Gの悲劇
@Ak_MoriMori
Gの悲劇
彼女に笑われ・・・そして、嫌われるかもしれない。
そんな考えがふと頭の中をよぎり、オレは伝えるのを止めようとした。
しかし、『時すでに遅し』だった。
(ウフフ・・・わたしのかわいこちゃん。
あなたが止めようとするのはわかるけど、ムリ・・・この衝動は止められない。
わかる・・・でしょう?)
彼女は、オレにそう伝えながら、オレの頭を優しく撫で始めた・・・嫌々をする幼子をあやすかのような母性が、オレのことを優しく包み込む。
オレはその感覚に酔いしれながら、ホッとした・・・嫌われなくてよかったと。
彼女がこう伝えてくるのは、わかりきっていたことだった。
彼女に『移住の時』がやって来たのだ。
『移住の時』が来たものは、一人で新たなるコロニーを探し出さなければならない。そして、そのコロニーを発展させるため、この『楽園』に点在する各コロニーの同志たちに『招待』の感触を送り出し、呼び集めなければならない。
その衝動からは、誰も逃れることは出来ない・・・オレたちの本能なのだから。
なぜ、そんなことがわかるのかって?
オレも経験したからだ・・・『移住の時』を。
ただ・・・いや、あの時のことは思い出したくない。
だから、彼女を引き留めることが出来ないことはわかっていた。
それでも・・・引き留めてしまった。
なぜなら、彼女がこんなことを伝えてきたからだ。
(『光に満ち溢れた地』を越え、向こう側に行くつもりだ)と。
このコロニーの周辺に移住するのであれば、オレは彼女を引き留めることはなかっただろう。しかし、『光に満ち溢れた地』を越えた先となれば、話は別だ。
『光に満ち溢れた地』は、各『楽園』に存在する危険なところだ。
そこは、光、音、匂い・・・様々な感触が満ち溢れ、オレたちの感覚を麻痺させる。それだけならよいのだが、最悪なことにあの地には、オレたちに悪意を持つ巨大な感触が存在する。
その巨大な感触は、オレたちの姿を見つけるなり、オレたちの時間を止めようと牙をむいてくるのだ。
残念ながら、その感触に反撃する術は、オレたちにはない。
だが、幸いなことに、オレたちの逃げ足はすこぶる速く、仮に見つかったとしても逃げ切れる可能性はある。逃げきれなければ・・・オレたちの時間は止まる。
彼女は、そんな危険な地に足を踏み入れ、向こう側に行くと言う。
引き留めないわけにはいかなかった・・・たとえ、引き留められないことが分かっていたとしても。
(ついて行きたい・・・。)
そんな気持ちとは裏腹に、オレは彼女との別れを選択した・・・オレの過去の記憶が、彼女について行くことを許さなかったからだ。
別れることがつらかった・・・まさか、こんな気持ちになろうとは、まったく思いもよらなかった。
(ついて来て・・・わたしのかわいこちゃん。)
本当はそう伝えたいのを必死にこらえている彼女の感触が、ひしひしと伝わってくる。しかし、彼女は、オレに無理強いをすることはなかった・・・オレの過去を知っているからだ。
(どうしても・・・『光に満ち溢れた地』の向こう側じゃないとダメなのか?)
(うん、本能がそうしろって言ってる・・・これでもう・・・お別れ。
バイバイ・・・わたしのかわいこちゃん。)
それだけを伝えると、彼女はくるりと振り返り、旅立っていった。
彼女は、一度たりともこちらを振り返ることはなかった。
そんな彼女のうしろ姿を、オレは、ただただ見送ることしか出来なかった。
彼女の無事を祈りながら・・・。
彼女が旅立ってからというものの、オレは、初めて味わう感覚に苦しめられていた。胸が締めつけられるように苦しく、そして・・・何よりも寂しかった。
彼女の感触を味わいたかった・・・あの心安らぐ感触を味わいたかった。
だからだろうか、気がつけば、彼女と最後に別れた場所で、オレは彼女が残していった感触を必死に感じ取ろうとしていた。
こんなことは、オレが物心ついた時から一度たりともなかった。
オレたちは、決して共生しているわけではない。
ただ、寄り集まって、形だけのコロニーを作っているにすぎないのだ。
なぜ、そんな無意味なコロニーを作るのかって?
そんなこと・・・わかるはずがない・・・オレたちの本能なのだから。
オレたちは、共同生活など一切せず、各々が自分の力のみで生きていく。
実際、オレは、自分一人の力で生きてきた。
誰かに育ててもらったという記憶など微塵もない。
だから、こんな感覚・・・孤独などは、一切感じるはずがないのだ。
オレは、残された彼女の感触を必死に感じ取ろうとしたが、その努力が実ることはなかった。だから、オレは、自分の記憶の中に彼女を求めることにした・・・。
・・・・
オレはかつて、別の『楽園』に住んでいた。
あの『楽園』は素晴らしいところだったが、オレは、そこから去った。
なぜって?
あそこが、もう『楽園』ではなくなってしまったから・・・。
あの『楽園』が『楽園』でなくなってしまったのは、オレのせいかもしれない。
たまに、そんなことを考えることがある。
『移住の時』の最終段階だった・・・あれが起きたのは。
オレが『招待』の感触を送り出そうとした時、突然、どこからからともなく強烈な悪意が流れ込み、あたり一面を覆いつくした。
それと同時に、オレの体の芯が妙に冷たくなり、手足がしびれ、思うように動かなくなった。
悪意はオレの体内を浸食し、オレの時間を止めようとしていたが、幸いなことに、オレの時間は止まることはなかった。
やがて、体内から悪意が薄れていくとともに、オレの体は自由になった。
(今の悪意・・・身に覚えがある。)
今の強烈な悪意は、新しいコロニーを探す時に遭遇した出来事を思い出させた。
あの出来事が、たった今起きた出来事と深く結びついているような気がした。
オレは、新しいコロニーを探す時、彼女と同様に『光に満ち溢れた地』の向こう側に行こうとし、運悪く、悪意を持つ巨大な感触に遭遇してしまった。
オレは、必死に逃げ・・・そして、近くの物陰に身を潜めることに成功した。
(ここでじっとしていれば、やり過ごせるかもしれない・・・。)
そう思ったのも束の間、突然、突風が吹きつけてきた。
突風は、オレの体をひっくり返さんとばかりに強く強く、何度も何度も吹きつけてきたが、オレは必死に踏ん張ってこらえた。
やがて、突風は止み、同時に巨大な感触の気配も消えてなくなった。
(助かった・・・。)
そう思ったオレの体に、ある異変が起き始めていた。
気がつけば、強烈な悪意がオレの体中にまとわりつき、どんどんオレの体を浸食してきていたのだ。
(この悪意は、オレの時間を止めようとしている!)
