第34話【三十四】アフリカ人、決戦する


 エマリヤが叫ぶ。サマイカチが剣をかざして素早く後退した。


「全員動くな! 動けば娘の命はないぞ!」


 踏み出そうとしたカンガの足が止まる。

 弓を構えたルウケシが横に回ろうと動いたが、サマイカチがエマリヤを盾にしているので撃てない。

 刀の柄に手をかけたイクルイがぎりっと歯を嚙み締めた。


 エマリヤを盾にしたまま、門に向かって後ずさりしていく。


「動くな!」

 距離を置いて動こうとしたイクルイを一喝する。


 門の周囲にアイヌたちが集まっていた。

 人波が左右に分かれる。

 その中をサマイカチがじりじりと抜けていく。


 おい、と門の脇にいた若い男に声をかける。

 びくっ、と男の体が固まった。


「お前も来い。舟を出すんだ」


 突然指名された若者は左右をきょろきょろと見る。

 周囲のアイヌたちの不安げな表情の中、渋々歩き出した。


 若者を前に歩かせ、門を出て坂を下っていく。

 門の前までそろそろと近づいてきたイクルイたちに再びエマリヤを向ける。


「追うなよ。追ってくる人影を見つけたら、娘もこいつも殺す!」


 剣を若者に向ける。

 若者がひっと喉を鳴らした。


 坂を下りて西側へ向かった。

 丈の高いよしが生い茂った川辺に向かって歩き出す。


「舟で川を下るつもりか。弓でやれないか」

 イクルイがルウケシに顔を向けた。

 無理だ、と言ってルウケシの顔が曇る。

「外したら娘に当たる。それに矢を射るには近づかないといけないが、あっち側では近づいたら草が深くて相手が見えない」

「それを読んだ上で東に向かったのか」

 イクルイが舌打ちした。


 いけない、と門番の男が呟いた。イクルイの方を向く。

「今朝がた、東の川辺でウェンカムイを見た者がいるんだ。でかい奴だ。後で人を出して追い払おうとさっきまで相談していたんだ」

「――なんだと」


「あたしが追うわ」

 イリカが進み出た。

「――妹をほってはおけないわ。無理でもなんとかする」

 イクルイが口を開きかけた時、デンババがイリカの肩をそっと押さえた。


「俺たちに任せろ」


 イリカがさっと顔を上げる。

「無理よ! どうやるの? 弓は使えないのよ?」


 デンババの表情は動かない。

ブッシュの中でなら、マヒ族は無敵だ。――任せてくれ」


 しばらくの間黙っていたが、イリカがデンババの腕を掴んだ。

 碧い眼がすがるようにデンババを見つめる。

「わかったわ。――妹をお願い」


 デンババが頷く。

 カンガが横に立った。


「いつもの手か」ぼそっと言う。

「ああ。方角はだいたい掴んだ」

「ここからでも見えなくはないが、ちょっと声が遠くなるな」


 サマイカチが草むらの中に姿を消した事を確認してから二人が顔を出す。

 葦の藪の向こうに葉の生い茂った樺の木が数本立っているのが目に入った。


「あれで行こう」

 首で示すとよし、と一声かけてカンガが風を巻いて柵の東側へ走り出した。


「カンガはどこへ行くの?」

 イリカは不安げだ。

「反対側から回り込む。――ここにいてくれ」


 今度は、あたしも行く、とは言えなかった。

 黙って頷く。


 デンババも槍を手にして走り出した。




 はあはあとサマイカチの息が乱れる。

「逃げても無駄よ。いずれは捕まるわ」

 服の背を掴まれたままエマリヤが目だけ動かす。


「うるさい! 黙って歩け! 殺すぞ! ――お前もだ!」

 前を歩く若者に剣を向ける。

 ひいっ、と若者が背筋を縮めた。


「俺はこんなところで捕まるような男じゃない。俺はカムイに選ばれた男だ。――英雄だ。俺は石狩を救う英雄にならなければいけないんだ」

 自分に言い聞かせているように小声で呟いた。


 エマリヤの目が憐れむように細まった。


 鳥の声が聞こえる。




 チュクチュク、ツイ、と鳥の声。

 カンガが木へ達したのだ。


 左へ二。


 デンババは掌を水平に開く。

 わずかに向きを変え、音を殺して慎重に足を速めた。


 チチッチ、ピピ。


 十四歩先。


 エマリヤがいるからいつものように槍は投擲できない。

 槍の尻を前に向けて両手で構え、腰を低くしたまま進む。


 アフリカの記憶が甦ってくる。


 ブッシュでの戦いを思い出す。


 ボンボボ、ボンボボ、ボンボボ。


 遠い太鼓ンゴマ、戦いの音がする。


 ハウア! ハッ! ホウオ! ホオ!


