第27話【二十七】アフリカ人、敵を迎撃する


 二人が地に伏せた瞬間、傍らの木から飛び出した枝がデンババの頭上を真横に通過した。

 後ろの木に当たった太い枝ががつっと音を立てる。


 エマリヤが悲鳴を上げた。


「お姉ちゃん!」

「出るな!」


 走り出そうとするのをカンガが腕を掴んで引き留めた。

 エマリヤの身体が固まった。


 デンババがイリカを組み敷いたまま、そっと頭を起こす。


 頭上を水平に薙いだ太い枝の先には尖った杭が横に結びつけられている。

 その杭が傍らの木の幹に深々と突き刺さっていた。


 人の胸の高さだった。


 イリカが恐々こわごわと目を上げる。

「――罠、だったの?」


 ああ、と答えて身体を起こす。

 イリカの肩を支えて上体を起こさせた。


 注意深く鹿に近寄る。

 倒れている鹿を改めた。


 まだ一尺弱ほどしか伸びていない袋角に、根曲竹ねまがりたけの細い枝が巻き付いている。

 角の根元に結び目があるのが目に入った。

 鹿の足元に目をやる。


 右の後ろ足の腱が切ってあり、そこから流れ出た血が固まっていた。

 デンババの眉が険しくなった。


 イリカが恐る恐る近寄ってのぞき込む。

 碧い目が見開かれた。


「まさか――この鹿も? 罠のうちなの?」

「そうだ。敵はとんでもない奴だ。――俺たちがそろそろ腹を減らすことも読んでいて、安易に飛びつくように仕向けたんだ。恐ろしい相手だな」


 淡々と言う。

 イリカの手が口を覆った。


 カンガとエマリヤも近寄ってきた。

「肉にも細工がしてあるのかな」

 カンガが鹿の首を持ち上げてしげしげと見つめた。

「鹿は間違いなく生きていたからおそらくそれはない、と思う。生身に毒は仕込めないだろうからな」


 でもさ、とエマリヤが木に突き立った杭を見ながら怪訝そうな顔をした。

「なんだか、やけに分が悪いような気がするわ。――こんなに大掛かりな罠を仕掛けておいて、この杭じゃ一人しか傷つけられないわよね」

「うーん、一人でも殺せればよかったのかな」

 カンガがぼそりと言う。


 デンババはしばらく考えている風だった。


 イリカが山刀マキリを取り出して、動かなくなった鹿の首を横に切り裂いた。

「いずれにしてもせっかく手に入った食料だわ。ここでは解体できないけど、どこか場所がないかしらね。できれば火を通したいわ」

 血のりを毛皮で拭いながら言った。


 カンガが立ち上がって川上の方を見遣る。


「あそこに小屋があるな」

 指をさす。

 デンババも立ち上がって彼方を見た。


 川寄りの低地に小屋らしい影が見える。周囲には人家らしいものはない。

 小屋の周囲には高い樹木がなく、そこだけがやけに目立っている。


「なんであんな所に小屋があるんだ」

 イリカが立ち上がる。

「猟をするために山に入った人が地吹雪を避けるための小屋かもしれないわね。ここでの冬の猟は厳しいから」



 カンガが鹿を背負って四人は彼方に見えている小屋に向かった。


 外から見る小屋は四畳半ほどの広さに見えた。

 屋根も壁も黄色く枯れた笹で厚く葺いてあり、窓はない。

 周囲は低い雑草が生い茂っているだけで、高い樹木のある場所を避けて建ててあるようだった。


 デンババが小屋の周りを回って慎重に地面を改めた。


 とりあえず周囲に何かが仕掛けられている様子はない、と見た。


 蔀戸しとみどをめくって中をうかがう。

 暗い。窓がないせいだ。

 草で葺かれた壁の隙間から漏れる外の光だけしかない。


 デンババが下を向く。

 踏んだ感触から、床が土のままであることがわかる。


「何もないのね。住むためじゃないみたいだから無理はないのかしら」

 イリカが続き、後の二人も中に入った。

「待ってて、今灯りを――」


 どこかでぷつッ、と音がした。


 四人の上に何かがばさっと覆いかぶさった。


「きゃあっ!」

 エマリヤが声を上げる。


「痛ッ! 何これ!?」

 イリカの声がするが、暗くてわからない。

 デンババが覆いかぶさったものを払いのけようとするが、棘のようなものが服や肌に食い込んで身動きが取れない。

