第35話【三十五】アフリカ人、ハウカセに会う
囲炉裏を挟んで上座のハウカセに対したデンババとカンガは、座ったまま深々と一礼した。
「主君の命を受け、水戸より参った伝旙と申す。主君より長老殿宛ての書状を預かって参った。ご覧いただきたいのだが」
うむ、とハウカセが頷く。
羆とサマイカチが同時に斃され、砦の周辺は一時湧き立った。
二人はイクルイの案内で今度は正式に、家に招き入れられたのだった。
デンババは水夫服の襟の折り返しに手をかけ、縫い目を引きちぎった。
襟元を広げて中から油紙で二重に包まれた書状を取り出し、皺を伸ばすと傍らに控えていたイクルイに手渡した。
イクルイが油紙をほどき、書状をハウカセに渡す。
封書を開き、紙を広げた。
「お前たち、どこから来た。水戸に来る前だ」
書状を目で追いながら、低い声が訊いた。
「アフリカ、と言っても知らないでしょう。遠い、はるかに遠い、西の国だ」
ふむ、と言ってちらと目を上げた。
「黒人、か。話には聞いたことがあるが、本当に夜のように黒いのだな。お前たちも、他の国の者のようにこの国に流れ着いたのか」
デンババが首を振る。
「白人に捕まって、売られた」
ほう、と呟く。なんの感情もそこには籠っていない。
「
「まあ、そうとも言えるか。別に戦っていたわけではないんだが」
奴婢か、とぼそりと言った。
「――何か儂に言っておくことはあるか」
書状から目を上げた。
「我らの主君は、やたらな戦になることを望んではいない。血を流しても、お互いにいい事はなにもない。そう伝えろと言われた」
少し間があって、ハウカセの口元が、ふ、とゆがんだ。
「勘違いしてもらっては困るが、儂等は別に和人どもを恐れてシャクシャインの戦に加わらなかったわけではない。石狩には石狩の考えがある。儂等を侮るようなことがあれば、いつでもそれなりの事はできる用意はある」
細い眼の奥の瞳がわずかに光った。
射すくめるような眼光だ。
だが、デンババもカンガの顔もまったく動かない。
ハウカセの眼がふと緩んだ。
「自分たちの境遇を恨んだことはないのか。売られてきたのだろう? 自分たちをこんな目に合わせた者たちが憎くはないのか」
挑発するように言った。
デンババが首を振る。
「誰を憎んだところで始まらん。どこにいようと自分は自分だ。それ以上でも、以下でもない。境遇を呪ったところで、俺の腹が膨れるわけじゃない」
ハウカセの眉が少し寄った、と思うとほっほっほ、と笑った。
「だいぶ本音っぽくなってきたな。――なかなか面白い男だ。儂と相対していささかも動ずる気配がないのも気に入った。相当な修羅場をくぐってきただろうことは見ればわかる。――とすれば、お前たちを遣わした主君のハラが気になるところだな」
言葉を切る。
「お前たちほどの胆力があれば、どこででも生きていけように。――なぜ主君に仕える気になった」
少し相好を崩したまま言った。
デンババの表情は変わらない。
ふと目線を逸らせた。
「俺たちを手に入れるのに、主君は金を使った。だが、俺たちを金で買ったわけではない、と言った。人が人を金で売り買いする、などということはあってはならん。主君はそう言った。白人たちは、俺たちの色が黒いと言うだけで、人として扱わなかった。主君はそういうことはしない」
「ふむ。それで?」
「『まず、人であれ』。主君はそう言った。俺たちはその言葉を信じることにした。その上で、自分の部下として、俺たちの『外の国の人間の目で見て』あなたと話してこい。――そう言われた」
ハウカセは顎に手を当てて濃い髭を指先でしごいた。しばらく考えている風だった。
「で、儂に会ったわけだ。それで――お前はどう思っているのだ」
「別に、どうとも。俺たちは、あなたになんの他意も持っていない。侵略しようとか思い通りにしようとか、
無表情に言い放った。
ハウカセがはっと破顔した。
「ずいぶんと豪胆な申し出もあったものよ。会ったばかりのこの儂にお前らを信用せよ、と言うか。なおかつ、会ったこともないお前らの主君をも信用せよ、と」
書状を目の前に
「ここになんと書いてあるか知っておるのか? 『これを持参したる当家の者、もし信ずるに足らずと覚えし場合、その処遇については当家お構いなしとする』と書いてあるのだぞ?
