★つらら

「合言葉は?」

 カウンターから蛍石さんが声を掛ける。

 隙間が小さいせいでよく見えないけれど、彼は明らかにあたふたと周囲を見回した。どこかに合言葉が書かれているのでは、と探しているのかもしれない。この仕組、絶対面倒だと思うんだけど……。

「ああ、君も新入りか……ヒントは店名だ。それで合わせて」

 蛍石さんの言葉に、彼は空を仰ぐ。

「あっ……ああ、は、蓮、ですか?」

 意外と高い声だった。声変わり前みたいな。背は高く見えるんだけどな。

「はい、当たりです。――ユキタ、チェーン外してあげてくれませんか?今手が離せないので」

 ユキタが頷き、立ち上がってチェーンを外しに行く。

 現れたのは、まだ中一くらいの、大人しそうな男の子だった。

 茶色い髪に、少し怯えたような大きな黒目。背は多分私より高いけれど、翔くんよりは小さいかな。制服であろうシャツ姿で、びくびくとあたりを見回していた。

 ――警戒心の強い子熊みたいだな。

「君も、今日来たばかり?」

「は、はい。やっと人のいそうな場所を見つけて、駅から走ってきたんですけど……」

「そっか。じゃあ、綾と一緒だね」

 ユキタがこっちを見る。私に話が振られたので、立ち上がってお辞儀をした。

「はじめまして。綾です」

「あ、えっと、はい」

 こわばっていた彼の頬がふっと緩んだ。どうやら兎面に怯えていたらしい。兎人間と女子高生の組み合わせもどうかな……と私は苦笑いを浮かべた。

「安心していいよ。あの顔ただのお面だから」

「お面……」

「僕はユキタ。新入りだと慣れないことも多いでしょ?聞きたいことがあれば聞いて。一緒にコーヒーでも飲もう。蛍石さん、追加でもう一杯」

「はい、かしこまりました」

 ユキタは私に確認を取ってから、彼を私の前に座らせた。ユキタは席を移動し、私の斜め前で彼の横に座る。四人席でよかった。

 俯いてもじもじしている彼に、私はずばり尋ねる。

「君、お名前は?」

「あ、えっと……」

「本名が嫌ならあだ名でもいいよ」とユキタが助け船を出す。

「――つらら、といいます。中一です」

 意外と可愛い名前だ。

「なんて呼べば良い?」

「つららでいいです……あの、くん付けとかはなしで……慣れてないので」

 なるほど、と頷くと、そこで話が止まってしまった。私も人のことは言えないが彼――つららもあんまり話すのが得意じゃなさそうだ。つららは気まずげに首をすくめ、きょろきょろとまた辺りを見回した。

 ……なんか責められてる気分になる。私のほうが年上なのに――とりあえずカップで気まずい顔を隠してちらりと最年長者を伺うと、ユキタは感情の読めない赤い瞳で私達を見詰めていた。兎は肉食獣じゃないけど、無感動な目はこちらの動向を観察していつ狩ろうか見極めてるみたいでちょっと怖い。

