第19話 ワルツ

 城の居室に戻ると、ザフィアが控えていた。


「ザフィア……!」


 アウゲは駆け寄ってザフィアの両手を握る。


「ごめんなさいね。たまたまあの時にあなたが居合わせたせいで」


「いえ、とんでもございません、姫さま。わたくしがおりながら全くお役に立てず……」


「そんなはずがないわ。あなたは責任感が強いから、気に病んでいないか、それだけが心配だったの」


 アウゲは背の高いザフィアの目を下から覗きこむ。


「わたくしはどのような罰でも受ける覚悟でございました。それをそのような……」


 ザフィアの悲壮な言葉を打ち消すためにアウゲは微笑む。


「人族は慢性的な人手不足に喘いでいるのでしょう? さっき宰相が言っていたわ。それならば、人は、人こそが、この国の宝よ。大切にしなければ。圧倒的な力に対してなす術がなかったからといって、誰があなたを罰するものですか。そうよね、メーアメーア?」


 アウゲはそこに控えているザフィアの上司を振り返る。


「おっしゃるとおりでございます」


 メーアメーアはぺろりと眼球を舐めた。

 アウゲは握っていたザフィアの手を離し、周りの者を振り返る。


「皆にも、心配をかけました。けれど、私はこうして戻ってくることができました。改めて、これからもよろしく頼みます」


 王妃としてのアウゲの言葉に、一同は礼の姿勢を取って答える。


「王妃殿下のご帰還、城の一同、歓喜の念に耐えません。姫がお戻りにならないのであれば、ヴォルフさまもまたお戻りにはならないであろうと半ば覚悟をしておりました」


 メーアメーアが言う。


「王妃殿下におかれましては、これまでにないような恐ろしい思いもされたであろうと拝察いたしますが……」


 メーアメーアの言葉にアウゲは笑う。


「いいえ、平気よ。だって、ヴォルフは必ず来るとわかっていたもの。勝つとわかっている勝負なんて、張り合いがなくてつまらないわ」


「左様でございますか」


 メーアメーアは反対側の眼球を舐めた。



 広間にはあっという間に宴の席が設けられ、ヴォルフは挨拶もそこそこに重臣たちに捕まっていた。アウゲはまだ姿を見せてない。


「ねえ……姫さまは?」


 ヴォルフはちょうど近づいてきたメーアメーアに小声で尋ねる。


「まもなくお見えになるはずですが?」


「さっきもそう言ってなかった?」


「貴婦人のお支度には時間がかかるものです。常識でございますよ」


 メーアメーアも小声で答えて眼球を舐める。


「大変遅くなりました! ヴォルフ陛下のご即位、おめでとうございます!」


 広間中に大声が轟きわたり、また1人、重臣が到着した。


「やあ、カイ将軍。久しぶりだね」


 ヴォルフは縦にも横にも大きい将軍を立ちあがって迎えた。


「あの日あの時お生まれになった王子が今や魔王! いやはや、時の流れは早いものですな! 皆の衆、新しい魔王陛下に乾杯しようではないか!」


 将軍はこの場にいる全員の会話を中断させる大音声で宣言する。


「お元気そうで羨ましい限りです」


 宰相がキマった目で渋々グラスを引き寄せた。



 なにぶん突然決まった宴であったので、この日に合わせてドレスを仕立てることなどできようはずもなく、アウゲは特に気に入っている一着に決めた。首元の輝くような青から裾にかけて黒へとグラデーションを描くドレス。デコルテから背中、袖は薔薇の刺繍があしらわれたレースで仕立てられており、アウゲのすらりとした身体をより一層魅力的に見せる。レースで仕立てられた袖の先はフィンガーレスグローブになっていて、手首の薔薇の刺繍から蔓が伸びて、それが中指のループになっている。


