一もゆっくりと外に出た。


 学校から出ると、那一は家までの帰路につく。

 よく行くスーパーマーケットは帰り道のちょうど中間地点にある。いくら特売日とはいえ、さほど急ぐわけでもない。しかし、欲しい商品が売り切れる場合も視野に入れて、学校帰りに直接買い物をする予定だ。

 歩道を歩いていると、那一のポケットで携帯電話が鳴った。

 彼は立ち止まると歩道の脇に移動し、電話を取り出して画面を確認する。着信は那一の兄からだった。

 兄の名前は久馬優吾きゅうまゆうご。少し年の離れた兄は、今となってはたった一人の肉親だ。

「もしもし、兄さん」

 慌ただしく人々が動く音や声がバックに聞こえる中、兄の声が響いた。

「ああ、那一。今ちょっと話せるか?」

「別に構わないよ、どうしたの?」

「ああ、これまた急な話なんだがな、今日は久しぶりに仕事が早く片付きそうなんで、たまには家に帰ろうかと思って」

「珍しいね……最近は周辺の国の軍事行動が少し活発化してるから、『ガーディアンズ』も忙しいと思ってたのに」

『ガーディアンズ』、それこそが優吾が所属する組織の名前。そしてこの組織こそが、現在の日本における軍隊である。

「まあ、確かに忙しいんだがな。そうは言ってもずっと俺が動きっぱなしって話でもないし。多少の雑務は部下に回せば、一晩家に帰るくらいのことは出来る」

「そう、分かったよ……じゃあ夕飯は二人分用意しておくから」

「ああ、悪いな」

 そこで、優吾を呼ぶ声が聞こえる。

「久馬中佐、会議が始まる時間です」

 凛とした女性の声が聞こえる。口調からして優吾の部下のようだ。

「おっと、もうそんな時間か。じゃあな、また家で」

「うん」

 慌ただしく電話が切られた。

 実際、那一も兄が多忙であることはよく知っている。夜に家に帰る時間が取れたことは、かなりレアケースだと言っていい。普段の優吾は家に帰る暇もなく、ガーディアンズ本部に併設された宿泊所で睡眠をとっている。

 那一は携帯電話をポケットにしまい、また歩き出した。


***


 数十分後、那一はスーパーマーケットの出口から外に出た。

 学校の鞄の他にも袋を二つ提げているが、袋の中身は主に特売品の肉や豆腐などだ。ただし、買った量はいつもより少し多い。もちろん、兄が帰ってくるからだ。


 夕焼けの空は茜色に滲んでいた。

 そのオレンジ色の光に照らされながら、那一は自宅へと歩いていく。

 だが、帰り着く自宅には誰も待ってはいない。父も母もとうの昔にこの世を去っている。

 両親は二人とも『ガーディアンズ』に所属していた。国と人々を守る仕事なのだと聞かされ、子供心に両親を誇りに思ったものだった。もちろん今でもその気持ちに曇りはない。

 那一がまだ小学三年生の頃、両親を同時に失った。ガーディアンズの作戦中の殉死だった。たまたま同じ作戦に両親が共に参加していたため、二人とも帰らぬ人となったのだ。その頃、九つ年上の兄は高校三年生。両親がいなくなり、他に頼れる親戚もいない兄弟は、二人で生きていかねばならなくなった。

 両親の遺した財産はそれなりにあり、また遺族への生活扶助もあったため、経済面では困らなかった。だが、兄優吾は高校卒業と同時にガーディアンズに入った。生活の安定性を確固たるものにしたいというのも理由だったが、一番はやはり、亡き両親の意思を継ぐためだったのだろう。


 自宅があるのは14階建てマンション、その5階の部屋だ。

 帰ってきた那一は、買ってきた物の袋と学生鞄を下ろした。

 部屋のカーテンを開けると、空にはまだ夕焼けが残っていた。わずかに明るくなった部屋には、大きな本棚が並んでいる。本棚の中に納められた書物は、軍事や戦略、兵器関係のものが多い。

 時間の経過と共に、茜色が薄くなり、漆黒の夜空が広がり始めた。


***


 西暦2117年。

 彼はまだ知らない。壮絶な運命の嵐が、これから地球を襲うことを。

 その嵐に自分が巻き込まれていくことを。

 自身が、嵐の中で何を成していくのかを。

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