体の芯が妙に冷たくなり、手足がしびれ、思うように動かせなくなり、体全体が急速に固まっていくような感じがした。呼吸もだんだんと苦しくなり・・・。
・・・いつの間にか、深い深い眠りに落ちていたようだった。
オレの体にまとわりついていた強烈な悪意は、初めから何もなかったかのように消え失せていた。
目覚めたオレの体は、最初はだるかったものの、時間がたつとともに、いつも通りの体に戻っていった。
そして今、あの時と同じ異変が、再び、オレの体に起きた。
あの時よりも程度は軽くすんだものの、まったく同じ異変だった。
しかも・・・。
(そうだ・・・あの時の悪意と今の悪意は、まったく同じものだ!)
オレは、急に恐ろしくなった。
(今の悪意は、いったい・・・どこから流れてきたのだろうか?
ここだけではない・・・そんな気がする。)
はたして、オレはその答え合わせをすべく、すぐ近くにあるコロニーへと足を運び・・・その答えが望みもしないものであったことに絶望することになった。
なんと、そこに住む同志たちすべての時間が、完全に止まっていたのである。
(やはり・・・あの悪意にやられたのだろうか?
他のコロニーの同志は、どうなったのだろう?)
オレは、あの『楽園』内のすべてのコロニーをくまなく探索し、あの『楽園』にいたすべての同志の時間が止まっていることを確認した。
オレの『移住の時』は失敗に終わった・・・『招待』の感触を送ったところで、オレの新しいコロニーに同志が来ることは、決してない。
本能が、オレにこう囁いた・・・『ここにいる意味はない』と。
かくして、オレはあの『楽園』を去り、各『楽園』の間に横たわる『荒れ野』を越え、この『楽園』にやって来た。
そして、この『楽園』で最初に出会った同志が・・・彼女だった。
(あなた・・・かわいいわね。)
それが、彼女が最初に伝えてきた言葉だった。
オレは、そんな彼女を無視した。
しかし、彼女は、オレの後を金魚のフンのようにつきまとった。
(どこまで・・・ついてくるつもりだ?)
彼女は、そんなオレの言葉を無視し、オレにぴったり身を寄せると、オレの体を撫でまわし始めた。
オレは、これまでに感じたことのない感覚、心地よさと安らぎを感じた。
(ウフフ、わからないわ・・・わたしのかわいこちゃん。)
(なぜ・・・ついてくる?)
(ウフフ、わからないわ・・・でも、理由が必要かしら?
わたしは、あなたに魅かれている・・・ただ、それだけ。
いつまでも一緒に・・・ずっと、あなたのそばにいたい。
そう、わたしたちの時間が止まるまで。
ただ・・・それだけ。)
(そうか・・・好きにするがいい。)
オレには、彼女を拒絶する理由などなかった。
火の粉を振りかけるような真似さえしなければ、別にどうでもよかった。
しかし、今となっては、あの時、彼女の好きにさせたことを後悔している。
彼女はオレに・・・盛大に火の粉を振りかけた。
オレの元を去り、孤独を味わわせ、オレの心をずっと焦がし続けている。
こんなことになるのであれば、オレは、彼女と一緒にいなければよかった。
気づかぬうちに、彼女という存在は、オレにとって非常に大きなものになっていた。
・・・・
心を焦がれに焦がされていたオレに吉報が届いた・・・それは、彼女の『招待』の感触だった。
彼女は、無事に『光に満ち溢れた地』を通り抜け、新しいコロニーを見つけ出したのだ。すでに彼女の『招待』を受け取った同志の一部は、彼女のコロニーへと旅立っているようだった。
(オレは・・・どうする? 行くべきか・・・それとも。)
すでに結論は出ている・・・しかし、オレの過去の記憶が、その結論を何度も何度も覆してしまう。
しかし、自問自答を繰り返すうちに、焦がれに焦がされたオレの心から恋慕の炎が燃えあがり、過去の記憶を焼き払い始めたようだった。
オレは・・・ようやく決断することが出来た。
(行こう・・・『光に満ち溢れた地』に足を踏み入れるのは、正直恐ろしい。
だが、それでもオレは、オレたちの時間が止まるまで、彼女と一緒にいたい。)
かくして、オレは彼女のコロニーに向かって旅立った・・・。
『光に満ち溢れた地』にたどり着いたオレの手足は、情けないことに、ぶるぶると震え出していた。焼き払われたはずの過去の記憶がくすぶり始めたのだろうか、過去に怯える心がざわざわと騒ぎ始めた。
本能が、オレに囁いてきた・・・『今すぐ逃げろよ、怖いんだろう?』と。
(うるさいっ! 彼女はきっと待っている・・・オレのことを。)
オレは、生まれて初めて本能に逆うと、意を決して『光に満ち溢れた地』に足を踏み入れた。
悪意を持つ巨大な感触を探りながら、少しずつ、彼女が待つ向こう側に向かって進んでいくが、光や音、匂いの感触が、オレの感覚を麻痺させた。
この地の光の感触はとても強く、チリチリとオレの感覚を刺激し、思うように集中できない。
それでも、一歩進んでは止まり、周辺に何らかの変化がないかを慎重に感じ取りながら、少しずつ少しずつ、前に前に進んでいった。
どれくらい時間が経ったろうか、あともう少しで向こう側にたどり着くというところで、ひとつの感触を感じ取った。
(巨大な感触だ!)
