第32話【三十二】アフリカ人、謎の敵に襲われる


 晩生内おそきないから滝川まで四里と半(約十八キロ)だ。

 歩けば一日強。

 一艘を二人がかりでこぎ続ければ半日がかり、と踏める距離である。


 月明かりに煌々と照らされた水面を二艘の丸木舟が遡上していく。

 舟幅は狭いが長さとしては四人は乗船できる。

 流れの早い川の中央部を避け、岸辺に近い位置を選んで二人が交互に竿を刺していった。


 片方の舟ではイクルイとデンババが竿を刺し、イリカが乗っていた。

 もう一艘はルウケシとカンガが操り、それにエマリヤが乗っている。


 川の両岸には水面ぎりぎりまで木が生い茂っており、岸辺の視界を遮っている。

 水面までせり出した枝葉が月光を遮ると、そこら辺りだけが一時いっとき闇の暗さになった。


 川幅は広いところでも百十間(約二百メートル)ほどだ。

 中洲のある浅瀬では、男手二人ずつで舟を引っ張って進んだ。


 ふた刻ほどが経過した。


 川幅が多少狭くなり始める。

 刺した竿の感触から、水深は背丈ほどであろうと思われた。


 月明かりの中で、川面に丸くせり出した岩を見つけるとイクルイが顎で示した。

「あれが『狸岩モユクシュマ』だ。砂川オタウシナイが近いぞ」

 少し息の切れた声を出した。

 

