第37話【三十七】アフリカ人、水戸へ帰る
カルヘカが用意してくれた丸木舟でデンババとカンガは川を下り、快風丸へ戻った。
「お、伝旙! 生きとったか!」
「おう! 勘賀! どこほっつき歩いてたんだよお前」
渡し板を登ってきた二人を見て、船員たちが口々に声をかけ、背中や肩を叩いた。
船員の騒ぎを聞いた船長の市内(いちない)が出迎えた。
二人が頭を下げる。
「遅くなりました」
「おお、二人とも無事戻れて良かったぞ。――手間取ったな」
無精髭の伸びた顔をほころばせてデンババの肩を叩いた。
二人があらましを報告する。
「そうか――長老との話はうまくいったか。良かった……。殿も案じておられるだろう、早く帰って報告せねばな。とりあえずはゆっくり休め」
安堵するように言った。
その後数日して、カルヘカの使いを通じて市内が再び協議に赴き、通商交渉は友好的な雰囲気のうちにつつがなく終了した。
生鮭百本が米一斗二升。これが基本相場となったと記録にはある。
※
水戸へ帰る日程が定まった。
もとより、二年分の糧食を用意した航海ではあったが、当初の目的を果たしたことから、これ以上の滞在は不要、と市内が判断したのだ。
帰りの出航に向けて準備が進められた。
筵(むしろ)にくるまれ荒縄で縛られた荷物を船内へ運ぶ。
「五郎兵衛、新しく積んだやつは三番だ」
「おうよ。まだ四番が開いてるぞい」
声をかける船員たちが忙しく動いていた。
デンババもカンガも黙々と働いた。
だが、身体を動かしていてもデンババの気分は落ち着かなかった。
ふとした拍子に、銀色の髪と海のように碧い瞳を思い出す。
荷物を下ろして海に目を向ける。
波間の色にイリカの微笑みが重なる。
デンババは戸惑った。
――俺は何を考えているんだ。
ぼんやりしていると見えたのか、船員の一人が声をかけた。
「おう、伝旙、近ごろ冴えないな。ははあ――さては名物の
無表情に見返した。
「ははは、冗談だ冗談」
肩をぽんぽんと叩いて向こうへ行く。
しばし考えた。
――人を好きになったことはないの?
イリカの言葉が脳裏をよぎる。
胸の奥から突き上げてくるこの想い。
あの時もなんだかわからなかった。
今も襲ってくるこの想いは、それだと言うのか。
――寄り添う事ができる人がいないのは、つらいことだわ。
つらいと思ったことなどなかった。
今までは。
だが今、傍らにイリカがいないというたったそれだけの事が、小さな、しかしどうしようもなく重い事実として全身にのしかかってくるのだった。
時がたてば腹が減るのと同じように、その感覚を受け止めなければいけないことも、なんとなくわかっていた。
イリカに、傍にいてほしい。
たったそれだけの感情を認識できないことが、デンババを落ち着かなくさせていた。
それは、同時に彼女がもういない、という事実を受け止めなければならない事に他ならなかったからだ。
なんとなく波間に目を遣った。
陽光に波がきらめく。
自分の感情がこんなにももどかしく思ったことはなかった。
彼女たちはもういない。
思いだしたところで、何にもならないのだ。
デンババは憮然と首を振った。
「なあ、あいつら、どうしてるのかな」
いつの間にか傍らに立ったカンガが同じように海に顔を向けて呟いた。
同じことを考えていたのだ。
さあな、と答えたデンババだったが、乱れる思いはどうしようもなかった。
――いつだって一人だった。元に戻る、それだけの話だ。
思っていても、納得はできていない。
なんとなく吹っ切れる事ができないまま、日々は過ぎて行った。
※
出航前日。
全員が甲板に集められる。
「――みんなご苦労だった。明日は出航だ。点呼は済んでいるな」
市内の声に甲板長がはい、と答える。
デンババはなんとなく上の空で聞いていた。
「残る者も全員降りたな。で、新たに乗る者もいる。紹介しよう」
脇へ動く。
市内の後ろで小さくなっていた人影が二つ、前へ進み出た。
そこにいたのは、新しい水夫の服を着て、頭に手拭いを巻いた、イリカとエマリヤだった。
デンババとカンガの目が大きくなる。
あ、と口が開く。
「イリカさんとエマリヤさんだ。長老ハウカセ殿の使いとして、水戸まで同行することになった。みんな、よろしく頼むぞ」