オレの前方に巨大な感触が感じられた。
だいぶ距離が離れているためか、オレのことには気づいていないようだった。
オレは安堵の息をつくと、その場に立ち止まり、さてどうするかと思案した。
その時だった・・・オレは、ここにいるはずのない彼女の悲鳴を感じ取った。
間違いなく彼女だった・・・彼女は今、苦悶の悲鳴を上げていた。
巨大な感触の向こう側で、彼女の時間が止まろうとしていることがわかった。
オレの本能が囁き始めた・・・『逃げろ! 今すぐ、ここから逃げろ!』と。
オレの手足が勝手に本能に従い、この場から逃げようとした。
しかし、オレは必死にその場にとどまった。
オレの本能が何度も囁く・・・『早く逃げろ! おまえの時間、止まるぞ!』と。
(構わない・・・彼女の時間が止まれば、オレの時間も止まったも同然だ。
ならば、オレは彼女の願いを叶えたい・・・そして、それはオレの願いでもある。
オレは、彼女とともに時間が止まる時を迎えたい。)
オレの本能が囁いた・・・『馬鹿なことを言うな・・・おまえの時間は、おまえのためだけにある。あんなオンナのために、おまえの時間を止める必要はない』と。
(彼女は・・・もう、オレの一部なんだ。失いたくない一部なんだ。
なぜ、そう思うのかはわからないが・・・とにかく、オレは・・・。)
オレの本能が囁いた・・・『好きにしろ。おまえの時間は、すでに止まっている。あのオンナと出会った時、おまえの時間は止まったのだ』と。
本能に愛想をつかされたオレは、自分の背中に意識を集中し始めた。
今から彼女の元にまっすぐ向かおうにも、巨大な感触が邪魔をして無理である。
彼女の時間が止まろうとしている今、巨大な感触を迂回している時間はない。
だからこそ、普段は使わない能力を使わなければならない。
大量にエネルギーを消費するため、この能力を普段使用することはないのだが、今こそが、この能力を使うべき時なのだ。
オレは、前方へと駆け出した・・・巨大な感触を飛び越えるために。
オレの体は地を離れると、どんどん、どんどん急上昇していった。
巨大な感触が目の前に迫った時、オレは、上昇角度が浅かったことに気がついたが、もはや後の祭りだった。
オレは、巨大な感触に激突した・・・柔らかい繊維の塊の中に突っ込んだようだった。オレは必死にそれにしがみつくと、なんとか、巨大な感触のてっぺんまで這い上がった。
(ここから飛び降りれば・・・。)
さあ飛び降りようと身構えた時、足元が何度も大きく揺れ、オレの体は地へと放り出された。
オレは、手足を踏ん張って着地の瞬間に備えたが、突然、真上から突風が襲いかかり、オレの体を情け容赦なく、地へと叩きつけた。
オレは、すぐに体を動かそうとしたが、ピクリとも動かなかった・・・そして、いつの間にか、例の強烈な悪意が全身を覆いつくし、オレの体内を侵食し始めていた。
(くそっ、また、オレの時間を止めようというのか?)
しかし、オレの体は少しずつ動き始めた・・・体の芯から凍りついていくような感覚はなく、手足がしびれるようなこともなかった。
地に叩きつけられた衝撃で、一時的に麻痺していただけだった。
(よし・・・動くぞ・・・彼女は・・・どこだ?)
彼女の感触は、オレの目の前にあった。
彼女は、あの強烈な悪意に覆われており、今にもその時間が止まろうとしていた。
あとわずかの距離を走りさえすれば、彼女の元にたどり着くことが出来る。
オレは走ろうとした・・・時間が止まりかけている彼女に向かって。
次の瞬間、凄まじい衝撃とともにオレの時間が、ほんの一瞬だけ・・・止まった。
何かが起きていた・・・オレの下半身に何かが起きていた・・・しかし、それでもオレは走りだした。
思うように走ることが出来なかった・・・体のバランスがうまく取れず、まっすぐ走ることができなかった。それでも、オレは必死に走りに走り・・・ようやく彼女の元へたどり着くことが出来た。
(なぜ・・・戻ってきた?)
こんな状況なのに・・・あまりにも馬鹿らしい質問を伝えてしまったことを後悔しながらも、オレは、彼女の体を優しくさすってやった。
彼女を覆っている強烈な悪意を少しでも多く拭い取り、彼女を楽にさせてやりたかった。
(あなたに・・・会いたかったから・・・わたしのかわいこちゃん。
わたしのせいで・・・あなたの時間も止まってしまう・・・ごめんなさい。)
彼女はそうオレに伝えると、弱々しくもオレの体をさすってくれた。
(いいんだ・・・オレのほうこそ、すまなかった。
一緒に行っていれば、こんなことにならなかった。)
(ううん・・・いいの。今、こうして・・・あなたと一緒にいられるから。
それに・・・ねぇ、聞いて。
わたしね、あなたとわたしの新しい生命をコロニーに産み落としてきたの。
きっと、わたしたちの分まで生きてくれるわ。)
(そうか・・・。)
オレたちの時間が、完全に止まろうとしていた・・・。
(ねぇ・・・わたしのかわいこちゃん。
あなたの時間・・・もう、止まってしまったのね。
わたしの時間も・・・もうじき・・・止まる。)
(・・・。)
この『楽園』の主である五木武利(いつきたけとし)は、右手にはゴキブリ駆除スプレー、左手には丸めた雑誌を手にし、床の上に転がる二つの黒いものに見入っていた。
それは、すでに絶命した二匹のゴキブリの成虫だった。
五木武利と二匹のゴキブリたちは、つい先ほどまで死闘を繰り広げていたのだ。
死闘・・・そう言うと、それは大袈裟すぎると思われるかもしれない。
しかし、二匹のゴキブリにとっては、まさに生死を賭けた闘いであったし、その結果、彼らは死を享受することになったのである。
その死闘は、雑誌を読んでいた五木武利が、かすかな気配を感じとったところから始まった。
五木武利の目は、気配がした方向に素早く動いた。
なるほど、美しく黒光りするゴキブリ『黒髪の貴婦人(仮名)』が、カラーボックスと壁の隙間から這いだして来たところだった。
黒髪の貴婦人は、その触角を盛んに左右に振り、あたりの気配を必死に探っていた。
そんな黒髪の貴婦人のことを横目で眺めつつ、五木武利はゆっくりと立ち上がり、忍び足で台所に向うと、シンク下に保管してある最凶の飛び道具・・・ゴキブリ駆除スプレー『ゴキ・ブリザード』を手にし、その残量を確認するかのように、何度も何度も激しく振った。
ゴキ・ブリザードを手にした五木武利は、卓越した狩人のように黒髪の貴婦人の元に、ゆっくり、ゆっくりと近づいていった。
そんな五木武利の動きにまったく気づきもしなかった黒髪の貴婦人の触角の動きが・・・ピタリと止まった。ようやく、五木武利の気配を察知したのである。
五木武利は、この時を待っていた。
『不意打ちはせず、正々堂々』・・・それが五木武利の流儀だった。
たとえ相手がゴキブリであれ、正々堂々と真剣勝負をしたいのである。
それゆえに、五木武利は、ゴキ・ブリザードを愛用しているのだ。