 無理やり取ろうとすると棘だけが残って肌をちくちくと刺し、神経を乱される。


 暗闇の中で棘に刺される感触は、一瞬デンババに奴隷船の中を思い出させた。

 かすかに苦い唾がこみ上げる。


「いててて! くそう、なんだこれ!」

 カンガが叫ぶ。

「――網だ、やられた」


 五寸ほどの目の粗い網だった。

 天井に仕掛けてあったのだ。


「痛い痛い! 引っ張らないで!」

 エマリヤが悲鳴を上げる。


 網の目には棘の生えた蔓草が巻き付けられており、それが髪に絡まり、肌や服に刺さるのだ。

 外そうとしてもがけばもがく程、網は体に絡まっていくのだった。


 デンババがはっと壁の方を見る。


 壁の向こう側でぱちぱちと何かがぜる音がする。

 隙間から赤い火が覗いているのが見えた。


「しまった。――はめられた」

「火をつけたのね! まさか、最初からそのつもりで――」


 イリカが左右を見回す。

 炎の灯りで少しづつ目が慣れてきていた。


 そうだ、とデンババが吐き捨てた。

「鹿はおとりだ。敵は最初からここで俺たち全員を始末する気だったんだ。前の奴らの失敗を見ているからこんな手を使ったのか」

「なんて奴なの!」


 たちまち室内に煙がたちこめる。

 エマリヤがごほごほと咳き込んだ。


「ちくしょう! なんとかならねえかこれ!」

 カンガがもがいているが、網は絡まる一方だ。

「落ち着け! イリカ! 刀で網を切るんだ!」

  

 イリカが髪に絡まった網を外そうともがきながら、はっと顔を上げる。


 腰から山刀を抜こうとして、ふと、手を止めた。

 デンババの顔を見る。


 口元がふっと緩んだ。


「――初めて名前で呼んでくれたわね」


「呑気な事言ってる場合か」

 デンババの表情は動かない、が、ふと目を逸らした。


 腰から山刀マキリを引き抜いた。

 網の目にかけて切る。一本、また一本。


「切りにくい……。濡れてるわ、この網。水に濡らしてわざと切りづらくしてある。なんていやらしい奴なのかしら」

 イリカが顔をしかめる。煙が充満してきていた。

 デンババも咳き込んだ。

「まずい……。このままじゃ切り抜ける前に蒸し焼きだ」


「くそおッ! ――痛むけどしばらくみんな我慢しろッ!」

 カンガが吠えると、頭上の網をわし掴んで中腰になる。

 

 うおお! と叫んで力任せに網を左右に引っ張る。

 ぶつぶつぶつっ、と音を立てて網が千切れ、たちまち二つに裂けた。

 四人が網の中からまろび出る。

 まとわりつく網を払いのけてデンババが槍を、イリカが弓を拾う。


 煙の中をカンガが咳き込みながら入口に近づく。

「気をつけろ! 今度飛んでくるのは間違いなく毒矢だぞ」

「わかってる!」


 カンガは内側から蔀戸を外すと、盾のように前に構えて外に出た。


 たちまちさくっと蔀戸に矢が刺さる。


「真っすぐ俺の後ろに続け!」

 言われた通り、イリカ、エマリヤ、デンババの順でカンガの後ろへ続いた。


 外へ出る。

 すでに炎は小屋じゅうを包み込んでいた。曇り空にもうもうと煙が上がっている。


 イリカがカンガの陰からこわごわと顔を出す。

 舌を出して手の甲のあちこちについた引っ掻き傷をぺろりと舐めた。

「敵はどこかしら」


 デンババもイリカの上にそっと顔を出した。

「そんなに距離はないはずだが――」


 十間ほど離れた藪の中から矢が飛んできた。

 カンガが盾を素早く動かして防ぐ。


「あそこだ」

 言われたイリカが目を凝らす。

「姿が見えないわ」

「よく見ろ。身体に草を巻き付けて周囲に紛れているんだ。相当な手練(てだ)れだな」


 デンババが槍を構える。

「行くぞ。――来るか?」

 前を向いたまま言う。


 イリカがふっと微笑む。

「今度はここにいろ、とは言わないのね」

「別にいてもいいが」

「意地悪ね。行くわ」


「俺の後ろについて来い」



 体の前に槍を構え、姿勢を低くしたデンババが盾の陰から飛び出した。

 イリカが素早く後に続く。



 二人が稲妻のように走り出した。




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