第11話【十一】アフリカ人、水戸から船に乗る(前編)
助三郎が失礼いたします、と言って障子を開けた部屋の中にはすでに格之進が座っていた。
「格さん来てたのか」
「俺も今しがたさ」
格之進は浅黄色の着物の肩をちょっとすくめて見せた。
二人が部屋の主の方を見る。
光圀は座卓に広げた書状に目を落としたまま動かない。
やがて小さく肩が震え出したかと思うと、くっくっく、と笑いだした。
二人がちらと顔を見合わせる。光圀はまだにやつきながらちょっと右手を上げた。
「すまんすまん……。ちと面白い展開になってきたのでな」
「書状はまた例の――松前矩広公ですか」
助三郎が訊く。光圀は頷いて口元を緩めたまま二人に向き直った。
「うむ。――この春以降、志摩守と儂がやり取りしておったのは知っておろう」
「快風丸の件ですな?」
格之進が少し身を乗り出した。
季節はすでに秋である。
快風丸はすでに二度目の航海を終え、那珂湊に帰港していた。
「そうじゃ。そして今日お主たちを呼んだのもこれに関わりがある。主だった者にはもう話してあるが、――来年、三度目の蝦夷地探索を行う」
二人が思わず顔を見合わせた。
快風丸による蝦夷地探索は、松前藩に進路を阻まれたせいもあったが今回も前回以上の目立った収穫はなく、直接の航海費用のみならず維持費に結構な予算が必要となることから、閣僚の一部からはひそかに不要論も出始めている、と助三郎は聞いていた。
「何か……勝算がおありなのですな?」
格之進が訊く。内外の動静を把握もせずに暴論をぶち上げるような浅はかな光圀でないことは二人とも承知の上だった。
光圀が小さく頷いて書状を畳みだす。
「志摩守があまりにも石狩行きを渋りおるので理由を質したのじゃ。脅し半分だったがな。返事は遅かったが、要するに石狩のアイヌとの交易交渉が難航している、ということを白状しおった」
「――という事は」
「ただでさえ揉めているところに外部の人間を入れて話が混乱したのではかなわん、という事のようじゃな」
光圀が少し息をついた。
「石狩アイヌの大将は
二人が頷く。
「このハウカセという男、
なるほど、と言って助三郎が顎に手をやった。
「しかし松前藩としては手をこまねいて放置しておくわけにもいかない、という弱みでもありますな」
そこじゃ、と光圀が指を立てた。
「で、儂が志摩守に持ち掛けたのじゃ。
むう、と格之進が眉を寄せた。
「それは妙案、と言いたいところですが……ちと分が悪いような気もいたしますな。
光圀がふふっと
「信正にはもう話は通しておるよ。抜かりはない」
助三郎も口を曲げた。
「――何か交換条件を出した、と読みましたが?」
名うての狸で知られる光圀公が不利な条件で田舎大名の使い走りをやるはずはない、と踏んだのだった。
光圀が手に持った書状をひらひらと揺らした。
「図星じゃ。――志摩守から返事が来た。ハウカセを交渉の座に着かせてくれたら、『秘史蝦夷往来』を儂に渡す、とな」
え、と格之進が息を飲んだ。
「以前言っておられた例の秘本ですか? やはり松前藩にあったのですか」
そのようじゃな、と光圀が頷く。助三郎は浮かない顔だ。
「その本、そんなに重要なものなのか」
格之進に訊く。光圀がはっはっは、と笑った。
「格さんには前に話したからの。室町の前期に慈雲という僧が
「どんな内容の本なのですか」
格之進が腕を組んだ。
「なんでも、日本人の発祥に関する記述がある、という話でしたが……」
光圀が頷く。
「儂も噂でしか聞いたことはないが、なんでも古代、卑弥呼の世のはるか以前、北の大陸から樺太を通って蝦夷地へたどり着いた人間たちが海峡を渡り日本人の祖先となった、という説があるのじゃが」
ちょっと言葉を切った。二人が身を乗り出す。
「――その具体的な証拠についての記述がある、という話じゃ」
それは、と格之進が口を押さえた。
「ただ事ではありませんな……。『日本通史(後の『大日本史』)』編纂の根幹に関わる内容ではありませんか」
光圀の目が尖る。
「そういう事じゃ。信正がどうこうを言っている場合ではない。この本は何としても儂が押さえておかねばならん、それに――」
「それに?」
「――もう一つ、前から気になっていることの回答がそこにある、かもしれぬしな」
光圀が、ふと遠い眼をした。
「お気になっていること、とは何ですか」
格之進が言うと、光圀の目が戻った。
「――いや、今は特に言うほどのことではない。忘れなさい」
は、と頷く。
「とにかく、そういう事情じゃ」
助三郎が頷いた。
「なるほど。お話は分かりました。――して、我々は何をすればよろしいので?」
「出航までの具体的な段取りを儂に代わってやってもらいたい。船頭(船長)は今回、崎山
「市内……長崎で航海術を学んでいたと聞きましたが、もう戻っていましたか」
光圀が頷く。
「細かい手配は市内と打ち合わせてやってくれ。必要なものがあれば信正へ申し出よ。話は通してある。ハウカセへの書状は儂が出航までに用意しておく」
わかりました、と格之進が頭を下げる。
「しかし、そうなると市内はかなりの大役となりますな。船長としての仕事のみならず、交渉事までやらなければならないとなると――」
光圀が手を上げた。
「言い忘れた。市内には船長の仕事と地先との交易交渉に専念してもらう。ハウカセとの交渉は」
言葉を切った。二人を見据える。
「――
は? と二人の顔が固まった。
しばらく間があった。
格之進が怪訝そうな顔になる。
「伝旙と勘賀に、ですか? ――務まりますでしょうか、そんな大役」
「できるできぬは聞いておらん。――やって貰う。命にかえても、な」
光圀の目がすっと細まった。
そこにあったのは普段の人の良い親父の顔ではなかった。
時に二人がよく知る、冷徹にして非情なる策士、徳川光圀その人の顔であった。
ふたりははっ、と言って頭を下げるのみであった。
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