ゴキ・ブリザードの姉妹品にくん蒸タイプ『イチコロ・ミスト』があるのだが、五木武利は、これを『大量殺戮兵器』として忌み嫌い、決して使用することはない。
さて、黒髪の貴婦人が足を動かすや否や、その足の動きから逃げ先を見極めた五木武利は、眉一つ動かさず、ゴキ・ブリザードを噴射した。
己の存在をわざと相手に気づかせてから、相手の出方を見極め、攻撃を仕掛ける『後の先』・・・それが、五木武利が得意とする戦法だった。
バシュゥッ・・・と、黒髪の貴婦人の未来位置に的確に放たれたゴキ・ブリザードのジェット噴射は、容赦なく黒髪の貴婦人を軽々と吹き飛ばし、薬剤まみれにした。
ゴキ・ブリザードの薬剤は、『瞬間凍結!!』を謳い文句にしているだけあって、黒髪の貴婦人を一瞬にして氷結させたようだった。
黒髪の貴婦人の中枢神経が麻痺し始めているのだろう、もはや逃げることも出来ず、その触角を振り子のように左右にコッチン、コッチンと動かしていた。
その姿は、まるで己の最期の時を刻んでいるかのように見えた。
五木武利は、ヒューッと口笛を鳴らすかのように息を吐き出すと、とどめを刺すために黒髪の貴婦人に近づいた。このまま放っておいても、やがては尽きる生命であるが、五木武利は情け容赦のない冷徹な狩人だった。
その時だった・・・五木武利の背後から羽音が聞こえたかと思った瞬間、五木武利の後頭部に何かが乗っかり、頭頂部に向かってもぞもぞと動き始めたのである。
気持ち悪さのあまり、五木武利はたまらず声を上げながら、その頭を何度も下に向かって振った。
まるでスローモーションを見ているかのように、五木武利の目はしっかりと捉えていた・・・自分の頭頂部から落ちていくものを。
それは、ヌラヌラと輝く漆黒の鎧を身にまとった虫面四臂(むしづらよんぴ)の益荒男(ますらお)・・・すなわち、新たに現れたゴキブリ『漆黒王子(仮名)』だった。
漆黒王子が床に落ちる寸前に、五木武利は手にしたゴキ・ブリザードを噴射した。
バシュウッ・・・と、勢いよく放たれたゴキ・ブリザードのジェット噴射は、漆黒王子を激しく床に叩きつけ、その体にたっぷりの薬剤を浴びせかけた。
(なんて野郎だ・・・こいつ・・・オレのことを踏み台にしやがった。
だが、あまりにも迂闊すぎたな・・・若さゆえの過ちが、おまえを死へと追いやったのだ。)
五木武利は、頭頂部をきれいにするかのように撫で回しながら、口元に勝利の笑みを浮かべたが、その笑みはすぐに消えた。
漆黒王子が何事もなかったかのように動き始め、黒髪の貴婦人に向かって歩き始めようとしたからである。
(こ、こいつ・・・まさか、ニュータイプ(変異種)?
面白い! ならばっ・・・。)
五木武利は、やはり冷徹な狩人だった。
五木武利は、すぐそばに読んでいた雑誌があることを確認すると、それに左手を伸ばした。逆手で雑誌をつかみ取るやいなや、左腕を振り回しながら雑誌をクルっと丸め、漆黒王子めがけ、勢いよく振り下ろした。
ズバシュッ!
五木武利流奥義『円月斬』が炸裂し、漆黒王子の動きを止めた。
漆黒王子を真っ二つにするかのごとく繰り出された円月斬だったが、わずかにその太刀筋はそれ、即死させるには至らなかった。
それでも、その太刀筋は、漆黒王子の左腹部を叩き潰し、左の後ろ脚をもいでいた。
ほぼ致命的といえるダメージだった。普通のゴキブリであれば、コッチン、コッチンとその触角を左右に振り、己の最期の時を刻んでいたであろう。
しかし、漆黒王子は弱々しくも再び動き出し、黒髪の貴婦人に向かってよたよたと歩き始めたのである。
そんな漆黒王子のとどめを刺すべく、丸めた雑誌を再び振り上げた五木武利だったが、すぐにその手を下ろすことになった。
(こ、こいつら・・・違うぞ・・・ただのゴキブリとは違う!)
五木武利は、冷徹な狩人だった・・・それは間違いない。
しかし、そのような狩人であったとしても、その戦意を喪失せざるを得ないような事態が目の前で起こり始めたのだ・・・今ここに、二匹のゴキブリたちによる悲劇の最終幕が上がったのである。
それは、目の錯覚かもしれなかった・・・ゴキブリたちに柔らかい光が降り注いでいるかのように見えた・・・まるで、ステージ上に立つ俳優たちにスポットライトが当たっているかのように。
黒髪の貴婦人の元から柔らかな光の花道がまっすぐ伸びると、その花道を漆黒王子がよたよたと歩いていく。
死にゆく漆黒王子は、これから迎える最期の時を黒髪の貴婦人とともにすごそうと、必死にその歩みを進めているのだ。
ようやく、黒髪の貴婦人の元にたどり着いた漆黒王子は、その触角を伸ばすと、黒髪の貴婦人のことを優しく撫で始めた。
そしてまた、黒髪の貴婦人もその触角を弱々しく伸ばし、漆黒王子のことを優しく撫で始めた。
その姿は、まるで恋人たちがお互いの傷ついた体をいたわるために、愛撫しあっているかのように見えた。
そんなゴキブリたちから淡い光が発せられると、ゴキブリたちは、次第にまばゆい光の塊へと変わっていった。
(美しい・・・生命の輝きだ・・・彼らの魂が・・・輝いている・・・のか。)
もはや、五木武利の目には、漆黒王子と黒髪の貴婦人が単なるゴキブリではなく、人間よりもはるかに崇高なもののように見えた。
やがて、光の塊の輝きは次第に弱まっていき、元の二匹のゴキブリへと戻っていった。
二匹のゴキブリは、お互いの触角を絡ませ合いながら絶命していた。
まるで死にゆく恋人たちが、お互いの存在を確かめ合うよう、そして、彼らが死んだ後もお互いが離れ離れにならないよう、永遠にその手をつないでいるかのように見えた。
こうして・・・彼らの死闘は終わったのである。
五木武利は、ティッシュを多めに取ると、ゴキブリたちの触角がはずれないよう、慎重かつ丁寧に彼らの遺骸を包み、ゴミ箱の中にそっと置いた。
いつもならば、ゴキブリを包んだティッシュは、ぎゅうぎゅうに握りつぶし、丸めてぽいっとゴミ箱に捨てるのだから、五木武利なりに敬意を払ったゴキブリ葬であった。
(まさか、ゴキブリたちがあんなに人間じみたことをするとは・・・もしかしたら、彼らにもオレたち人間と同じ魂が宿っているのかもしれない。
いや、すべての生きとし生けるものには、同等の魂が宿っているのだ。
その魂が、たまたま人間の器に入るか、ゴキブリの器に入るか、もしくは別の器に入るかによって、人間として生まれるか、ゴキブリとして生まれるか、はたまた別の生き物として生まれるのかが決まるのだろう・・・オレは、人間として生まれて良かった。
一瞬だけ、オレは『ごきぶり』になったことがある・・・しかし、オレは、彼らのように忌み嫌われ、殺されるようなことはなかったのだから。
オレは・・・別にゴキブリが嫌いなわけではない。
ゴキブリは、見た目は気持ち悪いが、直接、人間に危害を加えることはない。
不潔だとかいうヤツがいるが、不潔な環境を作り出しているのは人間のほうなのだ。いわば、ゴキブリは被害者といえるのかもしれない。
しかし・・・しかしだ。ゴキブリの姿を見ると・・・オレの頭の中の『開けずの扉』が・・・。)
