◆第19話 幸福の花-1

 その日、カレンさんはいつも通りに酒場を訪れた。服の隙間から包帯が少し見えている。例のまものの大群と戦った際に怪我をしたのかもしれない。

 相変わらず、すごい勢いでお酒を飲みながら常連客やラナさんと話をしている。そこにはトゥルーさんの姿もあった。


「どうした、スガさん? なんか今日はいつになく手が止まってるぞ?」


 後ろからブルードさんに軽く小突かれた。


「す…すみません。気を付けます」


「昨日は街で警鐘が鳴って大変だったけど、ラナさんやスガさんも大変だったんだろう? 疲れてるんなら遠慮なく休みな?」


「ありがとうございます、ブルードさん。私は大丈夫ですよ」


 今、目の前に広がっているのはいつもの光景。私がとても好きな眺めだ。きっと明日ここからトゥルーさんの姿が消える。ラナさんとカレンさんは今のままでいられるのか。



 酒場の閉店の時間、トゥルーさんは、ラナさんとカレンさんを連れて外へ出て行った。


「おいおい、告白ならどっちか片方にしろってんだよ? 欲張りだねぇ」


 カレンさんはそう言って酒場の扉をくぐっていった。


「ごめんなさい、スガさん。すぐ戻ると思いますので――、お片付けをお願いしますね?」


 ラナさんもこう言ってカレンさんと共に外へ出た。


 トゥルーさんは無言で私の顔を見て、軽く頷いただけだ。


 酒場の片付けを終え、掃除も一通り終わらせた。ブルードさんは、ラナさんによろしくと言って先に家へと帰っていった。


 ラナさんはいつここに戻ってくるだろうか?


 カレンさんはここに戻ってくるのか? 直接、家に帰るのかもしれない。


 私はお店の戸締りを済ませて離れに戻った。ラナさんが戻ったときにどんな顔をして迎えたらいいのかわからない。

 いつかの会話でラナさんは、トゥルーさんと私が似ていると言っていた。その通りかもしれない。


 私も……、とても臆病だからだ。




 ――翌日。


 ラナさんの様子に大きな変化は見られなかった。


 身構えていた私が拍子抜けするくらいだ。朝は普通に挨拶を交わし、お昼もいつも通り酒場の営業をしていた。こっそりと目元を覗いてみたが、泣きはらした痕も見られない。

 あえて私から尋ねるのもおかしいと思ったので、そこは触れずに過ごした。



 夜の時間、トゥルーさんはお店に来ていない。あれから衛兵にも真実を告げたのだろうか。カレンさんはいつもと同じ時間帯に姿を見せた。表面的には変化を感じなかったが、お酒を運んだ時に声をかけられた。



「ラナ、悪いけどちょっとスガを借りてくよ?」


 彼女は、駅までの帰り道を付き合ってほしいと言ってきた。


「はいはい、ちゃんと返してくださいね?」


 ラナさんは笑顔で答える。


「すみません。戻ったら後片付けは私がやりますので」


「大丈夫ですよ。昨日は全部お任せしてますからね。カレンと別れたあとの帰り道だけは気を付けてください」


 笑顔のラナさんに見送られて、カレンさんと一緒に外へ出た。気温は高そうだったが、夜風が適度に身体を冷やしてくれそうだ。こちらの世界の星空は相変わらず綺麗だった。


 カレンさんと並んでしばらく無言で歩く。私から話を切り出すべきか迷ったが、誘ってくれたのは彼女だ。彼女からの言葉を待つことに決めた。



 夜の街は静かすぎて――、彼女がなにかを口にしようと息を吸い込む音まで聞こえてきそうだった。


「昨日、トゥルーから全部聞いたよ」


 カレンさんはこんな感じで話を始めた。


「ラナの両親を殺した犯人から、その先にあった王国の騎士が殺された話含めて全部聞いた……」


 私は黙って頷いた。もう駅前まで辿り着いていた。



「ちょっとそこに座って話そうか?」


 彼女は私の返事を待たず、先にベンチに座った。私もその横に腰を下ろす。


「ここあれだねぇ? 私がスガに夜な夜な外へ出かける依頼をした場所じゃないか?」


 そういえばたしかにこのベンチだった。私にとっては、ここからラナさんの一件にかかわる話が始まったのだ。


「はっきり言ってめちゃくちゃショックだったよ、昨日話を聞いたときはさ。トゥルーをぶん殴ろうとすら思ったよ?」


 カレンさんの口調はいつも通りでとても明るい。平静を装っているだけなのかはわからない。


「けど……、それもできなかった。いろいろ知ってて隠してたのは腹が立つけど、一番悪いのはあいつじゃないからね」


 カレンさんの心中を思うとなんて言っていいかわからなかった。きっと彼女にとってトゥルーさんは特別な存在だからだ。


「――スガはやっぱりすごいよ。結局、私の無茶な依頼もしっかりこなしてくれたわけだ。トゥルーのやつもスガに全部気付かれて話す決心をしたみたいだからねぇ」


 トゥルーさんは私のことも話をしたのか。この件に関しては、私を含めなくても彼女たちに話せたはずなのに……。


 彼はきっと、私が追及しなくても近いうちに真実を語ってくれていたのではないか。


 私はただ迷っている彼の最後の一押しをしたに過ぎない。


 カレンさんは急にベンチから立ち上がった。私もつられて彼女の横に立つ。彼女は急に拳を握り始めた。右手でグー・パーを何度か繰り返している。まるで今から誰かを殴るみたいに――、だ。


 なんかとても嫌な予感がする……。だが、ここまでの道中私はなにかマズいことをしただろうか。トゥルーさんを殴ろうと思ったとは言っていたが、その代わりなんてのはさすがにおかしすぎる。右の拳を見つめながら彼女は無言だ。


「あの……、カレンさん?」


 まるで野球の投球モーションのようにカレンさんは振りかぶった。


 なぜこんな展開になるか私は理解できない。


 そして、彼女の握りこぶしが眼前に迫ってくる。


 思わず私は目を瞑った。



「――ッッ!!」



 顔に触れたのは拳ではなかった。


 顔……、いや、正確には、唇に温かく湿った、それでいて柔らかい感触を感じる。


 カレンさんの体の重さと温もりを全身に感じる。


 下唇を優しく咥えられる感じがした。


 かすかにアルコールの臭いもする。


 甘く心地よい感覚に一瞬脳が溶けてしまうかと思った。

 ――が、急に我に返って目を開いた。



「ばーか……、恥ずかしいから目ぇ開けるんじゃないよ」



 カレンさんは半歩ほど私から離れてそう言った。動悸がおさまらない。首の後ろに電気の刺激のような痛みを感じる。


「なっ…! な、なにを! してるんですか!?」


「なんだい? 私からのお礼が不満かい?」


 彼女は前髪を軽くはらってから私を見ている。急にカレンさんの顔を見るのが恥ずかしくなってきた。


「なんか暑くなってきたよ……。ここまで来たけど歩きながら冷まして帰るかねぇ」


 独り言のようにそう言うと彼女は、私の前を通り過ぎていった。柑橘系の爽やかな香りが鼻をかすめる。


「ありがとう、スガ。本当に救われたよ。私も……、きっと、ラナも――」


 彼女は振り返らずにそのまま、夜道を独り進んでいった。

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