第12話 現世の青い薔薇
窓から見える空は灰色で、厚い雲からはひっきりなしに雪が舞い落ちてくる。窓の外には雲に覆われた空と雪に覆われた地面の他には何も見つけられない。世界は冷たく重く湿っていた。
窓際に置いた椅子に掛けて、アウゲは絶え間なく舞い落ちる雪を見つめていた。昔に戻ったようだった。マスクをつけて浄化筒を背負っていたら、故郷に戻ってきたと錯覚していたかもしれない。再び、アウゲは孤独だった。
王宮の執務室にいたはずが、気づくとこの場所にいた。さっきまでのことが嘘ではない証拠に、手にはまだペーパーナイフを握ったままだった。
アウゲがまずしようとしたことは、この部屋を出ていくことだった。
外から鍵がかけられているかと思った扉は、予想に反して呆気なく開いた。しかし扉のすぐ先は目も眩むような断崖絶壁で、はるか下は荒れ狂う鉛色の海だった。二階建ての離宮の高さなどとうに超えている。落ちれば間違いなく命はないと思われた。吹きおろす風に吸い込まれそうになって、アウゲは必死に扉にしがみついて何とか耐えた。この場は見たとおりの場所ではなかった。
では窓はどうだろうと開けてみると、僅かに開いた窓から見えたのは燃えさかる炎だった。
普通の方法ではこの場を立ち去ることはできないらしい。
絶望して座りこんでいるところに現れたのが、宰相と名乗る、ずんぐりむっくりで一つ目の冥府の者だった。
冥府の宰相はアウゲに、求婚は条件を満たしていないので今なら魔界に戻ることができる、と言ったが、勝負を仕掛けられたと知って逃げ帰るなど、アウゲにできようはずもなかった。
宰相は何ごとか言いながら去っていった。
再びの孤独に耐えること、それがアウゲに課された試練だった。この場にたどり着ける者がいるとすれば、それはヴォルフだ。あるいは冥府の王。
(負けてたまるものですか)
ヴォルフは必ず来る。なぜなら彼は、アウゲを愛しているから。アウゲが彼を愛しているのと同じくらい。
そうわかっているはずなのに、孤独はじわじわとアウゲを追い詰めた。このようにたった1人でいるのは久しぶりだった。常に側に誰かがいる安心感に自分がすっかり慣れていたことをアウゲは知る。それだけではない。アウゲは既に、そばにいる愛しい者と言葉を交わして、微笑みあって、触れあうことの喜びを知ってしまっている。それらを知る前は、たったひとりでいることも何ら苦痛ではなかった。そのようなものとして受け入れていたし、受け入れるだけでよかった。しかし、アウゲは最早以前のアウゲではなく、その不可逆の変化は以前なら簡単にやり過ごすことができたことを難しくする。涙がひと粒、アウゲの頬を転がり落ちた。
(私は弱くなってしまったの……?)
ひとりでいると、過去の様々な出来事が浮かびあがってくる。
――姫さま、申しあげにくいのですが……。
最後の世話人、カロラの怯えが混ざった表情が蘇る。
――お暇をいただきます……。歳のせいか、もう、手が思うように動かなくて……。
アウゲはただ頷くしかなかった。どれだけ気をつけていても、最後には必ずこうなってしまう。
ただそこにいるだけで人を害してしまう自分。こんな自分に、何の価値があると言うのか。魔王の伴侶とは一体何なのか。この国が豊かに栄えているのは、蠱毒の者を魔王の伴侶として魔界に差し出しているからだと歴史の教師は言っていた。だとすれば、自分の存在が許されるのは国の役に立つからに過ぎないのか。もし、魔王の伴侶という肩書きがなければその存在自体が許されなかったというのか。そもそも、なぜ自分は「こう」生まれつかなければならなかったのだろう。なぜ自分だったのだろう。どうして普通の、ただの人間として生まれてこられなかったのだろう。
――近寄らないで化け物……! 助けて誰か! 殺されるわ!!
