第18話【十八】アフリカ人、少女たちと語る(後編)
「誰かが俺たちを牢から出したことは、明日の朝には知られるだろう。当然、どこへ行ったか探す。――ここにいることはわからないだろうか」
カンガが言うと、イリカが首を振った。
「おそらく、わかるでしょうね」
「なぜ、そう思う」
「あなたたちを牢から出す、なんてことをしそうなのが、あたしたちぐらいしかいないから」
デンババがわずかに口を曲げた。
「そんなに特別な目で見ているわけじゃない、と言っていたようだったが」
「村の人はね。別に仲間はずれにされているわけじゃないわ。――あたしたちの方が勝手に村に馴染んでいないだけ」
イリカが自嘲するように微笑んだ。
「だからこの家だけ、村から離れて建っているのか。――なぜ馴染もうとしない」
デンババが訊くと、ふっと遠くを見る目になった。
「父がいた頃からそうなの。父は、自分がロシア人であることに誇りを持っていたわ。大きな都にあるという、見たこともない宮殿の話なんかをよくしてくれた」
「アイヌが嫌いだったのか」
首を振る。
「嫌いではなかったと思うわ。基本的にみんないい人だしね。多分だけど、この土地に同化することで、自分がロシアを捨ててしまうような気がしたんじゃないかと思う。
――あなたたちはどう? この国にいて、そんなことを感じることはないの?」
覗き込むようにデンババの顔を見た。
デンババの顔が塑像のように固まった。
「誇り、か。そんな事、考えたこともなかったな」
カンガがぼそりと言った。
「俺たちも、あんたの父さんと同じように、この国に来たくて来たわけじゃない。アフリカで捕まって、オランダ人に売り飛ばされたんだ。オランダ人にこの国に連れてこられ、彼らと話をした殿様が俺たちを引き取った」
「捕まって? 売られた――の? 何もしていないのに?」
イリカの大きな目が見開かれた。片手が口を押える。
そうだ、とデンババが頷く。
「肌の色が黒い、というそれだけで、俺たちの扱いは家畜よりも下だった。別の国に運ばれる途中も、着いてからも、黒人は使い捨ての道具のように扱われた。逆らえば、虫のように殺された。そこには、誇りどころか、人としての最低限の生き方すら許されない、泥沼のような生活があるだけだった」
「ひどい目にあったのね」エマリヤが瞳を潤ませた。
カンガが首を振った。
「俺たちは恵まれている方さ。ここでこうして生きていられるんだからな。船の中で糞にまみれて死んで、海に放り込まれて魚の餌になった大勢の奴らに比べればね」
イリカの目が下を向いた。
「知らなかったわ、――ごめんなさい。辛い事を思い出させちゃったわね」
デンババが首を振る。
「別に気にはしない。俺たちは、まだ生きているからな。――大事なことはそれだけだ。アフリカにいようがオランダにいようが変わらない」
言葉を切る。
その目には、なんの感情もない。
感傷も、悲哀も、苦悩もそこにはないのだった。
「俺たちの国は暑い。ただ立っているだけで、人が死ぬ。水を汲み、獲物を狩る。毎日は、ひたすら生きていくことしか考えられない。今日、生きているか、死んでしまうか、俺たちの日々にはそれしかなかった。今までも、多分、これからも」
「生きていること、が誇りなのね」
イリカが言った。なんとなく悲しげな声に聞こえた。
「俺たちは、アフリカ人。マヒ族の狩人だ。どこにいても、この黒い肌から逃れることはできない。そこに誇りがあるのかどうか、俺にはわからない。俺はいつだって俺以上にも俺以下にもなれなかった。俺が決められるわけじゃないからな」
「でも、それは――悲しいわ」
イリカが目線をふと下へ向けた。
「アイヌの暮らしもそれなりに厳しいものよ。あなたたちは今の季節、もうじき初夏になる時期にいるからわからないと思うけど、冬には雪が積もって動けなくなるの。埋もれるぐらいの雪が降って、それが凍るのよ。長い長い冬。みんなひと部屋の中で火を囲んで寝るの。そうでないと、凍え死んでしまうから。みんなで寄り添って生きていくのよ。そうしなければここでは生きていけないからなの」
言葉を切った。
「寄り添う事ができる人がいないのは、つらいことだわ。ここのように寒い場所ではね。デンババは暑い国から来た。けれど、心はこの国の冬のように寒いのね」
目が潤んでいた。
なぜ、彼女がそんな目をするのか、デンババにはわからなかった。
デンババにとっては、特に気にするまでもない当たり前の事であったが、何が彼女の心に触れたのか、デンババには見当もつかなかった。
「デンババ、人を好きになったことは――ないの?」
潤んだ瞳がデンババの目を真っすぐに見据えた。
好き。
あれは――そうなのか?
一人の少女の顔が浮かぶ。
ユルイ。
遥かな彼方に置いてきた記憶。
地平の向こう側よりも、遥かに遠くなってしまったような気がした。
「あった――かもしれないが、よくわからない。――なぜ、そんな事を訊く」
イリカがついと横を向いた。
目元を指で擦る。
「別に。――なんとなく、気になっただけよ」
「不思議な姉妹なんだな、あんたたち」
二人のやり取りを黙って見ていたカンガが口を開いた。
「俺たちを見た連中は、普通みんな顔をしかめるんだ。『黒い』ということは、そういう事なんだ、と俺はずっと思っていたんだがね。あんたたちは、俺たちが怖くないのか?」
エマリヤの方を見る。
少女がにっこりと微笑んで首を振った。
「最初は少しびっくりはしたけど、怖いとは思わないわ。これでも私たち、人を見る目はあるのよ」
小首を傾げてうそぶいて見せた。
「話してみて、それが正しいと思ったわ。あなたたちが自分たちをどう見ているかはわからない。けど、デンババもカンガもいい人だと思うわ」
デンババは無表情のまま、エマリヤの顔をじっと見ていた。
いい人、とは何だろう。
かつてそんな事を言われたことはなかった。
胸の奥からわずかに、何かが突き上げてくるような感覚。
この感情はなんなのだろう。
デンババはかつて感じたことのない自身の感覚に、少し戸惑っていた。
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