第6話【六】アフリカ人、海を渡る(後編)
三時間ほど経って、嵐は通り過ぎた。
まだ空に黒い雲は残っていたが、海は嘘のように凪いでいた。
雲がうっすらと晴れかけたときにはすでに夕暮れが迫って来ていた。
雲ごしに、舳先の向こう側に傾いていく夕陽の赤い光が見えた。
――陽の沈む方角へ向かっているのか。
巻いたロープを肩に背負いながら、漠然とそう思った。
「ノロノロ動くんじゃねえ!」
金髪の男が薪でデンババの腰を打ち据えた。ぐ、と声を堪えた。男の方は見なかった。目を向ければまた打たれることはわかっていたからだ。
デンババの右後ろで一人の奴隷がよろめき、背負ったロープを取り落とした。
甲板に片膝をつく。脇腹を押さえて顔を歪めている。
「ぼやっとしてるんじゃねえ!」
男が尻を蹴った。奴隷は床に転がって仰向けになった。はっはっと息を乱している。
「動けこの野郎!」薪を振り上げた。
「ヤメロ」
デンババの口が開いた。
なにい、と言って男が振り向いた。デンババにふらりと近づく。
「貴様、黒豚の分際で俺様に指図しようって――」
薪をデンババの顎に当てようとした時に、ふと男の動きが止まった。
棒を手元に引いて、怪訝そうな顔になる。
「おめえ、今、なんつった?」
少し間があった。
「ヤメロ。ソイツ、カラダ、ヨクナイ」
デンババがはっきりと言った。金髪男の目が見開かれた。
「おめえ……俺たちの言葉が、わかるのか?」
デンババが頷いた。
金髪男が振り向いて、傍らにいた若い男の袖をつかんだ。
「おい、船長はどこだ」
「――聞いていただけで、覚えた、だと?」
黒い上着を着た、画体のいい赤毛の男が唸るように言った。
デンババが頷く。
「信じられんな・・・誰か教えた奴がいるんじゃねえのか?」口元を歪めて傍らの甲板長を見た。
それはねえすよ船長、と栗毛が口を挟んだ。
「ただでさえ手不足のこの船でそんなヒマな奴はいませんぜ。――それにアフリカでオランダ語の話せる人間なんて、現地の『会社』の中にだってほんの一握りしかいないんですぜ」
むう、と船長はしばらく黙って、甲板上から海の方を見遣った。
アフリカにおける現地人の捕縛は白人たちが直接行っていたわけではなかった。
大部分の奴隷収奪は金銭的な利益を目的としたアフリカ人たちが独自の集団を作って行っていたものである。
出資していたのは交易を行う西欧諸国である場合が多かったが、彼らが実際に現地で黒人を捕縛することはなく、現地人によって作られた「会社」から金銭によって買い取るという手段で入手していたのだった。
「お前も話せるのか」
船長はカンガの方を向いて言った。
甲板長がデンババに同じことのできる奴はいるか、と訊いたためデンババが連れてきたのだった。
「スコシ」とカンガが答えた。
船長は顎に手を当てて再び黙り込んだ。
鳥の音素を解析する聴力と意味を付与する分析力を自然に身に着けていた二人にとって、漏れ聞こえてくる人間同士の会話や行動から未知の言語の意味を推定することなど造作もないことであったのだ。
もちろん、西欧人から見て、それが極めて特殊な能力に見えることなど、彼らには関係のないことであった。
千二百万とも千五百万とも言われる奴隷交易の犠牲者の中には、このような特殊な能力や技能を持っていた人間たちが少なからず存在したであろうことは想像に難くない。
そうした人々が、西欧文明の発展の影で果たした役割はいかばかりであっただろうか。
それを語り継ぐ者は、歴史の中に只の一人として存在しないのだった。
「三番船倉が空いていたな」
ややあって、船長がぼそりと言った。
ええまあ、と甲板長が生返事をした。「大陸」からの荷物を積む、予備の倉庫だからだ。
「こいつらの部屋は今日からそこだ。――飯も下っ端どもと同じにしてやれ」
甲板長は眉根を寄せた。
「いいんですかい? もめ事になりませんかね」
船長がひらひらと手を振った。
「構わん。何か言われたら俺の指示だと言っとけ。――こいつらは『大陸』では降ろさん。国へ連れて行く。いいな」
え、と言って甲板長は複雑な顔になったまま固まった。だが船長の命令は絶対だ。
「
この時代における奴隷交易の形式は別名「三角貿易」と呼ばれるものである。
西欧を出港した船は南へ下ってアフリカで奴隷及び毛皮や角・牙などの収奪品を仕入れ、西に向かって南北アメリカ、いわゆる「新大陸」で奴隷を売却する。
奴隷たちはそこで卸売り業者の手に渡り、さらに競売にかけられた上で小売りされて個人の所有物とされ、鉱物の採掘やサトウキビのプランテーションなどでの作業などに従事させられた。
一方で船は新大陸において鉱物資源や農産物などを仕入れ、西欧に戻ってこれを販売した。
このように大西洋を舞台に三角形を描くところから、そう呼ばれたのである。
従って通常ルートの通りで行けば、デンババたちは新大陸で降ろされることになる。
だが、稀に例外があり、一部の奴隷が西欧に直接運ばれる場合があった。
売主が様々な事情で特に気に入った者、もしくは技術・才能・特技を有していると認められた者がそれにあたる。
言葉が通じたからと言って、船長は別に仏心を起こしたわけではない。
彼らにとって奴隷はあくまでも「商品」に過ぎない。付加価値があれば商品は高額で販売できる。
肉質の良い豚、乳のよく出る牛、力のある馬。いずれも高い収益が見込める商品となる。
高く売れるものを大事にしようとする考え方は、昔も今も変わりはしない。
あくまでも利益の増加を狙った考えに過ぎなかったのである。
※
かくて、デンババとカンガは新大陸で売買されることなく、西欧へと渡ったのであった。
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