✽先輩
ヴェイグに行っている間、私はどうやら眠っているような状態になっているらしい。現実世界に帰ってきたとき、それなりに時間が経っているからだ。
経った時間は、ヴェイグの中で過ごした時間とはあまり一致しない。向こうにどれだけいても、目が覚めるのは決まって六時前だ。多分、半日いたとしても同じ時間に目が覚めるんだろうな。
夜になると私は、ベッドの上で膝を抱えて座り込む。こうして膝頭に顔を埋めると、視界が黒く染まって何もかもわからなくなり、すぐにヴェイグへ行けるのだ。
じわり、と意識が闇に溶け出すような感覚がはじまる。これが合図だ。
早く翔くんを助けないと――そう強く念じながら、私はふと事故の前の翔くんのことを思い出した。
うさぎ小屋の掃除を手伝ってくれた彼。
「あ、君……水森さんだったよね。ほら昨日の!橋月!」
「せ、先輩っ⁉」
その翌日に、通学路で声を掛けてくれたこと。
「掃除、大変だったでしょ。じゃんじゃん頼ってくれていいからね」
そう言って、ゆかりが惚れるのも納得のふわっと柔らかい笑みを見せる。目尻がくっと下がって、見方によってはちょっと泣きそうにも見える、不思議だけど綺麗な笑み。
当然ながらめちゃくちゃどぎまぎした。真っ赤になってえぐえぐと息を整えてからやっと話せるようになったくらいだ。
「い、あの、ほんとに昨日は助かりました……先輩は凄いです、知らない人でも息をするように助けられるなんて」
「美化し過ぎだよ。単に……大変そうだったから」
それに、と翔くんは少し目を逸らしながら付け加える。
「兎は好きだし」
「え、そうなんですか。ちょっと意外かも」
「そう?……そう言われたのは初めてだな。前の学校でも生物委員だったし。あ、僕、去年の冬くらいの転入生で、事情があったから特別に編入試験を受けさせてもらったんだけど」
「は、はあ……?」
突然の身の上話に戸惑う私に、翔くんは屈託なくにっと唇を吊り上げた。
「そこでは兎だけじゃなくて、羊なんかも飼ってたんだ」
「え、羊⁉奇遇ですね、私も小学生のとき学校で飼ってましたよ。しょっちゅう脱走する子でした」
「あはは、大変そうだ。世話はどうしてた?」
「全学年で。逃げたら皆で追っかけ回したんですよ。餌を校庭中にまきちらしながら」
「あれ。それ、どこかで読んだことがある。もしかして、何かの小説の方法を真似たんじゃない?」
「せ、正解です。図書室にあって。先輩も読んでましたか?私あれ大好きでっ」
「うん、読んでたよ。あれ続編あるって知ってた?こないだ市民図書館で見つけたんだけど」
「本当ですか⁉」
それから本の話で盛り上がって、いつの間にか翔くんとは普通に話せるようになっていた。とにかく趣味が合ったのだ。私の好きな本はたいてい翔くんも読んでいて、私の知らない情報まで付け加えてくれる。
そうだ……、事故の前、私は翔くんに本を貸してもらう約束があったのに。
「何の本かは秘密だよ」
翔くんはそう言って、目を細めた。いつもと違って静かな笑顔で、なぜだか少し寂しそうに見えたことを思い出す。諦めたときに出るような、ふっと軽く滲むような笑顔。
「来週持ってこようと思う。それまで待ってて」
「私の好きそうな本?」
首を傾げた。私はすでに翔くんと話すのに慣れていて、敬語が外れかけていた頃だった。
「翔くんが秘密主義になるなんて珍しい」
「きっと綾ちゃんも好きな本だと思うよ。もしかしたら、もう読んでるかもね」
「そっか、じゃあ、楽しみ」
「楽しみ?」
「うん。翔くんのお墨付き、ってことだから」
翔くんはそれを聞いて、息を吐くように笑った。
楽しみにしてて。
そう言った翔くんは、次の日、事故に遭った。
あの本は、一体何だったのかな。
「何だ、楽しみにしてたのに――」
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