第11話 正体

 離宮の中の離宮に足を踏み入れたヴォルフは、階段の手すりから身を乗り出して上を見た。外から見たこの建物は現実の離宮と同じく二階建てだったのに、階段ははるか上まで続いていて最上階は見えない。いや、そもそもこの建物自体、魔王の墓の片隅あった離宮の内部にあるのだ。見たままの構造をしていると思う方が間違いだろう。


「姫さまー!」


 ヴォルフは上に向かって叫ぶ。声は縦に伸びた空間に吸い込まれていく。そして、アウゲが顔を出すはずもなかった。

 いずれにせよ、行くしかない。

 ヴォルフは剣の柄に手をかけたまま階段を登り始めた。


 2階の扉を開けると、その中は真っ暗だった。ヴォルフは剣を抜く。


「姫さま……? いますか?」


 開け放ったままの扉から光が入っているはずなのに、部屋に一歩踏み入ると自分の手のひらも見えないような暗闇だった。ヴォルフは慎重に進む。冥府の者の気配があまりに強くて、どの程度の力を持った者がいて、数はどれくらいか、などの普段頼りにしている感覚が全く役に立たない。


「!!」


 踏み出した足が沈む。それを何者かに掴まれた感覚がした。咄嗟に足元の空間を剣で薙ぐ。手応えはないが、足首を掴まれている感覚も消える。


「く……」


 肺から搾り出された空気で、意に反して声が出る。重力が突然増したように身体が重くなり、立っていられない。思わず膝をつく。

 左袖口の、アウゲの刺繍が青く光った。光は真っ直ぐに空間の一点に延びる。

 ヴォルフは剣を支えになんとか立ち上がり、力を込めて光の指す一点に剣を突き入れた。確かな手応え。さっと闇が晴れて身体の重みも消える。

 そして、ヴォルフの剣が貫いていたのは、アウゲの腹部だった。

 アウゲは大きく目を見開いてヴォルフの顔を凝視している。

 

「ヴォルフ……どう……して……?」


 アウゲの口の端から、真っ赤な血が細い糸になって垂れた。

 ヴォルフは剣を離そうとするが、手が完全に硬直してしまって手放すことができない。世界の全てが動きを止めた。目の前の光景を理解することができずに、ヴォルフはただ彫像のようにその場に立ち尽くした。

 アウゲは右手をヴォルフの方に伸ばす。その白くて細い指がヴォルフの顔にそっと触れた。


「ぐ……っ!?」


 頬に触れたその指先が素早くヴォルフの首にかかって締めあげる。のみならず、アウゲは腹部に剣を突き立てたまま、片腕でヴォルフを釣り上げた。身長差があるせいで完全に宙吊りにすることこそできないが、それでもヴォルフは爪先立ちになる。女の力ではない。ヴォルフはようやくこの「アウゲ」の正体を悟った。身体の自由が戻る。しかし、首に食いこむ細い指を引き剥がすことができない。目の前がチカチカする。偽物のアウゲの腹部に突き立っている剣を抜いて、首にかかった腕を切り落とせばいいとわかっていても、アウゲの姿をしたものを傷つけることはヴォルフにはできなかった。

 バチッ

 青い光が弾ける。偽物のアウゲは吹き飛ばされて地面に落ちた。ヴォルフもようやく解放されて、地面に尻餅をつく。空気を求めて激しく咳こんだ。

 近づいてみると、それは最早アウゲの姿をしておらず、ドロドロとして粘っこい黒い液体の真ん中に、ヴォルフの剣が突き立っているだけだった。


「ありがとう、姫さま。姫さまが正体を見抜いてくれなかったらおれ、殺されてたかも」


 ヴォルフは剣を抜いて、刀身に残った冥府の者の残滓を振り落とすと鞘に戻した。

 父が言ったとおり、冥府の王は、アウゲを自身の伴侶にすべく攫っていったのだ。アウゲを傷つけるはずがない。アウゲの姿をしていても、それは冥府の者がアウゲに化けているに過ぎないのだ。……でも、もし。本物のアウゲがいたら? そしてそれを、見抜くことができなかったら?

 あまりに恐ろしい想像にヴォルフは身震いした。

 袖口の刺繍にくちづける。刺繍は青い燐光を発していた。戦う前から負けてどうするの、というアウゲの声が聞こえる気がする。この空間のどこかで、アウゲも戦っている。進まなければ。そして、戦うからには、勝たなければ。自分を信じろ、とヴォルフは自身を叱咤する。自分とアウゲを結ぶ紐帯は、冥府の者ごときが切れるほど弱くはない。ヴォルフがどれほどアウゲを愛しているか、冥府の者たちは知らないのだ。だから、2人を引き裂けると思っている。


 しばらくは、階段を登っても登ってもドアのない階が続いていた。久々に現れたドアを見てヴォルフは緊張する。

 何が飛び出してくるか……。

 緊張しながら扉を引くと、そこは居室ではなく、寝室だった。外は晴れた昼間のようだ。色の薄いカーテン越しに室内には光が溢れ、ベッドの人物の輪郭を淡く光らせている。こちらに向けられたその滑らかな背中や、真っ直ぐな銀の髪や、身体の優しい柔らかな曲線は、ヴォルフが恋焦がれている者に間違いなかった。

 アウゲは裸で、その白い背中をヴォルフの方に向けていて身じろぎもしない。腰から下は上掛けに隠れている。


「姫さま……?」


 ヴォルフは恐る恐るベッドに近づく。胸騒ぎがして、鼓動が速まる。

 髪の間から見えるアウゲの首筋には、本人から見えないところにこっそりヴォルフがつけたくちづけの痕があった。そしてそれを上書きするように、何者かの噛み痕がつけられている。

 かっと身体が熱くなって、ごうごうと音を立てて全身を血が駆け巡る。


「姫さま……」


 ヴォルフはそっとアウゲの肩に手を触れる。すると、アウゲの身体はヴォルフの触れた場所から透明になり、光の粒になって消えていった。


「幻覚……? は、はは……」


 ヴォルフは空になったベッドに手をつき、その場に座りこむ。


「これ、キツい……。父上が試練のこと話したがらないの、わかるよ」


 独り言を言って、ヴォルフは自分の髪に指を差し入れてかき混ぜた。


「姫さま、どこにいるんだろう……。早く会いたい……。本物の姫さまに」


 ヴォルフはしばらくその場から動けずにいたが、ようやく立ちあがった。

 重い足取りで階段を登ると、次の階にも扉があった。

 扉を薄く開ける。ヴォルフの感覚に触れるものがある。誰かがいる。

 意を決してさっと扉を開くと、そこは居室で、テーブルについていたのは、いつものように黒いドレスを着たアウゲだった。

 アウゲははっとした様子でこちらに顔を向けていた。その顔に、見る間に安堵と喜びの表情が広がるのをヴォルフは見た。


「ヴォルフ……!」


 アウゲはヴォルフに駆け寄ってその胸に飛びこんだ。ヴォルフもしっかりと両腕でそのほっそりした、余すところなく知り尽くした身体を抱きしめて、目を閉じて首筋に顔を埋める。


「ヴォルフ、ヴォルフ……!」


 アウゲは泣きながらヴォルフの名前を呼び、二度と離れないと言わんばかりにヴォルフの上着の背中を握りしめる。ヴォルフも強く抱き返した。

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