その時、五木武利の『脳サイボースペース』に一枚の扉が現れた。
それは、表面が黒く焼け焦げた扉だった。
その扉は、五木武利の過去の記憶を呼び覚ますインターフェースであり、五木武利は、この扉のことを『開けずの扉』と呼んでいるのだ。
(勝手に開こうとしやがる。
そして、オレは・・・なぜだか、この『開けずの扉』を開きたくない。)
五木武利は、その視線を扉の隣に移すと、そこには一人の少年が立っていた。
少年は、顔全体を覆い隠す純白の仮面をつけていた。仮面は、瞳の部分しか穴が開いていないため、少年の表情をうかがい知ることは出来ない。
しかし、五木武利は、この少年の正体を知っている・・・少年の正体は、少年時代の五木武利、すなわち『武(たけ)ちび』である。ただ、なぜ、武ちびが純白の仮面をつけ、その顔を隠しているのかはわからない。
(あいつが・・・武ちびが、あの扉が開こうとするのを止めてくれる。
そして、『ゴキブリをなんとかして』とオレに懇願してくる。
オレの目の前から、ゴキブリを排除することで、『開けずの扉』が開くのを阻止することが出来るんだ。その理由は、まったくわからないが・・・。)
五木武利は、あらためて『開けずの扉』を見た。
黒く焼け焦げた扉の表面には、ところどころに白い花のようなものが焼け残っていた。
(この扉は・・・もともとは、何の扉だったのだろう?
この扉は、『あの日』から・・・いや、正確には『あの日の夜』に現れた。
そして、オレは・・・何か大切なものを失くしたような気がする。)
『あの日』・・・五木武利にとって、『あの日』は忘れがたい一日だった。
『あの日の午後』に五木武利は『ごきぶり』になり、『あの日の夜』に大切な親友を失くしたからである。
五木武利の『脳サイボースペース』に一枚の窓が現れた。
それは、『あの日の窓』だった。
その窓もまた、五木武利の記憶を呼び覚ますインターフェースだった。
五木武利がその窓を覗き込むと、そこは小学校の教室だった。
若い女教師が、黒板に向かって何かを書いている姿が見えた。
彼女の名前は、『田中幸子』・・・五木武利が通う小学校に、教育実習生としてやって来た女子大生だった。
幸子先生は、当時放映していたアニメ『天使の教師 舞っちんぐサチコ先生』の主人公『タナカサチコ』と同性同名だった。
ちなみにどうでもいい情報ではあるが・・・『天使の教師 舞っちんぐサチコ先生』とは、とある小学校の若き校長『アクマサトル』に扮する大悪魔『サトゥルン』が企てた小学生悪魔化計画を阻止するため、美しき五人の天使たちが地上に舞い降り、教師として奮闘する姿を描いたお色気アニメである。
教育実習生としてやって来た初日、ただ同姓同名だと言う理由だけで、幸子先生は生徒たちの要望に応え、恥ずかしそうにしながらも『舞っちんぐ!』というセリフとともに変身ポーズを取り、顔を真っ赤にしつつ、楽しそうに笑っていたのだ。
そんな彼女が引き起こした『あの日の午後』の出来事が、今、『あの日の窓』の向こうで繰りひろげられようとしていた。
・・・・
幸子先生が書いていたのは、五木武利のフルネームだった。
幸子先生が、どういった経緯で五木武利のフルネームを黒板に書いていたのかは覚えていない。
ただ、書き終わった後・・・こうつぶやいたことだけは、はっきりと覚えている。
「あっ・・・『ごきぶり』」と。
幸子先生は、小声だったとはいえ、自分のあまりにも迂闊すぎる発言に驚いたのだろう、慌てて両手で口を押さえ、下を向いて黙り込んでしまった。
しかし、『時すでに遅し』だった・・・最前列に座っていた少々残念な顔をした女子が、クラス中に響くくらいの大きな声で叫んだのだ。
「ほんとうだぁ! 五木君って、『ごきぶり』だぁ。」
クラス中が笑い声で包まれ、手拍子とともに『五木武利(ごきぶり)』コールが湧き上がった。
「いーつき、いつき(パン・パン・パパ・パンッ)。
ごきごき、ごきぶり(パン・パン・パパ・パンッ)
たけとし、たけとし(パン・パン・パパ・パンッ)。
ぶりぶり、ごきぶり! ハイッ・ハイッ・ハァイッ(パァン)!」
そんな喧騒の中、五木武利は、ちらりと幸子先生のほうを見た。
幸子先生は、ただただ、下を向いたまま、黙っていた。
無表情のまま、その機能を停止していたのである。
五木武利は、そんな幸子先生の姿を見るなり、半べそをかきながらも笑った。
「あはぁはぁあ・・・本当だぁ・・・ぼく・・・ちっとも気づかなかったなぁ。
ぼく・・・『ごきぶり』だぁ!」
本当は・・・幸子先生に助けてほしかった。
本当は・・・その場で泣き出したかった・・・でも、泣くのを必死にこらえた。
これ以上、幸子先生を困らせるようなことはしたくなかったのである。
・・・・
ここで、『あの日の窓』の風景が、ホワイトノイズと化した。
『あの日の午後』の記憶はここでぷっつりと途絶え、その後のことについては、まったく覚えていないのである。
しばらくたつと、再び、『あの日の窓』に風景が映し出された。
今度は、五木武利の部屋だった。
部屋の中では、五木武利が一人、寝転びながら雑誌を読んでいた。
今度は『あの日の夜』の出来事が、窓の向こうで繰り広げられようとしていた。
・・・・
五木武利は、週刊少年漫画『少年ローリング』の巻末漫画、ひとつも笑いどころのない世紀始ギャグ漫画『このう〇娘(こ)、誰の子?』を読みながら、半べそをかきつつ、無理やり笑っていた。『あの日の午後』に起きた出来事を、無理やり笑うことで忘れ去ろうとしていたのである。
そんな中、一匹の子供のゴキブリが五木武利の眼前に現れ、右の前腕を上げた。
それは、親友・・・いや、親(しん)ゴキの『ゴキ太(仮名)』だった。
ゴキ太と出会った時期は、はっきりと覚えていない。
ただ、初めて出会った時・・・お互いの目と目が合った瞬間、ゴキ太は右の前腕を上げ、五木武利に挨拶をしたのだ。
その後もそれが同じ個体であるかどうかは不明だが、どこからともなくノコノコとやって来ては、右の前腕を上げ、五木武利に挨拶をするようになった。
そして、五木武利の周りをちょろちょろと動いては、尻をぷりっと持ち上げ、触角をコチコチと動かしては、五木武利の目を楽しませた。
五木武利は、そんなゴキ太のことを愛でるようになっていた。
いつものように、ゴキ太は右の前腕を上げ、五木武利に挨拶をしたのだが、そんなゴキ太の姿を見た五木武利は、いつもの五木武利ではなかった。
ゴキ太の姿を見た瞬間、五木武利の『脳サイボースペース』に小さな白い花で覆われた扉が現れた。
その扉が勢いよく開き・・・次の瞬間、五木武利の頭の中は真っ白となり、大きな声を出したような気がした。
「武利ぃ・・・どうしたの? 急に大きな声出して・・・大丈夫?」
母親の心配する声で我に返った五木武利は、返事をすることもなく、あたりをきょろきょろと見回し始めた。
(あれ? ゴキ太は・・・いったいどこに行ったのかな?
