第4話 花の闇(後)-4

 頭が痛い。


 私の目の前には見慣れない光景が広がっていた。明らかに場所は屋外。目を瞑っていたようで、まさか今まで路上で寝ていたのだろうか……? あたりは暗い。私は自分の腕時計に目をやった。時間は23時50分を指している。


 ここは一体どこだろうか。どこかの街中のようだが、目の前にある民家かお店と思われる建物や路面は、普段目にしているものとはまったく違っている。TVや写真などで見た西欧の街並みに似た景色が広がっている。街灯はあるが、数は少なく明るさも控えめだった。


 私はズボンのポケットからスマホを取り出した。画面には圏外と表示されている。久しくこの表示は見ていなかった。スーツ姿の私は、見知らぬ地の路上で寝ていたというのか。腕時計やスマホはあったが、普段持ち歩いてるビジネスバッグが見当たらなかった。


 まったく状況が掴めない。



 私は日本でサラリーマンをしている一般市民だ。今日も普通に仕事をしていた記憶がある。だが、今の状況に陥る寸前の記憶がない。今わかるのはケータイの電波が届かないよくわからないところにいて、手荷物を失っているということだけだ。


 誘拐されて異国に連れてこられたのか、そして身ぐるみをはがれて路上に捨てられた……、いや、それなら腕時計やケータイも持って行きそうなもだが……?


 なにか新手のアトラクションに参加でもしただろうか……。直前にテーマパークに入った記憶はない。さすがに記憶にまで干渉してくるアトラクションは、私の知っている限りではまだ世に出ていない。


 ケータイの電源を何度かつけたり切ったりしてみたが、電波状態は変わらなかった。どうやら機器の故障ではないらしい。私は、いざケータイが必要になった時に備えて、電源をおとしたままポケットにしまった。



 時間帯が遅いせいか、人の姿を見かけない。大学生の時に海外旅行をしたことはあったが、今いるところはいわゆる観光地のような気配をまるでない。なにかの次元跳躍で遠い国の見知らぬ土地に飛ばされてきたのだろうか?


 頭の痛みや体の感覚が残念ながら今の事態が夢ではないと教えてくれた。あまりに理解の及ばない状況のせいなのか、逆にパニックになるでもなく、とりあえず手持ちのお金や身分証明書があるかを確認している自分がいる。


 無くなったバッグに財布を入れていたので、それらも同時に無くしているようだ。つまり、今手持ちは0円で場所もどこかわからない。ケータイの電波も繋がらない。非常にまずい状況にあることだけは理解できた。


 とにかく人を探して、ここがどこかを聞き出そう。日本語以外まともに話せないが、迷っていても仕方がない。ボディランゲージも案外伝わるものだと海外旅行に行ったときに経験している。



 私は体を起こし、立ち上がった。灯りがあるところにとりあえず向かう。きっとそこに誰かいるはずだ。ついでに鞄が落ちていないか探して歩いた。どこかわからないが、紛争地域とかでは無さそうなのがわずかな救いだ。


 何歩かあるいたところで腹の虫が鳴った。食べ物も今は持っていない。お腹が減って体力が無くなると、より一層危ない状況に陥るのが目に見えている。元気があるうちにせめてここがどこなのかだけでも突き止めなければ……。



 見ず知らずの土地をひとり歩きまわってみた。歩いている人が1人も見当たらない。これはどこかの民家に助けを求めるしかないか、と何軒か並んでいる建物を見渡す。わからない尽くしな上に言葉も通じるかもわからないので、さすがに家を尋ねるのは勇気が必要だった。


 しかし、そうこう迷っている余裕がないほどに危機的状況にある気がして、一番近くの建物をとりあえず尋ねようと思った時、人影が目に留まった。


 なにか雨合羽のようなフードのあるものを着た人が足早に駆けていく。私は今を逃したら次はない、と思い大声でその人を呼び止めた。

 走って追いかけながら声をかけると雨合羽の人は立ち止まり、私の方を見ると、頭のフードをとってこちらに近づいてきた。



「……ボクになにか御用ですか?」



 「ボク」と聞こえたが、明らかに女性の声だ。私のことを怪しんでいるのが声から伝わってくる。しかし、それよりもっと重要なことがわかった。


 言葉が理解できたのだ……。


 これは奇跡か。それともここは異国に見せかけて日本のどこかなのか?


