第17話【十七】アフリカ人、少女たちと語る(前編)


「どうぞ。――食べてみて」


 ぱちぱちと音を立てる囲炉裏の火をぼんやり見つめていたデンババの首が起きた。

 エマリヤから湯気の立つ古びた木の椀を受け取って、デンババは鼻を近づける。

 魚の匂いとかすかに磯の香りがする。


魚汁チェプオハウよ。身体が温まるわ」

 一口、汁を口に含んだ。薄い塩味と旨味がじわりと口一杯に広がった。

 ここ数日、牢に投げ入れられる粉っぽい練り物と水しか口にしていなかったことを思い出した。


 もっとも、アフリカでの生活を思いだせば、それですらも上等なご馳走であったとも言えた。

 一滴の雨すら降らない乾季には、樹木を削ってその樹液で喉を潤し、飢えれば地を這う虫ですら食べていたからだ。


 うまい、と素直に口にした。

 イリカがにこりと微笑んだ。


 カンガも指先で椀の中の具をつまんでしげしげと眺めると、口の中に入れた。

「ん! これ、うまい。魚かな?」

カムイチェプよ。――あれ」と言って、天井を指さした。


 炉端に座ったまま二人が上を見上げる。

 縄でくくられたたくさんの鮭が斜めの天井からすだれのようにいくつも下がっていた。


「ああして干しておいて囲炉裏の煙でいぶすの。長い冬の間の食料になるのよ」


 デンババはしばらく上を見た後、イリカに視線を戻した。

「ここには二人で住んでいるのか」

 イリカが頷く。

「父も母も亡くなっちゃったからね。あたしが主に狩りとかして、妹が家事とか草採りとかしてるの」

「お父さんは何をしていた人だったんだ」


 ちらっとあさっての方を向いた。

「ロシアで漁師だったって聞いた。海で嵐に逢って漂流して、石狩川に流れついたの」



 北の海は荒い。


 次郎左の例だけではない。荒天に巻き込まれた挙句蝦夷地に漂着するのは本州の人間に限った話ではなかった。

 樺太、ロシア、中国など、大陸から出港して漂着した場合も事例としてはあったものと考えられる。

 遺された快風丸の記録によれば、石狩川流域に居住する者の中だけで、外部からの漂着者は十人を超えていたという。



「母は和人の子なの。だからあたしたちも内地の言葉を話せるのよ」

 イリカが胸に手を当てる。


「俺たちと同じ異人、か」

 デンババは草で分厚く葺かれた壁に目をやった。


「そう。――だから、あなたたちを助けたくなったの」

 イリカの目を見た。

 きらきらとあおく光っている。


 少し眩しさを感じた。


 控えめではあるが、隠される事なく表に出された好奇心、というものを今までにデンババは受け取ったことがなかった。

 敵意や蔑視、嫌悪などの感情なら数限りなく浴びてきたので、自然と敏感になる。


 だが、それらとは真逆の感情を理解するのには、多少の時間が必要だった。


「異人だからといって邪険にされている、という感じではないようだがね」

 カンガが椀から口を離して言った。


「アイヌは外からやって来るものに対していたずらに敵意を向けることはしないの」

 エマリヤが囲炉裏にかかった鍋の蓋を取りながら言った。

「外から来るものは人でも獣でも、カムイアイヌに遣わしたもの、と考えるのね。浜辺にクジラが打ち上げられたりすると、踊り回ってカムイに感謝したりするのよ」

 へえ、とカンガが感心する。


「だから俺たちを見ても驚いた様子ではなかったのか」

 イリカが頷く。

「さすがに黒人を見たのは初めてだと思うけど、あなたたちが捕まったのは黒人だからじゃないわ。あくまでも熊を殺した疑いがある、と思われたからよ。――もっとも、あたしたちはそうは思っていないけどね」

「でなければ、危ない橋を渡って助けたりはしないだろうからな。しかし、なぜそう思う?」


 エマリヤがくすりと笑った。

「理由がないわ。そりゃあ理不尽なことをする和人だって中にはいるでしょうけど、それにしたって、夜いったん船に戻っているのに、わざわざやって来てなんの関わりもない熊を殺してまた帰る、なんておかしなことをする人はいないわ」


 まあ、そうだな、と言ってデンババは顎に手を当てた。

 頭の良い娘だな、と思った。


「すると誰が、何のためにやったか、が気になるところだな」

 そこよね、とエマリヤが言う。

「基本的にコタンの人がやったとは思えないわ。神送りイオマンテができなくなることぐらい、子供でも知っているから」


 カンガが頷く。

「みんな言っていたな。『イオマンテ』というのは何なんだ」

「『神送り』のお祭りのことよ。母熊から離した子熊を育てて、お祭りの最後に殺して神様に捧げるの。山から来た神様を神様の国に返すのね。お祭りをすることで今年一年の収穫に感謝して、来年の収穫をお願いするのよ。アイヌにとっては大事な儀式だわ」


「やはり神への捧げものだったか。それじゃあ、殺されたら怒るはずだな……。黒人がやったのを見た人がいる、と誰かが言っていたようだったが」

 そいつよ、と言ってエマリヤが指を一本立てた。


「『黒人がやったのを見た』と言った奴。――そいつが下手人だわ」

 なるほど、と言ってデンババの目が横を向く。

「しかし――理由がわからないな。俺たちをハメて何か得をする奴なんかいるんだろうか」


「あなたたち、じゃなくて、水戸の人、を罠にかけたんじゃないかしら」

 エマリヤの目が光ったように見えた。

「あたしたちは、あなたたちがなんのために石狩に来たのかは知らないわ。だけど『そいつ』はたぶん知っている。水戸の人たちとアイヌとの話がうまくいったら『そいつ』が損をする、としたら――どうかしら」


「ハメるのは水戸の者であれば誰でもよかった、という事か」

「たぶんそうよ。あなたたちは目立つからハメやすかったんだと思うわ」


 むう、と唸ってデンババは黙った。

 内心、エマリヤの頭の回転の早さに舌を巻いていた。


 エマリヤはまだ何かを考えている風だった。




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