ぼくが大声だしたから、どっかに逃げちゃったのかな?)
五木武利は、いつのまにか立ち上がり、さっきまでゴキ太がいた場所に突っ立っていることに気がついた。
五木武利は、急に恐ろしくなった・・・嫌な予感がしたのである。
どぎまぎしながら、五木武利はゆっくりと左足を上げ、その裏を確認した。
そこに・・・ゴキ太はいなかった。
ふぅっと、安堵のため息をついた。
五木武利は呼吸を止め、今度はゆっくりと右足を上げ、その裏を確認し・・・全身を硬直させた。
そこに・・・ゴキ太がいたからである。
五木武利の右足のかかとにへばりつき・・・その短い生涯を終えていた。
無残にもゴキ太は、五木武利の右足により踏み潰されていたのである。
(あァ・・・ゴキ太ぁ・・・ぼくは、何てことを。)
五木武利の目から悲しみの涙が溢れ出した。
しかし、涙が溢れるほど悲しいにもかかわらず、不思議な安堵感も感じていた。
開いた扉が、武ちびにより閉じられていたからである。
しかし、一面が小さな白い花で覆われていたはずの扉の表面は、いつのまにか、黒く焼け焦げていた。
武ちびはこちらを見ると、意味ありげに立てた親指をグッと突き出した。
・・・・
『あの日の窓』が、すうっと跡形もなく消え去った。
(『あの日の夜』に・・・『開けずの扉』と武ちびが現れた。
そして、それ以来、オレは『開けずの扉』が開かぬよう、ゴキブリを屠るようになった。
オレは、何かを忘れているような気がする。
何か、大切なものを失ってしまったような気がする。
親友を失くし、さらに別の大切なものを失くしてしまったような・・・そんな気がするのだ。
それにしても・・・ゴキ太には、本当に可哀そうなことをしてしまった。)
その時、五木武利の『脳サイボースペース』に一枚の扉が現れた。
その扉はゴキブリの形をしており、扉の表面には『親友』と書かれていた。
パタン・・と、『親友の扉』が開いた。
一匹のゴキブリの子供が、五木武利に挨拶をするかのように右の前腕を上げ、触角をコチコチと動かしていた。
間違いなく、五木武利の親ゴキ、ゴキ太だった。
(ゴキ太・・・すまなかった。
オレは、あの時、誤っておまえを踏みつぶしてしまった。)
五木武利の考えを読み取ったゴキ太が、その触角を左右に振った。
その様は、まるで『それは違う』と首を左右に振っているかのように見えた。
(ゴキ太・・・違うのか?
オレは、誤っておまえを踏みつぶしたんじゃないのか?)
ゴキ太は、何も答えなかった。
(オレは、あの時のことを覚えていないんだ。
だが、誤っておまえを踏みつぶしたんじゃないとしたら・・・まさかっ!
オレは、あの扉を閉じるため、無意識のうちにおまえを踏みつぶしたのか?)
ゴキ太が、その触角を上下に振った。
その様は、まるで『そうだ』と首肯しているかのように見えた。
そして、ゴキ太は右の前腕を上げると、触角で宙に何かを書き始めた。
それは、『オールド・スポート キニスルナ』と読めた。
(華麗なるゴキ太よ、許してくれて・・・ありがとう。)
『親友の扉』は音もなく閉じると、『脳サイボースペース』から消え去った。
(ゴキ太を見た時に現れた扉・・・あの時の扉は、今のような『開けずの扉』ではなかった。一面が小さな白い花で覆われた綺麗な扉だった。
それが、ゴキ太を踏みつぶした後、表面が黒く焼け焦げた扉に変わっていた。
オレは・・・あの扉の向こうに、いったい何を見たのだろう?
あの扉の向こうを確認しなければならない、そんな気がしてきた・・・今まで、あの扉を開きたいなどと思ったことは一度もないが、今はなぜか、あの扉を無性に開けたくてしょうがない。
あの扉を開ければ、オレが失った大切なものがわかるような・・・そんな気がするのだ。)
そんな五木武利の心の動きを読みったのだろうか、扉の隣に立っていた武ちびは、『開けずの扉』の前に立つと、体を大の字に広げ、五木武利に向かって叫んだ。
「ちゃん武(たけ)!
ダメだ! この扉を開けちゃいけない。絶対にダメだ!
開けたら・・・開けたら・・・大変なことになっちゃう!」
純白の仮面に隠された武ちびの表情は、まったくわからなかった。
しかし、声の調子から、『開けずの扉』が開くことをひどく恐れていることはわかった。
(大変なことってなんだ?
オレは、あの時、何が起きたのか、まったく覚えていないんだ。)
「扉を開けちゃダメなんだ!
もし、扉を開けてしまったら、今度こそ・・・キミは、先生のことを焼き払っちゃう。」
(先生を焼き払う? どういうことだ?)
