☆蓮

 ああ、惜しいところで目が覚めちゃったな。

 学校に着くなり私は自分の席で何もせず、ただぼーっと目の前を眺めていた。

「おはよ、綾。……なに、元気なさそうね」

 そんな私にゆかりが声をかけてくれた。

 私はのろのろと顔を上げ、思わず辺りを見回す。

「あれ、今日、美雪は?」

 ゆかりといつも一緒の美雪が見当たらないのだ。

「吹奏楽部の朝練だって。昨日、大会が近いって言ってたじゃない?ピリピリしてた」

 あぁ……と私は頷く。朝練、ずいぶん長いことやってるんだな。比較的遅くに来る花矢さんが、既に登校しているくらいの時間帯だ。

「朝礼に間に合うといいけど」

「ね。それで、綾は?」

「私?……ううん、変な夢をみた」

「夢か。空飛ぶワニに食われそうになる夢?」

「な、なにそれ怖い……っ」

「美雪が見たって今朝言ってたの。もしかしてと思って言ってみたけど」

 心配だ……何か精神的に圧迫されているのかな。大丈夫か美雪。

「さすがにもうちょいましな夢だったよ。世話焼きな兎人間と中一の男の子とコーヒー牛乳を飲む夢」

「なにそれ、兎人間?謎じゃん」

 でしょ、と言って笑い合う。我ながら、変な夢としか言いようがない。

 ただ、家探しとは楽しそうだったな。どうせ今夜続きから夢が始まって、ヴェイグに行けるとしても、早く行ってみたいものは行ってみたい。

 とはいえ、ゆかりに「毎晩同じ夢を見て、案山子の翔くんを取り返そうとしている」とは言えないよな。不思議ちゃん扱いされること間違いなしだ。

 そこへ、ばたばたと走りながら美雪が飛び込んできた。同時にチャイムが鳴る。

「み、美雪、大丈夫?」

「はあ、はあ、……っ、朝礼、セーフ!?」

「セーフだよ。お疲れさま」

 私の言葉に、美雪は力なく「うん」と頷いた。そのままふらふらと席に戻ってしまう。

「やっぱり元気ないのかな……」

「気晴らしにどっか行けたら良いのにね。この三人で」

「三人で?」

 うん、とゆかりは当然のように頷く。それじゃまたあとで、と手を振るゆかりを見送りながら、私は純粋に嬉しかった。つい勝手に頬が緩んでしまう。

 もしも行けたら、二人にちゃんと楽しんでもらえるようにしなきゃ、と心に決める。


「じゃーねー、綾ー」

「あややんまた明日ー」

 その日の夕方のことだ。

「――水森さん」

 ゆかりたちを見送った直後、意外なことに花矢さんが彼女の方から私の席へやって来た。

 そろそろ夏だ。まだ日射しは厳しく教室を照らしている。日が長くなってきてるのかな。

「な、なんでしょう」

「父とは、本当に花矢信行のぶゆきのことなのでしょうか」

 またどつかれるのではと身構えつつ頷く。蛍石さんの本名が花矢信行であるということは、昨夜『ロータス』を出る前にこっそりと聞いておいたことだ。

「実は、行きつけの本屋で花矢さんのお父さんと知り合いっていう人に会ったんだよね。私、その人と仲良くてさ。同じ高校で同級生だって知って、お父さんに近況を知らせてあげたいって言われてこうしてお使いをしてるの」

 嘘です。全部でっち上げです。私に行きつけの本屋なんてありません。

 しかしそんなことはおくびにも出さず、私はさらさらと嘘をつく。これも蛍石さんの入れ知恵だ。

 なにか訊かれたらこう答えるように、と。下手に場所の名前でも言って、探しに来られたら困るんだろう。なにしろ普通の人には行けない場所にいるのだから。

 私は花矢さんの目をじっと見据える。彼女はそんな私を見返してかすかに眉をひそめた。

 流石に、信じてもらうには無理があったかな。

「べつに、信じないならそれでいいけど。私は単にお使いを頼まれただけだから」

 押して駄目なら引いてみな。私はわざと彼女から目線を外し、帰る準備を始める。

 花矢さんは暫くずっと眉をひそめたまま同じポーズで固まっていた。よいしょ、と私が通学鞄を背負ったところで、もう一度私を見詰める。

 表情の険は全く消えていなかった。

「なら、伝言を頼めますか」

「伝言?」

 こく、と花矢さんが頷く。

「”合言葉は?”――と」

 多分、私はその時嘘がバレないように必死で、会話に頭を全く使っていなかった。

 そのせいで、無意識に言ってしまったのだ。

「”蓮”じゃないの?それって」

 花矢さんの動きが止まる。唇がふるりと震えたが、何の言葉を生み出すこともできなかったようだ。

 ドン、と肩の辺りに痛みが走る。花矢さんの両腕が私に向かって真っ直ぐに伸びていた。ふらついた私に構わず彼女は脱兎のごとく教室から走り逃げた。

「……またか……」

 私はふうと息を吐く。何度私は花矢さんにどつかれれば気が済むのか。これが慣習になるのだけは本当に避けたいんだけど……。

 諦めて教室を出てぎょっとした。

 教室の扉の前で美雪が立ち竦んでいる。手ぶらなので楽譜でも取りに来たようだ。

「なな何今のっ⁉」

 おまけに……花矢さんの脱走を見ていたらしい。

「さ、さあ……急に走ってったからびっくりするよね」

 困った。どうしよう。花矢さんと話しているところを、見られたかもしれない!

 心臓が一瞬こわばり、冷たい針を含んだ血を吐き出す。私は脳みそをそれにぐさぐさと刺されながら意識して笑みを作った。指先が凍ったように震える。――どうしよう。花矢さんと仲良くしてると思われて、美雪に嫌われてしまったら。

 私は――。

 美雪は大きな目をこちらに向けた。人懐っこく細まる目は綺麗すぎて、本心が全く読めない。まるで隙がなく、作りものめいていて、……もしかしたら私は美雪の本心なんてこれっぽっちもわかっていないのかもしれない。

「ところで、美雪はどうしてここに?」

 うまい言い訳が思いつかず、私は話を変えた。

 お面があればどれほど楽だろう。ヴェイグでは意味なんて見出だせなかったのに、こちらでは喉から手が出るほど欲しいなんてずるい。

「忘れ物を取りに。部活ノート、机の中に入れっぱなしでさー」

「あ、じゃあ私が取ってくるよ」

 私はさっと美雪の机へ向かい、桜色のノートを取り出した。渡すと彼女はにかっと笑う。

 ――恩を売っておいて嫌われないようにする、なんて小汚い計算があるとは知らないで。

「ありがとー!じゃあちょっと、急ぐねー。遅れると先輩に怒られるからぁ……」

「うん。頑張ってね」

 美雪はひらりと軽く手を振り、すたすた歩いて行ってしまった。

 その背をなんとはなしに見送る。――そういえば、『ロータス』の合言葉である蓮は……花矢さんの下の名前であることに、私は今更気がついたのだった。

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