「はい、ユキタ。コーヒー牛乳。それと……つらら、と言ったね?同じものだけど、どうぞ」

 救われた!蛍石さんがマグカップを二つ持ってきて二人の前に置く。

「ごゆっくり」

 にっこり笑った蛍石さんを、つららはじっと見送った。カウンターに戻るまで蛍石さんから目を離さないつららに、私は好機とばかりに声を掛ける。

「あの人は、店主の蛍石さんね。このコーヒー牛乳、めっちゃ美味しいんだよ?おすすめ。ね、ユキタ」

 ユキタは赤い瞳をいつものように柔らかくして「そうだね」と頷く。ほっとした。あんな怖い目をするユキタはらしくない。

「あ、ほんとだ、美味しい……!」

 一口飲んだつららがほわっと笑った。おお、笑うとまた印象が違う。やっぱりなんか男の子っていうか、目元が締まってきりりとするのだ。

「――それで?訊きたいことはなにかある?」

 兎人間のくせにやたらとカップの似合うユキタが話を振る。

「見た感じ、ここに戸惑ってるみたいだから。大抵のことなら答えられるよ」

「ありがとうございます……あの……そもそも、ここって、なんですか?」

 つららも緊張が解けてきたみたいだ。

「名前はヴェイグ。現実に居場所のない人が集まる世界ってとこかな」

  つららはヴェイグの地理に関することを訊いた。ユキタがそれに淀みなく答える。全部さっき私が駅で聞いたことだった。

 ユキタの声を聞き流しながら、カウンターに立つ蛍石さんの様子を眺める。

 花矢さんと親子だっていうけれど……父親の名前を出しただけで花矢さんは逃げたのだ。いつもあんなに底冷えするような雰囲気をまとう花矢さんが。

 どう考えても穏便に済まない気がする。

 でもだからといってやめるわけにはいかないし……次は逃さない手段を考えないとだな。

 蛍石さんは透明なグラスを拭いている。踏み込むな、と警告するようにそれが一瞬、ぎらりと瞬いた。

「綾はどうする?」

 突然ユキタの声が降ってきてぎくりとする。

「な、何が?ごめん、聞いてなかった」

「ヴェイグで家を探すかどうかの話ですよ!あぁ、ここって景色も綺麗だし、住めるなんて夢みたいです!」

 私にとっては本当に夢なんだけどな、と苦笑する。つららはここが気に入ったようだ。

「ていうか、家?どういうこと?」

「ほんとに話聞いてなかったんだね……」

「う、うるさいなぁ」

 兎の口がにっと笑ったように見えた。もう一度言うけど、とその口から声が響く。

「ここに暮らすかどうか、ってこと。僕もあまり詳しくは聞いてない……覚えてないんだけど……」

「わたしが説明しましょうか」

 口ごもるユキタを見かねたのか、蛍石さんがカウンターから声を掛ける。

「お二人は、南側に十沢町があるのをご存知ですよね?そこは住宅街ですので、ヴェイグに住むおつもりでしたら、そこの家を見に行ってひとつ決めないといけないんです。まぁ……わたしのように、住み込みで店をやりたいと思うなら、絶対に十沢町に住まなければいけないという訳でもありませんが」

「蛍石さんは、ここに住んで店をやってるんですね」

 つららが小さく呟く。

「わたしは……まだヴェイグのルールが確立していない時代にここに来ましたから。かなり大きな土地を頂けましたし、二階に住んでしまえばいいか、と」

「そんなに……カフェの仕事は楽しいですか?」

 蛍石さんは苦笑する。

「そうですね。わたしの場合、他にやれることがないだけなのですが」

「つらら、カフェに興味あるの?」

 私が訊くと、つららはうーんと唸る。

「楽しそうだとは思うんですけど、ぼく料理できないですし……」

「本当にやりたいなら、わたしの弟子にして教えてあげてもいいのですが。せっかくここに来たのなら、したいことをするべきですよ。何となく、ではなく。そうでなければ勿体ないです」

「ぼくは……」

 そう言われたつららは、少し俯いて考え込む。

「……まずは、家を探して落ち着こうかなと思います。何をしたいかは、その後に考えたい、かな」

「それが一番だね」

 ユキタは頷き、ついで私の方を向く。

「綾はどうしたい?つららはここに住むつもりみたいだけど」

「私っ?」

 急じゃない?何も考えていなかったから、私はとりあえず話の矛先を変えてみる。

「そういうユキタこそどうするの」

「僕?僕は……家は持たないでいようと思ってる。どうせ夜も滅多に来ないし、一定の場所にいなくてもいいらしいから。それに……」

 そこで、私にだけ聞こえるように声を落とす。

「いざ元に戻るとき、どうしていいか分からなくなるでしょ」

「そっかぁ……」

「綾は、ずっとここにいようと思う?」

 ユキタに真っ直ぐそう訊かれ、私は少し黙ってしまった。

 ……ずっといることのできるところだと、考えたこともなかった。私にとってここは、夜の眠れない間だけ来られる場所だし、何より、翔くんを助けるための手がかりであるだけなんだから。

「……もう少し、様子を見る。私は翔くんを助けたくてここにいるんだから、その後のことは……よくわかんないし」

 現時点ではそれしか言えない。要するにユキタについていくということだ。

 当のユキタは、それを聞いて何も言わずコーヒー牛乳を飲み干した。

「――そっか」

 変な間があった。なんだろう。私は少し身を乗り出してユキタに耳打ちする。

「ユキタ、本当に現実に帰る気ある?」

「そりゃああるよ。でも、ヴェイグに来る人はきっとこれからもいるに決まってるでしょ?僕は何故かここのことを詳しく教えられたから……手助けするべきでしょ」

 絶句した。まさかと思って聞いてみたけど、本当にそうだとは思わなかった。

「ユキタは……親切というか、世話焼き?」

「ちっ……ちが、だってなんていうか……そうだ、初めてこっちで会ったとき、記憶がない状態で綾に色々説明してたでしょ?あのとき、何となくだけど、ずっと前からような気がしたんだよ。周りからもユキタがいれば心配ないとか言われてるし……」

 お面屋さんの言ったことを気にしてるのか。私は小さくため息をつく。

「自分だって万全じゃないくせに……蛍石さんの話聞いてた?」

「綾に言われたくない」

 ユキタはふいと横を向いた。何となく兎の頬が膨れている気がする。

「そのへんは置いといて、綾。まずはつららの家探しだ」

「はい!ぼく楽しみです!ユキタさん‼」

 私の不満はつゆ知らず、つららはコーヒー牛乳を飲み干して目一杯瞳を輝かせた。

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