お前たちが気に食わなければ煮るなり焼くなり好きにせよ、と言っているのだ。そこまで言われて、それでもお前たちは主君の命に他意はないと言うのか」
デンババの顔にはなおも表情はない。
「もちろん。下命は命に代えても果たす。それが仕える者の掟だ。俺たちのいう事が信用できないから殺す、というなら、それはそれで構わない。
だが、それは同時に俺たちの主君に対しても刃を向ける、と言っていることと同じになる。それを見逃すわけにはいかない。俺たちはただでは殺されない。――あんたも殺す」
右の物を左にどけるような、素っ気ない言い方だった。
控えていたイクルイが膝立ちになり、剣の柄に手をかけた。
ハウカセが片手を広げてイクルイを押さえ、歯を見せた。
「――ここがどこだかわかっていて言っておるのか? 主君の威光も届かぬ、北の果てぞ。お前たちはひとりだ。味方はおらぬのだぞ」
デンババの顔に変化はない。
「どこでも関係ない。俺たちはマヒ族の戦士。原野の中で戦うときはいつもひとりだ。戦わなければならないときは相手が誰であろうとも戦う。――勝てる勝てないは関係ない」
ハウカセがじっと顔を見つめた。
深い眼窩。
永遠の淵のように、黒い瞳。
そこにはなんの感情も浮かんでいなかった。
生きる事が、すなわち戦いだ。
アイヌも、同じではなかったか。
長い冬。雪。山。飢え。抗争。羆。
日々は、戦いの為にこそあった。生きていくことこそが、戦いだったのだ。
「――失礼いたします」
イクルイの背後から、イリカとエマリヤがそっと顔を出した。
二人で床に膝を着いて一礼する。
「
ハウカセの目が少し大きくなる。
「構わぬ。何かあるなら申してみよ」
はい、と答えたイリカの顔が真っすぐにハウカセを見た。
「行きがかり上ではありましたが、私たち姉妹が二人を案内してまいりました。道中、サマイカチの
いきなり会ったこの二人を信用できかねるとのお話、誠にごもっともな仰せと思います」
言葉を切った。
「――ですがこの二人は、文字通り命がけでここまで参ったのです。何度も死にそうな目に合い、私たちを助けながら、長老にお目にかかるその為に、命をかけて参上したのです。
どうか――どうか長老様、その意をお汲みいただき、この二人の申し出、信じて頂くわけにはまいりませんでしょうか。この通り、お願い申し上げます」
二人が床に打ち付けるように深々と頭を下げた。
しばらく間があった。
ハウカセが口を開く。
「娘、コタンパのイリカと申したか。エフゲン、という名に覚えはあるか」
「――はい?」
イリカが顔を上げた。
「お前の眼と髪を見て思いだしたのだ。――どうだ」
口元が笑っていた。
イリカが怪訝な顔になる。
「エフゲン――エフゲニー・スヴェルトコフは、私たちの父です」
ハウカセの両眼がかっと見開かれた。
「なんと。――お前たちはエフゲンの娘か」
少しの間の後、いきなりはっはっは、と笑いだした。
「そういえば、姉妹がおったな。まだ小さかった。思い出したぞ」
しばらく破顔してから。ふいに真顔になる。
「エフゲンはどうしておる」
「父は――病で亡くなりました。もうだいぶ前です」
まだ少し怪訝な顔のままイリカが言う。
ハウカセの目が斜め下を向いた。
「そうか……。もうおらぬか。痩せた男だったからな」
「父を――ご存知なのですか」
頷く。
「だいぶ昔、河口まで頻繁に巡検に回っていた時だ。急な病に襲われての。苦悶しておった。たまさか近所にいたのがその男だ。『王の薬だ』と言われて与えられた薬で、儂は命を取り留めた。
男の名はエフゲンと言った。何か褒美を取らせようとしたのだが、頑として首を縦に振らなかった。――変わった男だったな。だが、受けた恩は忘れぬ。返せぬ事が今も心残りだ」
「そうだったんですか……父が」
イリカも目を伏せた。
ハウカセがゆっくりと顔を上げる。
「伝旙と言ったか。――お前の話、信じてみようではないか」
「本当ですか」
イリカの顔がぱっと明るくなった。
ちらとその顔を見て頷く。
「エフゲンの娘がそこまで買うのだ。答えぬは不義理と言うものだろう。――だが、それだけではないぞ。地獄の中で生きているのはお前だけではない。儂らとて同じよ。
おのれの中の地獄を受け止めてこの先もお前は生きていく。――お前のその覚悟を、今は信じることにする」
細い目の鋭い眼光が真っすぐにデンババの目を射た。
何かが交錯する。
デンババが微かに頷く。
ハウカセもまたゆっくりと頷いた。
デンババとカンガ、そして姉妹の四人が、今度こそ深々と頭を下げた。
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