滅多に動かないデンババの顔に笑みが浮かんだ。
「えへへ。――来ちゃった」
皆が解散した後、傍に来て照れくさそうに微笑んだ。
思わずデンババも笑みを返す。
イリカが少しいたずらっぽい顔になる。
「あ、笑った。――良かった」
「笑っちゃいけなかったか」
イリカが首を振る。
「うふふ、だって別れ際がそっけなかったんだもの。――嫌われてるのかと思っちゃったわ」
「そんな事はない。――長老に話したのはあの時か」
頷く。
「大笑いしていたわ。よかろう、と言ってくれたの。『儂の使いとして水戸へ行け。そして水戸のトノに伝えるがいい。――これが、ハウカセの返事だ、とな』。そう言ったわ」
「あの人らしいな」
デンババがふっと微笑った。
「家はどうしたんだ」
「人に預けてきたわ。もともと両親が亡くなってから大したものはおいてないしね。――特に持ってこなければいけないものないから」
「そうか」
少し間があった。
「もう会えないのかと思った」
イリカが顔を覗きこむ。
「あたしと別れて、寂しかった?」
意地悪そうに訊く。
「まあな」
「あら、かわいくないんだ。ちゃんと寂しかった、とおっしゃい」
デンババの口の端が曲がった。
「寂しかった。一人でいることを、重たく思ったのは初めてだ」
ゆっくりと傍に寄り添ったイリカがデンババの腕に触れる。
「言ったわ。あなたの水になる、って。あなたが乾かないように。ずっと――乾かないように。」
真っすぐに眼を見た。
海のように碧い瞳が、闇のように黒い瞳を見つめた。
「あなたが許してくれる限り、いつまでも傍にいるわ」
デンババがイリカの手を取った。
頷いた。
二人が目を上げる。
目の前に北の海が広がっていた。
カンガもエマリヤの手を握って、同じように海を見ていた。
青い大海原が広がる。
鴎が三羽、波間を舞っていた。
今日は生き延びた。
明日も生き延びる。
その考えに変わりはなかった。
違うのは、一人ではなく、二人であることだ。
二人で、生きていく。
海の向こうにそれはあった。
輝く光が。
それはアフリカにいた時にはついに見ることのなかった、
希望という名の光だった。
明日への希望だ。
四人はいつまでも海を見つめ続けていた。
※
快風丸は同じ年の八月、石狩を発ち、十二月に那珂湊に到着した。
藩内はその成果に湧き立った。
この探検の成果は「快風丸蝦夷聞書」「快風丸之事」等にまとめられた。
※
快風丸派遣の後、石狩アイヌは松前藩との交易協議に応じたという。
光圀がハウカセに送った書簡については記録になく、いかなるものであったかは不明である。
※
水戸へ到着後、報告の為デンババとカンガは姉妹を連れて登城した。
イリカの話を聞いた光圀は呵呵大笑したという。
その後、光圀に正式に認められ、デンババはイリカと、カンガはエマリヤと盃を交わして夫婦となり、藩内にそれぞれ一家を成した。
※
――南の国から来た男が北の国から来た女と結ばれた、か。
光圀は縁側で独り言ちた。
――まるで、この国の民の成り立ちのようではないか。
そう思った。
なぜ、日本人は北へ向かうのだろう。
光圀が考えていたことはそれだった。
――義公は京から来て、北へ向かった。
奥州藤原氏もまた、北で滅びた。
徳川家もいずれ滅びる時は北へ向かうのではあるまいか。
いずれ我々も歴史の大河の中に埋もれていく。
――
それは後世の人々が見届けるのであろうな。
なんとなく物悲しい顔で夜空を見上げる光圀だった。
※
黒人二名はその後、家臣として登用され数百石が与えられた。
いかなる功績によるものであるかは、記録にない。
二名の家系は、明治の廃藩置県の時点ではまだ続いていたと伝えられる。
その後の消息は定かでない。
※
余談になるが、筆者が中学生の時、同級生にM君という男子生徒がいた。
どこから見てもアフリカ系の黒人にしか見えないその少年は、恵まれた体格と、卓越した身体能力を持っていた。
ハーフであるのかを質したが、彼は生粋の日本人である、と言うだけだった。
ご両親の実家は茨城であるという。
(了)
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