第9話【九】アフリカ人、水戸で暮らす(前編)
季節は夏に向かっていた。
水戸の夏は短いが、蒸し暑く曇りの日が多い。
海からも山からも約二里半(十キロ強)であり、両方から吹く風の影響を受けるせいもあるのだろう。
梅雨は明けたと思われたが、空は今日も薄曇りだ。
白い練塀の下に植え込まれた
どこからか、甘い香りが漂ってくる。
助三郎が目を上げると、年季の入った色をした建仁寺垣の向こう側から、
これか、と思って口元をほころばせた。
家中の者でも比較的家柄の古い者や、いろいろな事情で勤番が密になる者がこの区画に主に居住している。南方は後者であった。
簡素な造りの木戸は開いていた。
顔を覗かせ「御免」と声をかける。すぐにへい、と声が返って来て中庭の方から軽装の
「これはこれは佐々木様、わざわざのお越しで」快活に笑う。
「おう、久助、嘉門は?」
小者の久助が答える前に、開け放たれた障子の影から南方が出てきた。
「あ、佐々木様、ご苦労様です」
「どうだ? その後
光圀に「雇われた」形の二人の黒人には元来の名前からそれぞれ伝旙、
生垣で区切られた敷地の一画に建てられた長屋があり、二人でそこに住んでいるのだ。
細かい日常の世話は久助が行っていた。
南方は口を結んで、小さく首を振った。
「いやもう、彼らを見てると驚きの連続ですよ。――毎日退屈しませんね」
助三郎が首を捻る。
「よくわからんな……言葉の方はどうだ、少しは理解するようになったか」
いやいや、と南方はまた首を振った。
「少しは、なんてものじゃありません。もう日常の会話はほとんど不自由しません」
助三郎の目が少し大きくなった。
「もう? えらく早くないか?」
確かまだ半年も経ってないよな、と思った。
「どういう頭の構造をしてるんだかわかりませんが、言語に対して驚異的な記憶力を持っているんです。基本的に、一度聞いた単語は忘れません。まるで乾いた海綿が水を吸収するように言葉を覚えていくんです。――凄いですよ」
ほう、と助三郎が唸った。
「カピタンの話にあった『使える黒人』というのはそういう意味なのかな。どうやったらそんなことができるんだ」
よくわかりません、と南方は首を振ってから腕を組んだ。
「たぶん、ですが『音』で覚えてるような気がします。一度聞いた『音』を頭の中で無限に反芻してるんじゃないでしょうか。あくまで想像ですが」
ううむ、と助三郎も腕を組んだ。
「その代わり、と言ってはなんですが、読み書きの方はてんでダメですね」
南方は指先で自分の頭をこんこんと突いた。
「頭の中に『文字』という考え方そのものがないんです。これは大変です。ニワトリに空の飛び方を教えるようなもの、と言えばまあ近いかもしれません」
助三郎がわずかに明後日の方を向いた。
「ふむ、興味深いな。文字なしで、彼らは元の国でどうやって
「私もそれは気になったので訊いてみました。――『歌』と『踊り』で伝えていたんだそうです」
「歌? 和歌、とかそんなものか」
いえ、と南方が首を横に向ける。
「ちょっと聞かせてもらいましたが、何と言うか――お経のような、古い民謡のような……そんな感じの響きです」
文字を持たない古代人が歌を伝承に用いていたのは、歴史上さして珍しいことではない。
史上有名な口頭伝承としては紀元前八世紀の古代ギリシアの『イーリアス』や『オデュッセイア』、また古代インドの伝承歌『リグ・ヴェーダ』などがある。
これらは内容にもよるが、いずれも独特の韻律を持っており、その変化を記憶することによって、口頭伝達による齟齬を防いでいたものと思われる。
中世アフリカの原住民たちが同様の方法を用いていたとしても不思議ではないことであった。
「――で、今連中は何してる」
南方が庭の隅の方を向いた。
「家の前にいますよ。見に行きますか」
助三郎が庭の端から小屋の方を覗き見た。
伝旙は色の褪せた古い縁台に腰かけて長い木の棒を小刀で削っていた。
六尺以上あるだろうか。身長を越えるような長い棒の先端を尖らせるように無心に削っている。
端折った着物から覗く長い手足は黒光りしている。
相変わらず着物が似合わん連中だな、と助三郎は思った。
勘賀は地面に片膝を立て、丸太の上に立てた薪を鉈で割っていた。
「薪割り? 久助の仕事じゃないのか?」
二人に歩み寄りながらちらと南方の顔を見た。
「勘賀がやりたい、と言い出したんですよ。――仕事もしないでタダ飯にありつくわけにはいかない、みたいなことを言ってまして」
ふむ、と感心しながら、二人に向かってよう、と手を上げた。
気づいた二人が手を止め、ぺこりと頭を下げる。
日常的な仕草ももう会得しているのか。助三郎は少し感心した。伝旙の前で腰をかがめる。
「何を作っているんだ、伝旙」
「ヤリ」とぼそっと言った。
「槍?
冗談が通じるとは思っていなかったが訊いてみた。
「今、戦い、ない。ヤリ、ない。狩り、困る」
相変わらず石のように無表情のまま低い声で言った。分厚い唇だけが動く。以前江戸で見たからくり人形の口元を思い出した。
助三郎がほう、と息を吐いた。本当に言葉が通じるのか。
「狩り? 狩りに槍を使うのか」
狩猟と言えばこの時代の日本では通常は弓矢かワナ、もしくは鉄砲を使用する。
一説によれば、この当時所有されていた鉄砲の総数は武家よりも農家の方が多かったという。
主として農作物保護のための害獣駆除に用いられたとされるが、動物性蛋白質の供給源が希少であったこの時代、駆除した動物を遺棄していたとは考えにくく、多くは食用とされたものと考えるのが妥当であろうと思われる。
「伝旙、ヤリ使う、上手。狙ったケモノ、必ず仕留める。戦いになる、敵、ヤリ持った伝旙に勝てる者、いない」
勘賀がぼそっと言った。手元の薪からは目を逸らさない。
鉈を薪の中心に当てた。ふ、と持ち上げて薪と共に鉈が落ちる。かん、と澄んだ音を立てて薪が二つに断ち割られた。
薪割りの要領も会得しているようだった。
かく言う勘賀にも表情はない。その言い方には自慢も称賛も感じられない。
ただ、淡々と事実を述べている。それだけの印象を受けた。
いつかの渡世人を思い出した時のことが脳裏に浮かんだ。
地獄を歩いている者には、自慢も謙遜も無縁だ。それを語る相手などいはしない。
彼らにとって、いまそこにある事実以外のことに価値はないのだった。
生きているか、生きていることをやめているか。
そのいずれかしかない世界。
この二人はそういう世界を生きてきたのだ、と改めて助三郎は思った。
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