★ない景色

「――っ」

 ヴェイグに入った、と思った瞬間、私は強い風圧を感じて前につんのめった。

 たとえるなら、走っている自転車から飛び降りて、それまでの自分のスピードに驚くかんじ。

「どうしたの綾、大丈夫?」

「あっ、ご、ごめんユキタ!」

 気がついたらユキタに肩を支えられていた。慌てて飛び退くと、控えめにこちらを伺うつららとも目が合う。後ろには『ロータス』の看板が見えた。洒落た筆記体の看板、木造の壁。

「本当に大丈夫?意識がこっち向いてないよ」

「……ねえ、さっきまで私、走ってた?」

 ほとんど考えもなしに口が開いていた。さっきの感覚はどうも、走っている最中で急に立ち止まったみたいに思えたのだ。

「走るも何も、たった今『ロータス』から出てきたばかりですよ」

 ユキタの後ろにいたつららがそう言う。

 振り返ってみれば、確かにお店の玄関が真後ろにあった。色とりどりの花が彩る小さな庭の園路で、私は立ち止まっている。

「そう……そう、だよね。うん……」

 頷いてみるけれど、なぜだか掘り返された痕のある庭と煉瓦が景色にちらつく。

 さっきまで目の前にあった景色。

 塗りたてのペンキの匂い。

 整然と並んだ真新しい煉瓦の道。

 カフェオレ。

 襟を立てたマント。

 その中で飛び跳ねた、小さな私。

 あれは一体、何だ。

 遠くから私達の様子を眺めた映像ではなかった。私は”あたし”の目線から世界を見ていて、そしてそれは確かに開店前の『ロータス』だった。

 ならきっとあれは、私の記憶のはずで。

 看板を見詰めながら、私はくしゃりと前髪を掴んだ。訳がわからない。

 私はそんなこと、まったく覚えていないのだから。

 記憶にはないのに、その景色だけが妙な存在感を持って頭の端に引っかかっている。今はもう忘れてしまった物語の場面だけが心に残るみたいに。

 気にかかる。なぜか居心地が悪い。

 思い出したくて仕方ないのに、思い出せないのかと、周りの風景に責められているような――。

 ぐるりと視線を巡らせているうちに、二人の視線に気がついた。不安げに私とユキタを見比べて様子を伺うつららと、不思議そうに耳を折って首を傾げるユキタ。

「ごめん、何でもない!」

 咄嗟にそう言って笑顔を作った。そうだ、つららの家を探しに行くところだったのだ。私のせいで引き留めてはいけない。気がつけば、あの黒い風変わりなマントの男の顔もふにゃふにゃと溶けてわからなくなっている。

「ほら、家を探すんでしょ?行こ!」

 私は手を叩きながらユキタたちの横を通り抜けてさっさと歩き出した。覚えてないことをうじうじ考えても仕方ない。家探しに集中しないといけないんだし、今は忘れよう、今は!

「え、綾さん十沢町の場所知ってるんですか……」

「綾!そっちじゃないよ!」

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