武ちびは、仮面に両手を伸ばすと、そっと外した。
仮面の下は、仮面だった・・・べそをかいている五木武利の仮面だった。
「ちゃん武・・・あの時、ゴキ太を見たキミは、先生を『憎しみの炎』で焼き払おうとしたんだ。だから、ぼくがそうなる前に扉を閉じたんだ。キミにゴキ太を踏みつぶさせてね。かろうじて先生を守ることは出来たけど、キミの『憎しみの炎』は扉の表面の白い花たちを焼き払い、その火の粉がほんの少しだけ、扉の中に入ってしまった。」
(なんだって・・・あの扉の向こうには、先生がいるのか?
そして、オレが、先生のことを『憎しみの炎』で焼き払おうとしただって?
馬鹿なことを言うな! オレは、先生のことを憎んでなんかないぞ!
オレは、あの時・・・一瞬だけ、『ごきぶり』になった。
でも、あの時だけだ。オレは、先生のことを憎んでなんか・・・ない。)
『あの日』の翌日以降、五木武利のあだ名は・・・変わらず『いっくん』のままだった。『ごきぶり』と呼ばれたのは・・・少なくとも、面と向かって『ごきぶり』と呼ばれたのは、あの時だけであった。そして、それが原因でいじめられることもなかった。結局のところ、あれから何も起きなかったのである。
「ぼくは・・・先生のことを憎みたくないんだ!
これ以上、先生のことを憎みたくないから、この扉が開かないように守っていたんだ・・・キミがまた、先生のことを『憎しみの炎』で焼き払わないように。
キミの『先生を憎みたくない』という気持ちが、ぼくを生みだした。
そして今、キミの『扉を開けたい』という衝動が、そんなぼくを消そうとしている・・・ぼくは・・・ぼくは、これからいったい何に生まれ変わるのだろう?」
(ん・・・武ちび? 何を言ってるんだ?)
「クックックッ・・・なぁなぁひゃぁくにぃじゅうぅくぅ(七百二十九)!」
(おいっ、武ちび? どうした? 確かにその計算は御名算(ごめいさん)だが。)
突然、武ちびのべそ顔の仮面が赤く輝いた。
仮面が・・・ポロリと落ちた。
仮面の下は、仮面だった・・・怒りに満ち溢れ、その目が『憎しみの炎』に包まれた五木武利の仮面だった。
小学生悪魔、魔人『イツキタケトシ』の誕生の瞬間だった。
「憎んでなんかない? そう思いこんでいるだけさ・・・ちゃん武!
おまえさんは、先生を憎んでいないフリをしているだけなのさ。
扉の中を見たいんだろう?
だったら、このタケトシさまが見せてやるよ・・・面白いやつをな。」
魔人イツキタケトシが、『開けずの扉』を勢いよく開いた。
五木武利は、意を決して、『開けずの扉』の中を覗き込んだ。
そこは、教室くらいの大きさの部屋だったが、『憎しみの炎』の火の粉が猛威を振るったのであろう、あたり一面が、黒く塗りつぶしたかのように焼け焦げていた。
その部屋の中央に、白いものが立っているのが見えた。
『あの日の午後』、無表情のまま、機能を停止していた幸子先生だった。
そんな幸子先生が、ゆっくりと五木武利のほうを見た・・・その途端、無表情だった幸子先生の顔が・・・ゴキブリでも見たかのようにぎょっとした顔になり、目がおどおどし始めた。その態度は、明らかに五木武利のことを恐れているかのように見えた。
(先生・・・どうして、そんな顔をするんだ?)
「なぁなぁひゃぁくにぃじゅうぅくぅ・・・。
ちゃん武、先生がおまえさんのことを恐れるのも無理はないと思うぜ。
鏡があれば、おまえさんも自分の目つきを見ることが出来るのになぁ。
おまえさんの目、このタケトシさまと同じイカシタ目つきをしてるぜぇ・・・おまえさん、憎しみでイカレタ目つきで、先生のことを見てるんだよ。」
(馬鹿なことを言うな! オレは、先生のことを憎んでなんかない!
だから、そんな目つきしているはずが・・・。)
その時、突然、五木武利の目の前が真っ赤に染まった。
五木武利の目から炎が噴き出したのだ・・・『憎しみの炎』だった。
噴き出した『憎しみの炎』は、幸子先生に襲いかかると、足元からその体を焼き焦がし、幸子先生を黒く黒く染めていく。
(やめろっ・・・やめてくれっ! 先生が・・・オレの記憶から消えていく!)
五木武利は、慌てて両手で目を覆った・・・両目から噴き出している『憎しみの炎』を止めるために。
そんな五木武利の目の前に、あるアニメの最終回の一コマが浮かび上がった。それは、『天使の教師 舞っちんぐサチコ先生』の最終決戦の一コマだった。
・・・・
大悪魔『サトゥルン』との最終決戦で敗北を喫した『AT(エンジェル・ティーチャー)・サチコ』。
サトゥルンが、AT・サチコにとどめを刺そうとした瞬間、奇跡が起こった。
サトゥルンの心の奥深くに眠るAT・サチコへの想いが、彼女を守ろうと目覚めたのだ。サトゥルンの体の内側から幾条もの光が発せられると、その姿は一人の『美天使』に変わっていた。
美天使の名は『アマツカサトル』・・・タナカサチコの幼馴染みだった。
あまりにも優しすぎる心を持つアマツカサトルは、他人を憎むことが出来なかった。そして、あまりにも優しすぎるがゆえ、いじめられっ子だったアマツカサトルは、やがて、自分の心に宿った『憎しみの炎』を制御できなくなった。
それゆえ、彼の『憎しみの炎』が天界を焼き尽くす前に、自ら地上へと堕ちたのであった。しかし、『時すでに遅し』だった・・・『憎しみの炎』は彼の優しき心を焼き払い、大悪魔サトゥルンへと変貌させてしまったのだった。
元の姿に戻ったアマツカサトルは、AT・サチコがいじめっ子たちのリーダーであったことを思い出し、再びその勢いを取り戻した『憎しみの炎』は、アマツカサトルをサトゥルン(最終形態)へと変貌させていく。
そんなアマツカサトルに対し、AT・サチコは、必死に呼びかけるのだった。
「サトルくん!
わたくし・・・あなたのことが好きだった・・・そんなわたくしの幼き恋心が、あなたを悪魔に変えてしまった。
わたくしには、あなたを救うことは出来ない。
誰も・・・あなたを救うことは出来ない。
あなたを救うことが出来るのは、あなた自身なのだから。
認めて! わたくしへの憎しみを。
その憎しみを認めなければ、あなたが目を背けた分だけ・・・その憎しみが大きくなり、あなたをより強大な悪魔へと変貌させてしまう。
そして、その憎しみを許してあげて!
憎しみからは、憎しみしか生まれない。
でも・・・許しからは愛が生まれる。
愛は憎しみを癒し、そして・・・あなた自身を救うのだから!