 デンババが懸命に川に竿を刺す。

 イリカが強張った顔でそれを見つめていた。


「あれ、何かしら」

 隣を並走する舟の上でエマリヤが上流を指さした。


 カンガとイクルイが竿を刺しながら少しかがみ気味になって水面に目をこらす。


 一尺ほどの大きさの物が上流から無数に流れてくる。

 ほとんどが川の中央を流れていくが、一部が岸辺近くに寄ってきた。


 褐色の円鱗が月光を照り返している。


「魚だ。糸魚チライかな。みんな死んでる」

 ルウケシが流れてきた一尺弱ほどの個体を手に取った。

 ぐったりとして動かない魚をしげしげと見つめる。

 獣につけられたような損傷が見えない。


 二艘の舟の脇を魚の死骸がぞろぞろと流れていく。


「なんでこんなにたくさん――」

 イリカが怪訝な顔になる。


「わからんな。上流で何があったんだ。毒でも撒いたか」

 イクルイが息を荒げながら言った。

 デンババの顔は動かない。


 死骸の群れが脇を通り過ぎてしばらく経った。



 虫の声が止む。

 川面が静かになった。


 無言で竿を刺す男たちの息遣いだけがやけに大きく聞こえるようになった。



「なんだか――やけに静かね」

 エマリヤが周囲を見回す。


 言われてデンババもあたりに目を配った。


 ごぼごぼ、と川面で音がする。


 ルウケシが竿を止め、少し姿勢をかがめた。

 少し先の川面に目をやった。


「――水面が動いてる。魚か?」

 ぼそりと言う。

 イクルイも竿を止めた。


 川面がうねうねと波立っていた。

 一間ほどの広さの範囲で、ぬめぬめと波打つものが複数、水面近くでうねっている。


「何? あれ」

 イリカが眉を寄せた。


 どん、と舟の下に何かが当たった。

「きゃっ!」

 イリカがびくりと跳ね上がる。


 エマリヤの足元でもぼん、と低い音がした。

 ひっと喉を鳴らす。

 舟がかすかに揺れる。


 再び水面が静かになった。


 全員が動きを止め、耳を澄ませた。


 エマリヤの乗った舟の床下からごり、ごりっと音がする。


「な、なんなの?」

 エマリヤが座ったまま後ずさった。

「わからん。――こんなのは初めて見る。……まさか、いや」

 ルウケシの顔が引きつる。


「慌てるな。舟を――」

 イクルイが言いかけた時、ごぼっと音がして二艘の舟が揺れた。

 男四人が体勢を崩してしゃがみ込む。


「下に何かいる」

 デンババが言った時、反射的にのぞき込もうとしたエマリヤの動きと舟の揺れが同調した。

「きゃあっ!」

 体が宙を泳いで前のめりに水面に投げ出された。

 派手な水しぶきが上がった。


 水の下をわらわらと何かの群れが動いて、たちまちのうちにエマリヤの体に纏わりつく。


「やっ! いやああああ!」


 水面から顔を出したエマリヤが絶叫する。

 上げた腕に複数の黒く細長いものが巻き付いていた。


「エマリヤ!」

 竿を引き上げてルウケシに手渡したカンガが川に飛び込んだ。

 二三度水を掻いてエマリヤの腕を掴む。


 巻き付いているものを引っ張ろうとするがぬるぬると滑って掴むことができない。


「くっ、なんだこいつは!?」

 カンガの身体にも黒い影がいくつも纏わりついてきた。


「ちッ! くそおッ!」

 カンガは自分の身体にへばり付いたものを無視して、エマリヤの腰を抱えて舟に持ち上げた。

 舟の上に体を投げ出した刹那、丸太のような太さの個体がカンガの背中に吸い付き、水の中に引きずり込んだ。


「うわ!」


「この! 離れろッ!」

 ルウケシが竿の尻でエマリヤの身体に付いた黒いものを引きはがして舟の床で踏みつける。

「こいつは――八目鰻ウクリペだ。こんな群れでいるなんて……」

「エマリヤ! 大丈夫?」

 イリカが船べりから声を掛ける。

 エマリヤが頷きながらげほげほと苦し気に咳き込んで水を吐き出した。



 ヤツメウナギは北海道の河川に広く生息している。

 通常カワヤツメと呼ばれ、アイヌ語ではウクリペ、もしくはヌクリペと呼ばれた。

 ウナギと名がついてはいるが魚類ではなく、ヒルのような円形の口を持つ円口類であり、水棲生物に張り付いて体液を吸う吸血生物である。



「カンガ!」

 デンババの声に応えるように引きずり込まれたカンガの顔が一瞬水面から躍り出る。

 黒く太い胴体がカンガの体に巻き付いていた。


「――水魔ミントゥチだ!」

 ルウケシが叫ぶ。

「ミントゥチ?」

「川に棲む魔物だ。捕まったら命はない」

 デンババがむう、と唸る。

 カンガに巻き付いているそれの長さは五尺(約1.5メートル)はありそうな代物だった。

「でかいな……。化け物か」

 イクルイが呻いた。



「ミントゥチ」は元来、半人半獣の河童のような精霊とされているが、ルウケシたち石狩川流域の地元民は得体のしれない水棲生物をそう呼称していたようである。

 河川に生息するいわゆるカワヤツメは通常大きな個体でも一メートルほどであるが、環境によっては大きく育つ可能性がある。

 非公式な記録ではあるが、北米エリー湖で捕らえられたある個体は直径十五センチ、全長が二メートル以上あったという。

 水場に踏み込んだ鹿などの小動物を襲って吸血していたらしい、との報告もあったようだ。



 デンババが竿を刺して舟をカンガに寄せる。

 竿を差し出した。

「カンガ! 捕まれ!」

 草原で生活するマヒ族は水中での活動が得意ではない。

 カンガには不利な条件だった。


 一瞬水面に苦しそうな顔が浮かんでがはっと水を吐く。が、黒くのたうつ太い胴体が再び水の中へ引きずり込む。


 首に巻き付いた胴を引きはがそうとするが、ぬるぬるした粘液質の皮膚は力ではつかめない。

 腕や足で挟んで固定することもできない。

 呼吸が苦しくなる。カンガは少し焦った。


 ――まずい。このままではやられる。

 ――ウナギの敵は、何だ。

 ――ワニだ。ワニなら!


 苦しい呼吸に耐えながら、カンガは敵を巻きつけたまま体を反転させて水の底に潜った。

 安心できる水深に戻った水魔のいましめが少し緩む。


 首の動きが自由になったカンガは片腕で胴を抱え、大きく口を開けると太い胴体に思い切り噛り付いた。

 強靭な顎がめりめりと胴体に食い込む。


 水魔の胴がびくびくともがく。

 がっちり食いついたカンガの口は外れない。

 口いっぱいの肉を勢いで食いちぎった。そのまま吐き出す。

 白い傷口から赤い血が煙のように水中に広がった。


 ――もういっちょ!


 首を回して今度はうねる腹側にかぶりつく。

 思い切り口を閉じた。

 水魔が激しく体をくねらせ、カンガの体からずるりと離れる。


 はらわたをえぐられた水魔はたまらず、水底へ向きを変え、下流側に遠ざかって行った。



 水からカンガがぶはっ、と顔を出す。

「カンガ!」

 エマリヤが船べりを掴んだカンガの手を握った。


 浅瀬に寄って、水から舟に上がる。

 舟底に手をついてはあはあと荒い息をつくカンガの首にエマリヤがしがみついた。


「カンガ――カンガ! 怖かった……」

 めそめそと泣き出した。


 カンガはまだ肩を上下させながら、抱きついたエマリヤの髪を片手で撫でてやった。

 デンババが憮然として首を振った。


「味はどうだった。うまいか」

「ああ。――うますぎて二度と食いたくねえ」


 カンガはまだ乱れた呼吸のままにっと歯を見せ、親指を立てて見せたのだった。

 





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