 まじない師の唱える戦いの祈りが脳裏に響く。


 そう。――俺はデンババ。

 ブッシュ無敵の戦士。


 全身に力がみなぎってくる。




 サマイカチが紅い髪を振り乱して背後を何度も振り返る。


 草に遮られて追手は見えない。

 再び前を向く。


 遠い川面が目に入った。

「はは、見ろ、川だ。――カムイは俺の味方だ。俺を導いている。川を下ればこっちのものだ」

 荒い息を吐きながら口の端から泡を飛ばしている。


 エマリヤがそんな顔を冷たい目で見遣った。

「村(コタン)の人たちになんて言うつもりなの」

「そんなものはどうにでもなる。――愚かな奴らを言いくるめるなどわけはない」

 まだちらちらと後ろを気にしながら吐き捨てた。

 

「かわいそうな人。いつもそうやって人を見下して生きてきたのね。――あなたに従う人がなぜ誰もいないのか、あなたには永遠にわからないでしょうね」

「うるさい! 黙ってろ! ――俺は」


 サマイカチの真横、視界の端から黒い影が飛び出した。

 棒の尻が真っ直ぐに伸びてサマイカチの顎を捕らえた。

 がつっと音がして首がのけぞる。


「ぐわっ!」


 エマリヤの服を掴んでいた手が離れる。

 デンババがエマリヤの肩を掴んで引き寄せた。

「砦に向かって走れ!」

 来た方を指さす。

 エマリヤが頷いて草むらを走り出した。

 気づいた若者も同じ方へ向かって走り出す。


 ふらついたサマイカチが頭を押さえて首を振る。

「く……そ。――くそおッ!」


 遮二無二剣を振り回した。

 右に左に、デンババが躱す。

 横から腰を回した棒がサマイカチの脇腹にめり込んだ。


「ぐお!」

 体がくの字に折れて横へぐらついたが辛うじて立て直す。


 ピピイ! と鋭い鳥の声。


 ――『危険!』


 カンガの警報だ。

 走り出そうと体制を変える。


 おお! と吠えながらサマイカチが正面から剣を振り下ろす。

 棒で右にはじいた。

 左から横に剣を薙ぐ。


「やめろ! 逃げないと危ないぞ!」

 右へいなしながら叫ぶがサマイカチの耳には入らない。


「殺し、殺してやる! きさまが! きさまらが! 邪魔を! 俺の! 邪魔をしやがって!」

 はあはあと息を乱しながら剣を振り回す。

 離れることができない。


 剣を躱した拍子に葦の根元に足が絡んだ。

 体がふらついた。


「死ね!」

 剣を振り上げる。


 轟、という咆哮がサマイカチの耳に届く。


 え?

 一瞬、呆けたような顔になる。


 振り向いた。


 後足で立ち上がった巨大なひぐまの顔がそこにあった。

 前足の鋭い爪が右から左へ空を切った。


 あ。という顔のまま、ぞん、という音と共にサマイカチの顔面がそぎ飛ばされた。


 血しぶきが飛び散る。剣を構えたままの身体がくずおれた。


 朱に染まった羆の顔がデンババの方を向く。


 初めて見る成獣の熊。

 牙。爪。咆哮は肉食獣のそれだ。


 豹と違う種類。

 獰猛さは同じかそれ以上。


 身体の構造はほぼ同じ。

 されば破壊すれば死ぬ位置も同じと見た。


 デンババの本能はそれだけの情報を瞬時に把握していた。


 素早く棒を持ち替えた。

 尖った先端を熊に向ける。


 熊が体重を前に移動する刹那、背後から影が熊に巻き付いた。

 カンガが飛びついたのだ。


 腋の下から羽交い絞めにする。

 振り払おうと熊が身もだえするが、カンガの怪力はほどけない。

 黒く太い首が下を向いて腕に噛みつこうとするが、カンガが体を反らせて持ちこたえる。


 いつであってもわずかな隙は見逃さない。

 大きく踏み込んで、かっと開いた熊の口をめがけて槍を突き上げた。


 がつっ、と頭蓋を砕く手ごたえがあった。

 熊の体が固まる。


 槍を手放した。


 カンガを上に乗せたまま、熊はうつぶせに倒れ、動かなくなった。

 

「――カンガ!」


 逃げたと思っていたはずのエマリヤが草むらから飛び出して駆け寄ってきた。

 熊の上から起き上がったカンガに飛びつく。


「カンガ、助かったわ! 大丈夫?」

 心配そうに顔をのぞき込む。

 ああ、とカンガが頷いて照れるように歯を見せた。



 二人を眺めていたデンババがふっと息をついた。


 向き直る。


 長く伸びた熊の体の向こうに、風に倒された案山子のように横たわる、かつてサマイカチであった男の骸を見つめた。


 何の感慨もそこにはなかった。


 今日もひとつの死がそこにあるだけなのだ。


 今日もまた生き延びた。

 思うことはそれだけだ。




 デンババはしばらくの間、そのまま佇んでいた。






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