 歩み寄ってきた人は、やはり女性だった。私はなにから話していいかまとまらず、「あー」とか、「えー」とかばかり言ったあとに、「私の言葉はわかりますか?」と聞いていた。


「えとっ……、わかりますけど……?」


 相手も話しているのだから、当たり前かもしれないがとりあえず確認したかった。コミュニケーションをとれるというだけでも急に希望が見えてきた。

 とりあえず、私自身が状況を理解できていないので、それを説明するのはとても困難だった。


 ゆえに、気付いたらまったく知らない土地にいて、手持ちの鞄を無くしてお金や身分証がないといった内容をそのまま話して伝えた。



 夜の遅い時間に男が急に話しかけてきて、こんな話をするなど怪しさ以外ないと思う。しかし、ありのままを伝える以外の方法を今は思いつかなかった。


 今非常に困っているということを感情に訴えるしかないと思った。実際に困っているので熱心に今の事態を話していると、再び腹の虫が鳴った。


「ふふっ……、困っていることとお腹が減っているのはわかりました。ボクのお店が近くあるのでよかったら来ますか? 今日はもう閉店ですが、ちょっとしたものならお出しできますよ?」


 普段の私ならこうした善意の申し出は一旦断っていただろう。だが、今は藁にも縋る思いだったので、ぜひお願いします、と大声で返事をしていた。目の前の女性は口を大きくUの字に曲げて笑った。とても可愛らしい笑顔だった。


 お店はこの近くですから、と言って彼女は少し駆け足で進み始めた。私は一旦、鞄のことは諦めて彼女の後ろを追いかけた。


「先ほども走っていたようですが、なにかお急ぎなのですか?」


 私は駆け足で前をいく彼女に率直な疑問を投げかけた。


「そういう訳ではないのですが……、早くお店に戻りたいのです」


 私はその意味が理解できなかったが、時折彼女が振り返る姿を見て、ひょっとしたら誰かに追われているところを声かけてしまったのかと思った。明らかにすぐ後ろにいる私ではなく、その後ろを見ているように思えたからだ。


「誰かに追われているとかではないですか? なにか協力できることがあれば言って下さい」


 仮に誰かに追われている状況と仮定して、私がなんの力になれるかは甚だ疑問だ。それなのになぜか私はこんなことを口走っていた。

 すると、前を走っていた女性は急にペースを落として歩き始めた。そしてこちらを振り返ると、先ほどと同じ笑顔を見せてこう言った。


「不思議な方ですね? ボクに声をかけた時はあなたの方が困っているようでしたのに……、ボクを助けてくれるんですか?」


 彼女の言う通りだ。人を助ける以前に私が助けてもらいたい状況なのだ。そう言われて苦笑してしまった。


「それもそうですね……。なにを言ってるんだか――」


「安心してください。別に追われてるわけじゃありませんよ……。優しい方なんですね?」


 彼女はそう言うと前を見て、ここが私のお店です、とすぐそこに見える建物を指差した。

 おしゃれな街カフェのような建物が目に入った。入口の看板のところに酒樽が置いてある。カフェというよりバーなのだろうか? 勧められるがままに店の中に入りカウンターの席に座った。


 店内はやはりカフェに似た雰囲気だったが、カウンターの向こうの棚には酒瓶が大量に並んでいる。彼女はカウンターの奥に消えていったかと思うと「あっ!」と言ってこちらへ戻ってきた。


「お名前をまだ聞いていませんでしたね。なんとお呼びしましょうか?」


 私としたことが大失態を犯した。このような状況で自分から名乗らないとはなんと無礼なことか……。


「申し遅れました。私はスガワラ・ユタカと申します」


 私が名乗ると、彼女は小さい声で何度か「スガワラ」と呟いていた。


「珍しいお名前ですね……。それと、ちょっとだけ発音がむずかしいです。スガ…ワラさん?」


 私にはぴんとこなかったが、どうにも彼女には「スガワラ」と発音するのが難しいようだ。


「知り合いにはよく『スガ』とか『スガさん』と呼ばれていますが……、それならどうでしょうか?」


「スガさん……。あぁ、これがいいですね。いきなりでなんですが『スガさん』とお呼びしてもよろしいですか?」


「はい。私もそれに慣れておりますので」


「それでは改めましてスガさん、私はラナンキュラス――ですが、みんな『ラナ』と呼んでますね」


 ラナさん……、灯りのある店の中で見ると、淡い紫色の髪をした美しい女性だった。そういえば「ラナンキュラス」という名の花があったな、と頭の片隅に過った。心なしか外で出会った時より彼女の背丈が小さく見えるのは気のせいだろうか。


「ラナさん……、ですか。素敵なお名前です。こちらこそ改めてよろしくお願い致します」


「はい、よろしくお願いしますね」


 口をUの字に曲げて彼女は微笑んだ。この笑顔を見ているとほんの少しだけ、私の不安が消えたような気がした。

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