後編 君と俺
この男が初めてここに来た時、私はある一つの魂との約束を思い出した。
その女性の魂は、生き返らせてくれないかという如何にも人間らしい愚かな願いではないが、人間だからこそであろう願いを私にしてきた。
「もし何も罪を犯してないのに地獄に行きたがろうとしてるばかな男の魂がいたら...」
普段なら聞き流していた人の戯言に、私は少し興味を持ってしまった。
「なぁ何故お前は地獄に行きたい、お前は罪を犯していないのだ。そうまでする理由はなんだ」
閻魔様は簾の向こうから俺に問いかける。どうやらまだ、地獄には行かせてくれない様子だった。
「俺は罪を犯しました。見殺しです。何故これが罪ではないと仰るんですか?」
すると奥から、ここまで届くぐらいの溜息を長々とつく。
「そんなの決まっているだろう。彼女が死んだ理由はお前ではないからだ。お前が原因で死んだわけでも、お前が直接殺したわけでもないのだ」
俺はすぐには反論せず、次の言葉を待つ。今何かを言ったところで受け流されるというのは、誰の目からもわかりきっていた。
「質問を変えてやる。何故お前は死ぬ?その見殺しされた人はお前の死を望んでいるのか?」
俺はぐっと拳を握る。握りしめた手の中は不思議と乾いていた。実体がないからか、それともそういう状況ではないのか、俺はやけに冷静だった。
俺が死ぬことを彼女は望んでいるのか?
そんなの彼女は死んでいるのだから、わかるわけがない。生前にそういうことを言う人でもなかったから、なおさらその問いに答えることができない。
「俺は彼女に会うためでも、償って許してもらおうとかそういう理由じゃない。ただ、取り返しのつかない事をしてしまった俺に生きる価値はない。いっそのこと地獄に行って、永遠に苦しみながら死ねない世界に居続けるほう...」
「それは、お前にとって逃げだろう?」
冥界から音がなくなった。
それは一日が始まる前の都会の静けさのような、美しいものに似て非なるものでもあり、彼女が荼毘に付すその間や、かしこまった服に手ぶらで帰った俺を迎える部屋の静けさと同じような、逃げ場のない沈黙そのものだった。
ややあって、閻魔様は口を開く。
「ここは地獄だが、考え方によればちょっときつめの懺悔室の様なものだ。つまりお前は地獄に行くためではなく、地獄から逃げるために地獄に来ているんだよ」
心がぎゅぅと締め付けられる。
その言葉はあまりにも核心をついていて、今まで気づいていたのに気づかないフリをしていた事でもあった。
「もう喋らなくてよい、嘘をつく奴は嫌いだ。これで最後だ、お前の魂をもう一度還してやる。まぁ今度は現実と少し違うがな」
現実と少し違う、、?
「それとある人から言伝をもらっている。一回しか言わない、しっかり聞いておけ。『私の気持ちも考えずに易々と死にまくるあなたにはお仕置きです。今度はちゃんとした地獄なので苦しんで苦しんで苦しんで、死んでください。生まれ変わった次の世界でまた会いましょう。』だそうだ。さっさと堕ちろ」
あなた、と言うのは紛れもなく彼女だった。そうか、なんでもお見通しだったってことか。
俺は上を向く。それは空を見るためでも、彼女が死んでから追い続けてきた夢を見続けるためでもない。
「あ...」
何かがこめかみの横を伝い、顎の側面で止まる。
「俺、まだ泣けたんだな」
視界が暗転し、死ねる世界に落ちていく。
俺は目を開ける。
天井には少し汚れがついていて、窓からは少し白みがかった薄明の光が指していた。
上半身をあげると、掛布団がするりと俺の体から落ちる。やれやれと重い腰をあげようとした時、有り得ない感覚が俺を呼び覚ます。
「良い匂い、、だな」
朝は必ず彼女が先に起きていた、今考えると疲れていたとはいえ俺が先に起きることは不自然過ぎた。
重い腰を、と思ったが妙に軽くなった腰を
その匂いは香ばしく、俺の喉を鳴らす。なんせこの料理は俺の胃袋を掴んだ、世界に一人しかいない料理人だけが出せる匂いなのだから。
ドアを開けるとまず最初に感じた聴覚はフライパンで何かを焼いている音と、朝のテレビのニュース。
次に感じるのは視覚、捨てたはずの思い出と明らかに雰囲気の違う暖かな空間。そしてこちらに気づく気配。
それと嗅覚、香ばしい匂いに紛れてふわりと漂う俺の好きなにおい。できれば俺が死ぬその瞬間まで嗅ぎたかったにおい。
そして、触覚。この空間にいる彼女を含んだ空気を肌で感じ、彼女が歩いたであろう床を踏みしめる。視界の外からスリッパがぱたぱたと音を立て、その一歩一歩が床から伝わる。
味覚、、それは後で食べる朝食で嫌と言うほど感じるだろう。
「おはよう、よく眠れた?」
はっきりと横で聞こえるその声に俺は、これが夢ではないと気づかされる。
「どうしたんですか?ちゃんとこっち向いて、おはようって言ってください」
だめだ。君を見たら、おはようと言ってしまったら、もう戻れなくなってしまう。
「か、からかってるんですか?じゃあもういいです。朝ごはん、抜きですからね」
頭でわかっていても体は止まらなかった。
味見をしたのであろうか、少しあぶらっぽい味としっとりとした質感を感じる。やってしまったと思い、ゆっくりと彼女から離れる。そして俺は確信する。
俺は君とキスをし、君の料理を食べなければいけない。それでも。
「やっとこっち向いてくれましたね、あなた。」
それでも俺は君と生きていたい、もう俺は逃げることができない。
「なにかあった?悪い夢見ちゃったかな、でも大丈夫、私はここにいるからね」
悪い夢だったらどれだけ良かったか、でも今俺がいるところは紛れもない地獄。
なぜかって?
「おはよう。本当に、本当に嫌な夢だよ。」
俺はもう、死んでいるからだ。
地獄行きの最終列車 石動 朔 @sunameri3
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