辺境伯である王弟の娘で、アウゲの従姉妹にあたるリゼに投げつけられた激しい言葉。
アウゲは涙を流すことすらできなかった。それも他の者にとっては恐ろしい毒だったから。だから、負けるものか、私は負けていないと自分で自分を鼓舞し続けていた。そうしないと到底生きてなどいられなかった。魔王に嫁ぐその日までは死ぬことも許されないアウゲは、そうして日々を凌いでいた……。
いや、とアウゲは思い直す。自ら命を絶つ道を選ばなかったのは、許されていなかったからなどでは決してない。自ら死ぬことは、負けを認めることだ。だから、どんな屈辱的な言葉を投げかけられてもマスクの下で唇を噛み、歯を食いしばりながら、真っ直ぐ顔を上げ続けた。自分の意思で、勝てなくとも負けない道を、生きる道を選び続けてきた。全て、自分の意思によるものだ。少なくともアウゲ自身はそう思っていた。それがアウゲの矜持だった。
(私は負けなかった。そして今度も、負けない)
アウゲは膝の上に乗せたペーパーナイフを見た。奇しくもそれは、ヴォルフがアウゲに贈ってくれたものだった。柄の部分に薔薇のレリーフが施されている。レリーフの薔薇をそっと指先でなぞる。
アウゲが背を向けている居室の片隅には、闇が凝っている。その闇が自身をじっと見つめて続けていることにもアウゲは気づいている。
「我が花嫁よ」
低い、地鳴りのような声が話しかける。アウゲは無視した。自分は魔王の嗣子ヴォルフの妻であって冥府の王の花嫁になったつもりはなかった。そうであればいかなる種類の返事もする理由がない。ここにいるのは、攫われてきたからにすぎない。
椅子がアウゲを乗せたまま、ふわりと浮きあがって向きを変える。アウゲは驚いて思わず肘掛けを強く掴んだ。
そこにいたのは冥府の王に違いなかった。
冥府の宰相とは対照的な、鋭利な輪郭。背丈は扉と同じくらいだが、もしかしたら身を屈めているのかもしれない。ヒレ状の巨大な手をしていて、手の先は床に届いていた。手を伸ばせば触れられそうな距離に立っているにも関わらず、その詳細な形状はよくわからなかった。黒い紙を切り抜いた切り絵のようだ。冥府の王が僅かに横を向いたので、その頭部が、人というよりは竜のように口吻が長く突き出した形をしていることがわかった。
「我が花嫁よ、なぜ返事をせぬのか」
宰相と違って目すらない漆黒の顔はどこを見ているのか定かでないが、アウゲはその頭部を真っ直ぐに見る。
「その言葉は、私へ語られた言葉ではないからよ。なぜなら私は、あなた方の言う、魔界の嗣子の妻だから」
「ではこう言おう、
「勝手に決めないでもらいたいわ。それに、あなたがどう思おうが、私の伴侶はヴォルフだけよ」
冥府の王の一方的な物言いに腹を立ててアウゲは言い返す。しかし冥府の王は気にした風でもなく話を続ける。
「現世の青い薔薇よ、そなたが私と交わることで産み落とすのは、人などではない」
「……!」
頬の産毛が逆立つ。しかし、アウゲは負けるまいと冥府の王を睨みつけた。
「『世界』だ。そなたは世界の母となるべき者だ。そなたにはその力がある」
「……世界? 世界というのは?」
アウゲは厳しい表情を崩さないまま尋ねる。
「現世に無数にある異界。あれらは全て、冥王が現世で生まれた伴侶と交わることで生まれたものなのだ、青い薔薇よ」
「……」
冥府の王の言うことが本当ならば、冥府の王の、魔王の伴侶を奪う試みは思ったよりも高い頻度で成功していることになる。血が一気に脚の方へ流れ下りて、頭がくらりとなる。しかしアウゲはそのことを冥府の王に悟らせることをよしとしなかった。
「そなたは私を受け入れるべきだ。そして、世界の母となれ」
冥府の王が巨大な手をアウゲの方に伸ばす。ヒレ状の手の先には鋭い巨大な爪が生えていて、その爪の先にあるのは、アウゲが祖国で育てていた青い薔薇、ゼレだった。
「我と共に在れ、現世の青い薔薇よ」
「その申し出は拒絶します」
アウゲは即答する。
「自らの意思では我を受け入れぬということか」
その言葉の響きには、僅かな苛立ちが混ざっている。
アウゲはさっと膝の上のペーパーナイフを取ると、自らの首筋に添える。
「私を力ずくで奪うというなら、この場で自害します。これは脅しではないわ」
