第5話【五】アフリカ人、海を渡る(前編)


 海を覆う空一面に見渡す限りの黒雲が渦巻き、轟轟と風が鳴っている。

 空が、海が吠え狂っていた。

 どどおん、と大きな音を立てて船腹に打ち付ける大波が、縁から背丈を越えた高さで甲板に覆いかぶさってくる。


「うわあっ!」


 頭に布を巻いた男が叩きつけてくる波に突き飛ばされて甲板を転がった。船体が大きくかしぐ。

 反対側に飛ばされた男はへりに激突すると柵をくるりと超えて仰向けのまま荒れ狂う波間にあっという間に消えた。

「何かにつかまれ! 腰に綱を巻け! 飛ばされるぞ!」

 栗色の長い髪を逆巻かせた髭面の男がロープを引きながら怒鳴った。

「ダメだ甲板長! 手が足りなくて帆綱が巻けねえ!」

 大粒の雨に打ち据えられて顔をしかめながら、マストに登りかけた若い男が髭面に向かって叫ぶ。

「奴隷どもを引っ張り出して手伝わせろ!」

 髭面が怒鳴り返した。


 奴隷交易船「マリー・クリスティアーニ号」は嵐のただ中にいた。


 見張りが水平線に黒雲を認めたときは、こんなに早く天候が変化するとは思わなかった。

 普段なら帆を畳み、備えるだけの時間は充分にあったはずだったが、海の神は気まぐれだった。

 黒雲は考えられないような速度で船に迫ってくると同時にみるみるうちに巨大になり、瞬く間に空を覆いつくしたかと思ったら豪雨と強風、大時化が襲い掛かってきたのだった。


 奴隷たちが積まれた暗い船倉の中は阿鼻叫喚の地獄絵図になった。


 上下二段に組まれた木の棚の上に横たえられて隙間なく詰め込まれた黒人たちは、ばら積みの荷物と同じだった。

 船が傾けば傾いた方向に一斉に転がっていく。


「あぎゃあああああ!」

「おぐぇごぶおぶぇべ!」


 押しつぶされて血へどを吐く者、棚から落ちて頭蓋を割る者。悶絶する悲鳴が、骨を潰される苦痛の絶叫が暗い船倉に響き渡る。

 度重なる困難に精神に異常を来したのだろう、けけ、けっけっけ、という場違いな笑い声も聞こえる。


 デンババは棚のふちを掴んで、一方に落ちるのを懸命にこらえていた。

 天井に開いた隙間から雨のように絶え間なく波しぶきが降り注いでくる。

 船が揺れるたびに、ささくれ立った床板の棘がむき出しの黒い肌に食い込む。

 痛い。ひたすらに痛いが、その痛みのせいでかデンババは辛うじて正気を保っていた。

 潮と体臭、汚物と糞便の匂いが充満し、襲ってくる嘔吐感に眩暈を感じながら、デンババは歯を食いしばった。


 ――死んでたまるか。

 ――俺は、まだ生きている。


 その思いだけがデンババを突き動かしていた。


 捕らえられたその日から、村から港まで、炎天下の長い長い距離を何日も歩かされた。

 手足を鎖に繋がれ、情け容赦なく照り付ける日差しの下を、デンババたちは歩き続けた。

 どこからともなく連れてこられた人々の一団が次々と合流し、巨大な黒い流れとなった奴隷たちの群れは、永遠に続くかと思われる原野を、ただ歩かされ続けた。


 熱と渇きのために、一人、また一人と倒れていく。

 もちろん、倒れた者はそのままうち捨てられた。


 一行が離れると、その前から上空をゆっくりと旋回していた禿鷹の群れが次々と舞い降り、先程まで生きていた者に容赦なく群がり、がつがつと肉をついばんでたちまちのうちにボロ雑巾のようなむくろにしていった。


 ――俺はまだ、生きている。


 どこにいても同じだ。

 デンババは思った。あの時も。今も。


 アフリカの大地に生きていても気持ちはいつも変わりはしなかった。


 今日は生きていた。それだけだ。

 明日、生きているという保証はどこにもないのだ。


 いや、明日も生きてやる。生きてやるとも。


 ――そう、俺はまだ生きている。



「お前たち出ろ!」

 船倉に響く叫び声に我に返った。

 いつの間にか天井に開いた穴から男たちが入ってきて、繋がれたままの奴隷たちの手鎖を引っ張って次々と甲板に押し上げて行った。

「早くしろ!」

 男はのろのろと動く奴隷たちを後ろからどやしつけた。奴隷たちに言葉は通じなかったが、彼らは態度で理解した。

 どおん、と音がして船体が大きく揺れた。

 片側に一斉に倒れこむ奴隷たちの悲鳴が響く。

 支柱にしがみついた男はくそッ、と毒づくと一人の男の手鎖を引く。男の両腕が力なく持ち上がった。立ち上がる気配はない。

 けっ、と顔をしかめると、動かない男を足蹴にした。転がった男の顔がごん、と音を立ててデンババの横に落ちた。

 薄く開いた両目にはもう生気がなかった。恨めし気に開いた半開きの口元から、乾いた舌先が覗いていた。


 顔を上げた。

「おめえも来い!」

 デンババの鎖が引っ張られた。無理やり上体を持ち上げられる。萎えかけた足を懸命に動かして、揺れる棚の上から出口と見られる穴に這っていった。

 汚物を垂れ流しながら白目を剥いて息絶えている二つの黒い身体に手をかけて上体を支えながら体を起こす。

 甲板に顔を出す。

 どおっと波しぶきが顔に打ち付けられた。


 嵐。


 穴から必死に這い出る。

 横殴りの風雨と波しぶきがデンババの全身をたちまちびしょ濡れにした。

 全身の汚物を洗い流されるような感触に、デンババは一瞬だけ快感を覚えた。

 だが、裸の全身はすぐに冷えてくる。再び歯を食いしばって襲ってくる寒さに耐えた。


「グズグズするな! ロープを引け! ちッ、わからねえか黒豚どもめ! これをこうするんだ!」


 白人の若い男がロープを手に取って身振りで指示した。

 デンババと他の二人が腕ほども太さのあるロープを掴んだ。

 ぐっしょりと水を吸ったロープはとてつもなく重い。全体重をかけて引く。ずるずると重いロープが動き出した。

 大粒の雨が絶え間なく顔を打つ。手鎖が雨に打たれ、その重さが何倍にも感じられる。

 強風にロープが引っ張られる。デンババたちは思わずよろめいた。

 倒れるかと思ったその時、後ろからロープにぐん、と力が戻った。

 デンババが振り向く。

 ロープの端を握っていた男と目が合った。驚愕した顔になる。


 ――カンガ!


 カンガはデンババの顔をちらと見て、無言で頷いた。

 デンババは向き直って力いっぱいロープを引いた。

 今度こそ重いロープはぴんと張り詰めた。カンガの怪力あればこそなせる業だった。


 視界の端で白人の男が薪のような棒を振るっているのが見える。

 背中を打たれた奴隷の一人が、手鎖のままマストにかかった網を登っていく。

 半ばほどまで登りかけた時、大波が打ち付けた。船が揺らぐ。悲鳴が波音にかき消される。

 顔にかかった飛沫をよけ、目を戻した時、マストの上には誰もいなくなっていた。


 ほんのわずかの間、デンババは誰もいなくなったマストの上を見つめていた。

 

 

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