そして・・・そして・・・・・・・。
そして・・・その愛を・・・わたくしに頂戴ッ・・・キャッ!」
・・・・
(そうか・・・そうなんだ。
オレは、幸子先生のことを憎んでなんかない・・・今までそう思っていた。
だけど・・・違っていた。
あいつが言った通り、自分にそう思いこませようとしていただけなんだ。
オレは・・・ずっと、幸子先生のことを憎んでいる。
何もせず、無表情で固まっていたあの人を・・・ちっとも助けてくれなかったあの人のことを・・・オレは、今でも憎み続けている。)
「なぁなぁひゃぁくにぃじゅうぅくぅ・・・。
ちゃん武、ようやく自分に素直になれたようだな。
その勢いで、早く先生を消し炭にしちまえよ!
そうすれば・・・おまえさん、もっと楽になれるぜ。」
魔人イツキタケトシは、笑いながら部屋の中に入ると、『憎しみの炎』で燃え盛る幸子先生の元に駆け寄り、その周りをグルグルと踊り出した。
「燃えろ! 燃えろ! 燃え尽きろ! 先生の記憶を燃やし尽くしちまえ!」
五木武利は、両手を目から離した。
その両目からは、『憎しみの炎』が幸子先生を焼き払わんとばかりに噴き出すかのように思えたが、『憎しみの炎』が噴き出すことはなかった。
その代わりに、どっと涙があふれ出した。
それとともに、部屋の中に優しい雨が降り始め、幸子先生を包み込んでいた『憎しみの炎』を消していく。
(先生! オレは・・・あなたのことを・・・憎んで・・・います。
でも・・・でも・・・オレは、先生のことを許します!
先生は、ただ、若すぎただけなんだ・・・人生経験が少なすぎただけなんだ。
今のオレにはわかる・・・先生は、どうすればいいか、わからなかっただけなんだ・・・ただ、ただ・・・それだけなんだ。)
『憎しみの炎』を消し去った優しい雨は、今度は部屋中を白く染め始めていた。
顔以外が黒く焼け焦げた幸子先生、そして、魔人イツキタケトシさえも。
「ああっ、このタケトシさまから憎しみが消えていく。
憎しみがなくなっちまったら、このタケトシさまは、タケトシさまでなくなっちまう・・・このタケトシさまは、いったい、何に生まれ変わるんだ?」
魔人イツキタケトシの体がすべて白く染まると、その仮面が外れた。
仮面の下は、笑顔だった・・・天使のような笑顔の五木武利だった。
『BAT(ビューティフル・エンジェル・タケトシ)』は、五木武利に向かって意味ありげに立てた親指をグッと突き出すと、その背中の白い翼で己の身を包み込み、その姿を消し去った。
幸子先生もまた、石膏像のように全身が白く染まっていった。
五木武利のほうを向いた幸子先生の表情には、すでに恐怖の色はなかった。
幸子先生の口が何かを伝えるように動いたが、何を言っているのかはまったくわからなかった・・・ただ、嬉しそうに微笑むと、その姿を消していった。
何もかもが消えていった・・・『開けずの扉』そのものが、五木武利の『脳サイボースペース』から消え去った。
そして・・・五木武利は、我に返った。
いつの間にか、その両目から涙があふれ出ていた。
(クソッ、なんで・・・オレは泣いてるんだ? オレは・・・阿呆か?)
五木武利はティッシュに手を伸ばすと、それで涙をぬぐい、鼻をかんだ。
鼻をかんだティッシュをゴキブリたちが眠るティッシュの脇に置くと、永遠の眠りについたゴキブリたちに話しかけた。
「オレはきっと・・・もう、お前たちを屠ることはないだろう。
オレにはもう、お前たちを屠る理由が・・・ないのだから。」
その時、五木武利の『脳サイボースペース』に一枚の扉が現れた。
それは、たくさんの小さな白い花で覆われた綺麗な扉だった。
花にはまったく関心がない五木武利だったが、この白い花の名前は知っていた。
(『イベリス』・・・か。)
五木武利は、花に覆われた綺麗な扉を開いた。
扉の先には、五木武利にとって忘れがたい『あの日』の中で、唯一忘れ去っていた『あの日の朝』の光景が広がっていた。
・・・・
『あの日の朝』、珍しくも五木武利は、小学校の教室に一番乗りした。
しかし、すでに先客がいた・・・幸子先生だった。
幸子先生は、教師用の机に小さな鉢植えを置いているところだった。
「おはようございます、田中先生! 何してるの?」
「あっ、五木くん、おはよう。今日は一番乗りだね。
うふふっ、教室の中って殺風景だから、少しでも明るくしようと思って・・・。
この花はね・・・イベリスって言うんだよ。
見た目が砂糖菓子みたいだから、キャンディタフトとも言うんだって。
そしてね、花言葉は・・・。」
・・・・
(花言葉は・・・『初恋の思い出』か。)
五木武利の胸が温かい気持ちで満たされ、目頭が再び熱くなった。
(ク、クソッ、オレは・・・いつからこんなに涙もろくなった?)
五木武利は、ゆっくりと天を仰いだ・・・涙がこぼれないように。
・・・・
その白い花は、可憐で綺麗だった。
そしてまた、柔らかな朝陽が照らし出す幸子先生も可憐で綺麗だった。
そんな幸子先生の顔を見つめながら、五木武利は小声でつぶやいた。
「きれいだなぁ。」
「うふふっ、ね・・・。」
幸子先生は、五木武利の言葉が花に向けられたものだと思ったようだったが、もちろん、それは違う。
しかし、五木武利はそのことを口には出さず、ただ、その頬を紅め、下を向いた。
そんな五木武利のことを見つめながら、幸子先生は優しく微笑んだ。
・・・・
(オレは・・・ようやく、大切なものを取り戻すことができた。
甘すぎる『初恋の思い出』を・・・。
『いい大人が恥ずかしい・・・』とか言われるかもしれない。
でも、オレにとっては、失いたくない大切な思い出なんだ。
初恋の人が、優しく微笑んでくれる・・・こんなに・・・嬉しいことはない。)
五木武利の目に溜まっていた温かい涙が、ついにこぼれ落ちた。
今、流している涙・・・それは、『よろこび』の涙であった。
そんな五木武利のことを、暗がりから眺める多くの影があった。
暗がりに潜む無名のゴキブリたちは、パッチン、パッチンと己の左右の触角を何度も何度も振り合わせていた。
その様は、五木武利(ごきぶり)とゴキブリたちの悲劇の終幕に、盛大な拍手を送っているかのように見えた。
Gの悲劇 @Ak_MoriMori
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。