第25話【二十五】アフリカ人、少女と水浴する
デンババが慎重に水面をのぞき込んだ。
悠然と泳ぐ一尺ほどの魚影が二つ三つ見える。毒はないようだ。
槍をそっと水に差し込む。
逆茂木のように沈められた罠がある可能性もあるからだ。
デンババが掌にすくって口に含む。
特別な匂いや味の異変はない。
しばらく沼の周囲を歩いて状況を確かめていたが、やがてカンガの方を向いて小さく頷いた。
「問題はないようだ」
カンガの顔を見たエマリヤが小川の水をすくって口をつけた。
ちろっと目を上に向けて味わってから、カンガの方を向いて笑った。
「おいしい!」
後の三人も最初は恐る恐るだったが、次々と水を口に含んだ。
次いでイリカとエマリヤが各々の水筒を水に沈め、予備の飲料水を確保した。
「ああ、生き返るわ」
白い手で口を拭ってイリカが笑う。
きらきらした笑顔。
そのまぶしさにデンババもふと笑みを返した。
イリカが少し驚いた顔になる。
「デンババ、笑えるのね」
言われたデンババは少しだけ困ったような顔になった。
イリカがくすくすと笑う。
エマリヤが沼の透明な水をすくって顔を洗った。
襟元を摘まんで鼻先に持っていく。
「やっぱり少し匂うわね。――浴びちゃおっか」
「そうね。久しぶりだものね」
イリカと二人で立ち上がると、皮で編まれた靴を脱ぎ、細い帯をほどくと藍色のアイヌ模様の入った白い服を何のためらいもなくぱっと脱いだ。
下には何も着けていない。
一糸纏わぬ裸になった。
まばゆく美しい白い肌が露わになる。
肩にかかる髪と、胸の白い二つのふくらみが日差しを浴びて白光を放った。
デンババとカンガの目が少しだけ大きくなった。
もとより裸身に抵抗のある二人ではなかったが、白人女性の裸体を見るのは初めてだったからだ。
胸元を手で押さえて、裸になった二人の少女が恐る恐る水に身体を浸していく。
「冷たあい!」
「でも気持ちいい!」
胸元まで水に浸かったまま、腕や足を手で擦っていく。
デンババとカンガは水辺に腰を下ろしてそんな二人を茫洋と見つめていた。
水の中で髪を洗い、青い空に顔を向けてさっと銀色の髪を振る。
水しぶきが宙にきれいな放物線を描いた。
そのままぱしゃりと水の中に仰向けになる。
二つの白いふくらみが水面に覗いていた。
ややあって、イリカが胸元を押さえたまま、岸辺にぼんやりと座っていた二人に顔を向けた。
「あなたたちも入らない? 気持ちいいわよ」
デンババとカンガは顔を見合わせた。
カンガの顔が無言で「どうする?」と訊く。
デンババは少しの間首を捻っていたが、まあいいか、と頷いた。
立ち上がってわずかに周囲を見渡す。
人の気配はない。
藍色の帯を解き、色褪せた若葉色の水夫服を脱ぎ捨てる。
腰の越中の紐がほどけて草の上に落ちた。
漆黒の肌をした引き締まった筋肉を持つ二つの身体がそこに現れた。
少女二人の顔が感心するようにその上半身を見つめていた。
四つの目が徐々に下に降りていき、下半身にたどり着く。
二人の顔が、ぼん、と音を立てるように赤くなった。
イリカが赤い顔のまま、さりげなく二人に背を向ける。エマリヤもあさっての方に顔を向けた。
なんとなく肩が緊張している。
デンババたちは周囲に目を遣りながら、ざぶざぶと沼に入って行った。
イリカたちとは少し離れた位置に身体を沈める。
手で腕を擦る。
肌を刺す冷たさがむしろ心地よい。
カンガがバシャバシャと顔を洗った。
「あ、あのさ」
ん、とデンババが顔をイリカに向ける。
そっぽを向いた顔が真っ赤になっていたが、デンババが気に掛ける様子はない。
「傍で寝ていて気が付いたんだけど、デンババたちって、匂い、しないんだね」
デンババが持ち上げた自分の腕を見る。
黒い肌の上を陽光を受けて光る水滴が滑って落ちた。
「そうなのか。自分ではわからないな。白人たちは俺たちの事を臭いから寄るなとけなしたものだが。――たぶん、乾いているからじゃないかな」
イリカの澄んだ碧い瞳がデンババの顔の方を向く。
「乾いて、いるの?」
ああ、とデンババはよそを向いたまま答える。
「俺たちのいた国は、暑い。ただ、暑いんだ。人も、獣も、草も、みんな乾いていた。乾いた砂には匂いはないだろう。それと同じだ」
何の抑揚もなく言った。
「体が乾いているからかな、心も乾いているんだ。草も生えちゃいない」
表情は動かない。
イリカがかすかに振り向いた。
「そんな事――ないわ。何度も助けてくれたじゃない。心が乾いている人が、そんな事しないと思うわ」
ふとデンババの動きが止まった。
表情が凍る。
そう。
なぜ助けたのだろう。
二度とも、咄嗟に身体が反応していたのだ。
自分が逃げるのではなく、イリカを守っていた。
なぜだろう。
いつも自分の事だけで精一杯だったはずだ。
原野で生きていくこと。
それしかできない。それ以外にすることなどない、はずだった。
少なくとも、以前の自分はそうだった。
『俺たちは仲間だ。そう頑なに黙っているなよ』
船で押し黙っている二人に、最初にそう声をかけたのは、船長の崎山市内だった。
仲間。
言葉だけは理解していたが、実感の伴わない言葉だった。
背後の白い顔にふと目を向ける。
透き通るような白い肌。
碧い瞳はデンババの目を真っすぐに見つめていた。
頬が赤らんでいる。
――俺たちは、仲間、なんだろうか。
何かが違うような気もする。
それが何なのか、デンババにはわからなかった。
イリカが水中からふと手を出して、白い指先でデンババの背中に触れた。
最初はためらうように。
それからはっきりと。
黒い肌の背中に、白い指先から水滴がしたたり落ちる。
「デンババが乾いているのなら、あたしが水になればいいのよ。デンババの水に」
素直なその言葉は、デンババの心に真っ直ぐに届いた。
だが、デンババにその意味はわからない。
無言で碧い瞳を見つめた。
水のように透きとおった瞳。
薄桃色の唇が微かに震えていた。
陽光を跳ね返すその輝くような白い肌を、冷えた水に紅く染まった唇を、デンババは眩しいと思った。
白人にそんなことを感じたのは初めてだ。
二人が見つめあう。
イリカがためらうように顔を近づける。
東から微かな風が吹いてくる。
――人の匂い。
デンババとカンガがほぼ同時に水しぶきを蹴立てて立ち上がった。
「どうしたの?」
カンガが石狩川の方に目を向ける。
「誰かいる」
イリカとエマリヤも片膝立ちになって川の方を見据えたが何も見えない。
「――敵?」
四人が身構えた。
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