「……ねえ、あの声は何? 広間で果たし合いでもしているの……?」


 広間の扉の向こうから聞こえてくる野太い声に気圧されたアウゲがザフィアに囁く。


「いえ……。あれはカイ将軍でございます。魔界一の猛者であり、頭と肝臓がバカ……あ、いえ、大変お酒を好まれておいでです」


 ザフィアは慌てて取り繕ったがその言葉はしっかりと彼女の主人に届いていた。


「頭と肝臓がバカ……。それはどういう……?」


 勿論、カイ将軍のことは知っていた。戦況報告書で何度も見た名前だ。たった1人で辺境を守っている、魔界でも伝説的な武人。


「将軍がいらっしゃると、魔王城の酒蔵が空になるともっぱらの噂でございます」


「それは……」


「ヴォルフさまは相当飲まされておいででございますね」


「大丈夫かしら。酔っているところは見たことがないから、それほど弱くはないと思うのだけれど」


「ご心配には及びませんわ。将軍には酔ったふりが通じますので」


「……それなら大丈夫ね、きっと」



 将軍が丸太のような腕を宰相の枯れ木のような肩に回す。


「どうした宰相、いや、バルナバスよ。酒が進んでいないようだが!?」


 宰相は苦労して、ずっしりした腕を肩からどかせた。


「残念ながら私はあなたと違って頭蓋骨の中には脳味噌しか入っておりませんので」


「お前の言うことはいつもよくわからんな! 久しぶりにこうして会えたのだ、旧交を温めようではないか!」


 あなたの頭蓋骨の中には脳味噌ではなく肝臓が入っているのかもしれないが、という宰相の皮肉も虚しく、再びずっしりした腕が肩に置かれる。


「旧交を温めているつもりだったのですか? 私はてっきり向こう100年会わずに済むよう冷やしているのかと」


 真剣に聞いていると頭が痛くなる会話を聞き流していると、扉の向こうにアウゲの気配がした。ヴォルフは扉の前に駆け寄る。

 広間の両開きの扉が音もなく開き、青く澄んだ光が溢れ出した。少なくともこの場に居合わせた魔族たちにはそう見えた。

 ヴォルフが恭しく手を差し出し、アウゲがその上にそっと手を置いた。


「遅くなってしまってごめんなさい。待ったでしょう?」


「いいえ全然。おれもさっき来たところです」


 ヴォルフはそれまでと打って変わった満面の笑みで答えた。


「そう? それなら良かったわ」


 アウゲが不思議に思っていることの一つに、魔界では儀礼や式典を重視しないことがある。メーアメーアに聞いたところによると、ヴォルフが新しい魔王として即位したからと言って、大々的な式典等はないらしい。というのも、魔界では、誰が魔王で誰がその伴侶なのかは一目見れば明らかだからだそうだ。確かに、アウゲが魔界に来た後も先代魔王のローザから簡単な紹介があったのみで、故郷で見てきたような式典はなかった。強いて言うならば、今日のこの宴が即位式のようなものなのだろう。しかし魔界の宴は人の国のものに比べるとざっくばらんで、これで本当にいいのか、アウゲはいまだによくわからない。出入りも自由で、気づいたらいて、気づいたらいなくなっている、という具合だ。

 ヴォルフに手を引かれて広間の中央まで進み出たところで音楽が流れ始めた。初めて人前でダンスを披露した、あのワルツ。


「ここで踊ることになっていたかしら」


 なんとなく前奏に合わせてポジションを取りながらアウゲが呟く。


「さあ……。誰かダンスをしたいから、手始めにおれたちに一曲踊らせようって魂胆じゃないですか?」


 ヴォルフは笑って言う。よくわからないままに、音楽に乗って滑りだす。最近忙しくて練習できてはいなかったが身体は以前の猛特訓を覚えていて、完成度は劣るものの問題なくステップを踏む。


「魔界の宴はよくわからないわ。いつもいつも」


「人の国に比べれば全てが適当なんですよ。みんな楽しいことは好きだけど面倒なことは嫌いだから。面倒なことを面倒だと思ってないのは、メーアメーアと宰相くらいですね」


「宰相は嫌々宴に参加しているというわけではないのね」


「大丈夫です、ああ見えてちゃんと楽しんでますよ。働き過ぎてちょっと目がキマっちゃってるだけで」


 ヴォルフの言葉にアウゲはくすくす笑った。


「……帰ってきたのね。夢みたいだけれど」


「夢じゃないですよ。ちゃんと現実です」


 ヴォルフはアウゲの水色の目を覗きこむ。その目は広間の灯りを反射する以上に煌めいている。アウゲは何かを言おうとして僅かに口を開いたが、唇が震えて言葉にならなかった。

 

 ヴォルフとアウゲのダンスが終わると、待ちかねていたと言うように魔族たちがフロアに出てきた。誰もがみな、新しい王の誕生を祝い、冥府の者との戦いが膠着したことを喜んでいた。

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