第28話【二十八】アフリカ人、敵を倒す


 デンババは目標を真っすぐに見据えて走った。


 再び藪から矢が飛んできた。

 前に構えた槍で苦もなく払い落とす。


 躱すことも容易たやすかったが、後ろにいるイリカに当たる危険があったからだ。


 ――次の矢を放つ前に。


 脚を速めようとした次の瞬間、前方の藪ではなく、左前方斜め上から矢が飛んできた。


 ――なにっ!?


 体を返して辛うじて躱す。

 勢いで地面に転がった。


「イリカ伏せろ!」

 イリカが体を前に投げ出す。

 次は前方から飛んできた矢が頭上を通過した。


「敵が二人いるの!?」

 伏せたままイリカが叫ぶ。

 デンババも一瞬混乱した。


 体を起こして再び走り出す。

 と、今度は右前方から矢が放たれた。

 槍で払い落とす。


 何かがデンババの中で閃いた。


「突っ込むぞ!」

「危ないわ! 三人いるのよ!」


 イリカが叫ぶが、デンババは速度を上げた。

 マヒ族の本気の脚力は肉食獣に匹敵する。

 たちまち距離が縮まった。


 前にあった藪が二本の足で立ち上がると、山側に向かって走り出した。

 手元を離れる複数の蔓が見えた。

 デンババがすべてを理解する。


「仕掛け弓だ! 敵は奴だけだ! イリカ! 撃て!」

「――はいッ!」


 瞬時に理解したイリカが素早く弓に矢をつがえる。

 逃げていく藪に向かって放つ。


 右足の大腿部に命中した。

 

 手足の生えた藪がもんどりうって倒れると、そのまま山側へ転がり木立の陰に消える。

 デンババが素早く追う。

 槍を振り上げて木立を回り込んだ。


 デンババの右足が跳ね上がる。


「うおッ!?」


 仰向けに倒れた。

 片足が空中に吊り上がる。


「デンババ!」

 イリカが駆け寄る。

「近寄るな! 罠だ!」


 え、と言った時にはもう片足を踏み込んでいた。

 ばさっと音がしてイリカの片足も宙に持ち上げられた。


「きゃあっ!」


 デンババより軽いイリカは逆さになって腰まで吊り上がった。


 跳ね上がる枝に仕掛けられたくくり罠だ。


 デンババが倒れた姿勢のまま素早く左右を見る。

 視界の端で盾をエマリヤに渡したカンガが走り出すのが見える。


 山側からは片足を引きずった草藪の塊が、おおおお、と不気味なおめき声を上げながら迫って来ていた。

 逆手に握っている短刀が見える。


 この位置ではカンガは間に合わない。

 首を動かして落とした槍を探す。

 手元のわずかに先に落ちていた。


 けひひひ、と気味の悪い声が傍で聞こえる。


 まずい、届くか。


 草に隠れたぎらぎらとひかる眼がはっきりと見えた。


 短刀が振り上げられた。

 デンババが歯を食いしばる。

 

「いヒイ!」


 敵が奇妙な声を上げた。

 頭が下を向く。


 デンババも足元を見た。


 くさり模様をした蛇が、草鞋を履いた敵の足に食いついていた。


「ああぎゃあああああ!」

 

 片足を矢で射抜かれ、もう片足を蛇に噛まれた敵が川側に倒れ込む。

 瞬間、ざざっと音がして上から何かが真っすぐに落ちてきた。


 杭だ。


 ぶつっという湿度のある不快な音と「げぶぇ!」という声が同時に聞こえた。



 デンババとイリカはただ見ていただけだった。

 カンガも足を止めた。



 周囲が静かになる。

 小屋が燃えるぱちぱちという音だけが、原野に響いていた。


 カンガが近寄って来る。

 イリカが腰から山刀を抜いて、上体を器用に曲げると片足立ちになり、足に絡んだ罠を切った。

 デンババの足に巻き付いていた蔓も切り離す。


「危なかった。――あれは、蛇か?」

 上体を起こしながら言った。

 騒ぎに驚いたのか、蛇の姿はもうなかった。

まむしだったわ。滅多に見ないのだけど。この国の毒蛇よ。噛まれたら命はないわ」



 意外なようであるが、蝦夷地にも蛇は生息している。

 環境のせいか内地に比して種類は少ない。

 マムシはその中で唯一の毒蛇である。

 山間部の湿地帯に主に出没する。



「どのみち運はなかった、ってことか。こっちは助かったが」

 カンガが木を回り込みながら言う。

 エマリヤも追いついた。


 四人が地面に突き立った杭に近づく。

 太さ一掴み、長さ六尺ほどの木杭が、仰向けになった敵の胸元に深々と刺さっていた。

 カンガが眉を寄せる。


「俺たちも誘い込んで始末するつもりだったんだな。――自分の罠に掛かって死ぬとは思わなかっただろうが」

「蛇に噛まれて慌てたのね。無理はないけど、同情する気にはならないわね」

 カンガとエマリヤが顔を見合わせた。


 デンババが死体の頭に近づいて屈みこむ。

 敵は顔に濃い色に黄ばんだ布を巻き付け、その上に葉の繁った蔓草を巻き付けて藪に擬態していた。

 布の間から、血走った眼が覗いている。

 驚いたように目を見開いたまま死んでいるのだった。

 口元に血だまりができて布が赤黒く染まっている。


 デンババが顔の蔓草を取り除き、布を下からめくり上げた。


「あ!」「――え?」

 イリカとエマリヤが息をのみ、口元を手で覆った。



 布の下から現れたのは、川辺で話しかけてきた老婆の顔だった。



「そんな――この人が?」

 イリカが口元を覆ったままかすかに声を震わせた。


「ああ。こいつが『ましらの彦九』さ」

 デンババが事も無げに言う。イリカが思わず顔を見た。

 カンガも全くの無表情だ。


「気づいていたの?」

 まあな、と呟いた。カンガも頷く。


「いつ? どうして?」

 驚いたイリカの顔を見る。


「川辺でこいつが近づいてきた時、わずかに血の匂いがした。カンガも気づいていた。――それで思い出したのさ」

「何を?」

「捨三だよ。――奴は『彦九』がだろ」


 あ、と言ったままイリカが絶句する。


「わざわざ話しかけてきたのも、罠にはめるための芝居だったのね……。でも――この人、アイヌの言葉を話していたんでしょう? アイヌ人じゃないのかしら?」

 デンババがエマリヤの顔を見る。

「捨三の話が本当なら、そういう事になるな。――どうやってアイヌの服を手に入れ、アイヌの言葉を話していたのかは、今となっては誰にもわからんが」


 そう、誰にもわからない。

 デンババは独り言ちた。


 狡猾で卑劣な罠を使って人を狩ることで生きてきた女。

 腕力や脚力から考えて、おそらく見た目通りの齢ではないのだろう。

 そんな風に見える人間がいることも知っていた。


 死体の顔を見降ろす。



 ――どのような人生があったのだろうか、こいつに。



 人の生き方を問える自分ではない、とは思いながら、そう問わずにはいられなかったデンババだった。



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