もちろん、脅しだった。女の力では、座った姿勢で自らの急所を突いたり、太い動脈を切ったりして自殺するのは困難だ。そもそも、ペーパーナイフは肉を切る目的で作られてはいない。よほど戦闘に慣れて人体を知り尽くした者でないと目的を達成するのは難しいだろう。そんなことは承知の上での、一か八かの勝負だった。
しかし、人間の生態に詳しくないらしい冥府の王には効果があった。
「……あの者を待っているのか」
「あの者」が誰を指すのかは自明だった。アウゲは返事をしない。
「あの者は来ぬ」
「なぜそう言い切れるの?」
アウゲは首筋にペーパーナイフを当てたまま、挑戦的に口の端を持ち上げて笑う。
「あの者は今ごろ、そなたにそっくりな人形と睦み合っているだろうよ。そうとも気づかずに」
「……」
胸の下がぎゅっと縮こまり、吐き気が込み上げてくるのをアウゲは表情を変えずに耐えた。動揺を気取られてはならない。それは伏せられた手持ちの札を晒すのと同じ行為だ。
「ふふ、面白いことを言うのね。彼がそんなことも見抜けないとでも?」
アウゲは笑顔を保ったまま言う。
「ねえ、私は、ゲームが大好きなの。私と賭けをしない?」
「何を賭ける?」
「私よ。私自身。あなたが勝てば、私はあなたのもの。私が勝てば、あなたは私を諦めて冥界へ帰る」
ペーパーナイフを握る手のひらが冷たい汗で濡れている。
「賭けの要件は、彼がここへ辿り着くかどうかよ。彼が戦えなくなるか私の人形を連れてこの場を離れれば、あなたの勝ち。彼がここへ辿り着けば、私の勝ち。どうかしら。この勝負に乗る気概があなたにあって?」
「……よかろう、現世の青い薔薇よ。ただし、その武器は預かる。命を絶たれてしまっては意味がない」
冥府の王は巨大な手を差し出す。
「いいえ、あなたには渡しません。これを使って彼に働きかけられれば、賭けが歪められる恐れがある。私はこの部屋から出ることができないのだから、それでは公正な賭けにならないでしょう? だから、この部屋から持ち出すことは認めないわ。私が自害するのを恐れるのならば、監視をつければ充分でしょう」
アウゲは力を込めてペーパーナイフを首筋に押しつける。冥府の王が同じ部屋にいる限り、首からナイフを外す気はなかった。
「……では、宰相に見張らせよう」
アウゲが一歩も退く気がないのを感じ取ったのか、冥府の王はそう答えるとサッと回転して姿を消した。
ガタン、と僅かに浮きあがっていた椅子が床に落ちてアウゲは危うく転落しそうになるが、テーブルを掴んでなんとか堪えた。
「……はあっ、はあっ、はあっ」
アウゲはテーブルに寄りかかって背中を大きく上下させて喘ぐ。両目からは涙がぼろぼろと零れた。汗がどっと吹き出す。心臓が壊れそうに大きく速く脈打っている。
かちゃり、と扉が開く音がしてそちらに顔を向けると、ずんぐりむっくりの宰相が入ってきた。扉の隙間から見えた向こう側は断崖絶壁などではなく、普通の廊下だった。
「花嫁よ……、なんという無茶をなさるのですか。だからわたくしは、一度魔界の嗣子のところに戻った方が良いと、今ならそれができると教えてさしあげましたのに」
「嫌よ。勝負を仕掛けられて逃げ帰るなんて、ごめんだわ」
アウゲは一つしかない宰相の目を力を込めて睨みつける。
「それに、私は『花嫁』という名ではないわ。アウゲ・ギュンターローゲよ。間違えないで」
「失礼いたしました、アウゲ殿下。さあ、これを飲んで。心が穏やかになりますから」
宰相はどこから取り出したのか、湯気の立っているカップをテーブルに置いた。アウゲにも馴染みの、心を落ち着ける薬草の香りがした。
「毒?」
「まさか。そんなことをしてわたくしになんの得が」
「それもそうね」
アウゲはしかし慎重に香りを嗅いで、ほんの一口薬草茶を含んだ。確かに毒は入っていなかった。
アウゲは目を伏せる。冥府の王は、ヴォルフが今ごろアウゲそっくりの人形と睦み合っていると言った。ヴォルフがアウゲ以外の誰かに、いつもアウゲにしてくれているのと同じ仕方で触れていると想像しただけで頭がどうにかなりそうだった。本当は、大声で泣き喚きたい。そんなの嫌、私はここよ、騙されないで、と。しかしアウゲのプライドがそれを許さない。アウゲは固く唇を引き結んだ。
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