第26話【二十六】アフリカ人、罠に会う
カンガが素早く岸辺に上がると、黄ばんだ越中を手早く腰に巻いた。
デンババが裸のまま槍を取る。
いつでも投擲できるように手を持ち替えていた。
石狩川の岸辺の緑濃い藪の中から、小さな人影が現れた。
藍色の細い模様の入ったたっぷりした服だ。
遠目には子供のように小さな老婆に見えた。
四人のいる方向へよたよたと歩いてくる。
両手をあらぬ方向にあちこちに振り回していた。
イリカが水から上がると濡れた肌の上にそのまま服を羽織る。
「アイヌの人みたいだわ。何か言ってる」
帯を巻きながら小走りに駆け出して人影に近寄って行った。
デンババとカンガの二人はまだ同じ姿勢のままだ。
川側から微かな風が吹いている。
デンババは鼻をひくつかせた。
カンガの顔を見る。小さく頷いた。
姿勢を変えないまま人影を見つめる。
イリカが老婆と思しい女性に近づく。
相手は大声でデンババにはよくわからない言葉でイリカに話しかけていた。
イリカが何度か頷く。
何か言って小さく頭を下げると、老婆のような女性は何度か振り向いてイリカに何か言いながら背を向けると再びもと来た道を戻り始めた。
イリカも戻ってきた。
顔を上流の方に向ける。
「アイヌのお婆さんみたいね。踏み分け道を避けて川上へ向かうのは危ないって言ってるの。」
デンババが少し間をおいてから「なぜだ」と言った。
「ここから少し先で、狩りに行った
デンババが少しカンガの方に目を向ける。
カンガが首を捻った。
ふむ、と呟いてデンババが少し考え込む。
「あり得ない話じゃないな」カンガが言う。
デンババが頷いた。
「敵は頭の回る奴だ。踏み分け道を逸れる事まで考えて罠を張っていたとしてもおかしくはない」
言ってから少し考え込んだ。
「道に戻った方がいいのかしら」
イリカがデンババの顔を見た。デンババはまだ何か考えている風だった。
ややあって「そうだな」と言うと、槍を置いて服を拾い上げた。
現在彼ら四人がいたのは知来乙の南、篠津村――現在の江別市北側から北へ二里半(約10キロ)ほどの位置であり、石狩川はここで大きく北側へ蛇行して篠津運河に接近する。
川から運河が分岐する付近はこの当時、低い樹木が群生する湿地帯であった。
そのため、踏み分け道はここで北へ方向を変え、現在の国道275号線と合流。以後北東方向へ向かう国道の位置に重なっていた。
このままの方向を石狩川に沿って進むと、札比内、晩生内を経て、およそ四里(約16キロ)で浦臼に抜けるのである。
浦臼に至れば、そこから滝川までは約三里半、おおむね一日の行程であった。
四人は再び踏み分け道を黙々と歩いていた。
左手になだらかな丘陵地帯が続いている。
背丈の倍ほどの低い樹木が生い茂って、時折視界を遮った。
そのような場所ではデンババは殊更に慎重に歩を進め、少しでも罠の気配を見逃すまいと神経を尖らせていた。
時刻は午後。
デンババがふと空へ顔を向ける。
東から流れてくる黒く重そうな雲が、ゆっくりと空を覆い始めていた。
「雨になりそうね」
後ろに続いていたイリカも空を見た。
ああ、とデンババが答えた。
「雨になると罠は見えにくくなる。降る前に抜けるか、雨をしのげる場所を探すか。どちらかだな」
視界が開けるとイリカがデンババの横に並んだ。
「
ねえ、と後ろに続いていたエマリヤが声をかける。
「みんなお腹、すかないの? 私はすいたわ」
デンババとイリカが後ろを振り返る。
「そうか、まともなもん食ってないしな」
後ろのカンガが同意した。
無理はないか、とデンババも思った。
原野で幾日も獲物を追い続けてきた自分とカンガは飢えには慣れている。
だが、彼女たちはそうはいかない。
この二日、エマリヤが持ってきていた粉の練り物を乾かした携帯用の食料しか口にしていないのだった。
がさがさっ、と前方の藪の中で音がした。
驚いた山鳩が桂の木から二羽飛び立った。
デンババとイリカが反射的に姿勢を低くする。
カンガとエマリヤもすぐに屈みこんだ。
「――奴かしら」
聞こえるか聞こえないか程の声でイリカが囁く。
デンババが首を振った。
「敵ならそんなへまはしない。何かの獣だな」
素早く風を読む。
こちらは風下だ。匂いは読まれない。
再び音がした。
山側の藪の中で何かが動いている。
目を凝らした。
草色の藪の中に紛れた茶色の毛と白い斑点が見える。それほど大きな個体ではない。
「エゾシカだわ。まだ若い」
頭を藪の中に突き入れている。
身じろぎしているが逃げ出す様子はない。
「何か変ね。餌でも漁っているのかしら」
イリカが怪訝そうに身を乗り出す。
身体を振っているような音が再び聞こえた。
「あの鹿には角があるのか」
デンババが前を見据えたまま訊いた。
「雄ならあるわ。この時期はまだ短いはずだけど」
「たぶん、藪に角が絡まっている。仕留めるなら今だ」
デンババが槍を持ち替える。
この即席の槍では一投で
「わたしに任せて」
槍の先を見ていたデンババをイリカが手で制した。
見返す。
「これでも猟師の端くれよ」
イリカは肩から弓を外して籠から矢を取り出すと、獲物から目を外さずに弓につがえ、姿勢を低くしたまま慎重に近づいて行った。
デンババが後ろから続く。
エマリヤとカンガは屈んだまま動いていない。
二人が音を立てずに歩を進めていく。
十間(約18メートル)ほどまで近づいた。
鹿は頭を山側に向けている。
イリカがわずかに山側に回り込んだ。
矢をつがえ、弦を引き絞る。
放った。
真っすぐに飛んだ矢が左前脚の付け根、肩口あたりに突き立った。
鹿の急所だ。
鹿はかすかに声を上げた。
後ろ足を蹴立てて二三度跳ねまわったが、首が動かないので逃げる事ができず、その後、藪の中に横倒しになった。
「やったわ!」
小躍りしたイリカが駆け寄る。
何か変だ。
一瞬、疑念がデンババの頭をよぎる。
「動くな!」
デンババが叫ぶと同時に弾かれたように飛び上がり、イリカの上に躍りかかった。
「きゃっ!」
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