第8話【八】アフリカ人、水戸へ移る(後編)
まあまあ格さん押さえて押さえて、と言って助三郎が眉を下げて手を振った。
同心二人の前まで歩み寄って、腰を下ろす。肩に手を乗せた。
下から顔をねめあげる。
「まあお主たちの立場もわかる。――だがこちらにも事情があるわけだ。さて、長く控えているのも辛かろう。お主たち、ここらへんで
助三郎が懐から銀の粒を二つ取り出して、怪訝そうな顔をしている二人の手を取って各々に握らせた。
「厠へ行っていたお主たちは何も聞いていない。――そうだな?」
助三郎がにこやかに笑うと、ぽかんと口を開けた二人の同心が顔を見合わせた。かすかに頷き合う。
向き直ってへこへこと頷いた。
行け、と言って助三郎が手をひらひらと動かすと、二人がのろのろと立ち上がって部屋から出て行った。
(助さん、ちと甘すぎじゃないのか)
戻った助三郎の耳元で格之進が囁いた。助三郎はどこ吹く風だ。
(いいのさ。どうせあの二人、普段から『通常じゃない』取引を見ているはずだ。そのたびに長崎屋から鼻薬を嗅がされてるんだろう。こちらの弱みにしたくないから俺が掴ませただけで結果は変わらんよ)
ふむ、と格之進が口をへの字に曲げた。
とは言え、と助三郎は思った。
腹黒い源右衛門の前で人を金で買う、という場面を見せたのは少々まずい気もせんでもない。
尾鰭をつけた話をほいほい触れ回るようなことをする男ではなかろうが、何かの時の取引材料にされないとも限らない。
光圀公はぬかったとは思っておられないのだろうか。
「ではまあ、商談成立、というところでございますかな」
源右衛門が席を立って襟を直した。にんまりと笑みを浮かべている。
助三郎の眉が少し動いた。
「いやいや、なかなか有意義な旅じゃった。――カピタンもまた長い帰り道でございましょう。道中どうかお気をつけ下され」
光圀が立ち上がって手を差し出した。ヨングが両手でその手を握る。
『
一行は連れだってカピタンの部屋を後にした。
「額については例によって上屋敷の方へのお話でよろしゅうございますか」
幅の広い廊下を歩きながら源右衛門が振り向くと、結構じゃよ、と光圀が頷いた。
「儂のせいで荷捌きが滞るようなことがなければよいがの」
いやいや、と源右衛門が首を振る。
「カピタンの方の人手は店の者を出しますのでお気になさらず。
と言葉を切って、源右衛門は光圀の顔を意味ありげに見た。
「――あの『お買い上げのもの』、このまま『お持ち帰り』になったのでは道中人目を引きましょう。お任せいただければ特別に船便にて送り届けたいと思いますが、いかがいたしましょうか」
腹に一物ありそうな笑顔で腰をかがめている。
顔つきから察するに、この件では長崎屋にも相当な額の仲介手数料が入るものと見た。
でなければこんな申し出をするわけがない。
「人の売り買い」も多分初めてではあるまい、と踏んだ助三郎の口元がかすかに曲がった。
光圀があさっての方を向いて、はて、と言って立ち止まった。
「――儂は買い物をした覚えはないが?」
源右衛門の顔が、は? という形のまま固まった。
助三郎たち三人も思わず立ち止まる。
「え? では――あの黒人の方二人は……」
源右衛門が驚いた顔で光圀を見つめる。光圀が何食わぬ顔で見返した。
「おやおや、長崎屋源右衛門さんともあろうお方が人聞きの悪いことをおっしゃられては困りますな。――カピタンには、あの黒いお二方を『雇い入れたい』と申し上げたつもりだったのじゃが?
――儂はひと言も『金で買う』などとは言っておりませんぞ?」
あっ、と助三郎は息を飲んだ。
思わずヨングと光圀との会話を思い出す。
言っていない。光圀は言葉巧みに言質を取られることを避けていたのだ。
「え、でも、カピタンと金額のお話を――」
源右衛門が食い下がる。光圀がほっほっと笑った。
「また異なことをおっしゃる。――今の雇い主がカピタンですからの。その雇用人を引き抜くとあれば、雇う側には相応の金額をお支払いするのが筋というものではないですかな?」
しれっとした顔で言い放った。
要は現代で言うところの金銭トレードである。
光圀がそれを持ち掛け、ヨングがそれに応じた。ただそれだけの話である、と言っているのだった。
は、はあ、と言って源右衛門が呆気にとられたまま黙った。
早々お前ごときに弱みなぞ握らせはせぬ、と言外に釘を刺されたのである。
その程度の意を汲むことができないようでは大商人(おおあきんど)は務まらない。
光圀の狸っぷりに助三郎は内心舌を巻いた。
そうそう、と思い出したように光圀が指を立てた。
「――船便の件でしたな。それは実にありがたいお申し出じゃ。ぜひお願いしましょう。――嘉門」
「は! はい!」
光圀に突然呼ばれて南方が裏返った声を出した。
「言葉が通じぬでは道中長崎屋さんの店の方にご迷惑がかかりましょう。儂らは先に水戸へ戻るので、お主は残って通詞としてご同行させていただけ。くれぐれも粗相のないようにしかと頼みましたぞ」
光圀の目が少し尖る。南方がかしこまりました、と言って頭を下げた。
うわあ、と声を漏らしそうになって助三郎は思わず口元に手をやった。
一見すると、言葉では南方に対して注意を与えているように聞こえるのだが、その実は傍らにいる源右衛門に対して、見張りをつけておくから迂闊な扱いをしたら承知せぬぞ、とぶっとい釘を刺しているのだった。
源右衛門はこわばった愛想笑いを浮かべたまま黙っていた。
悪名高い長崎屋源右衛門も、これでは手も足も出せない。
光圀の方が一枚も二枚も
――どこまで狸なんだ、このお方は。
ほとほと感心した助三郎だった。
※
かくて、デンババとカンガの二人は水戸へ赴くこととなったのである。
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