★蛍石さん

「は……」

 合言葉⁉

 慌てて翔くんを振り向くが、彼も同じく戸惑っているみたいだった。兎耳が伸びたり折れたりしているのだ。

 ――と、そのとき、男性がすぅと近づいてきた。

「あぁ、何だ、ユキタじゃないか」

 そしてそんな事を言う。染み込んでくるカフェオレの甘みみたいな、落ち着いた声だった。

 私で隠れていた翔くんが、このタイミングで見えたみたいだ。

「……翔くん、知り合いの方?」

「さあ……」

 しかも翔くんは覚えてないらしい。ていうか、翔くんって有名人なの?

「ユキタならいいよ。ああ、ということは、お連れの女の子は新入りだね?」

 男性と、扉を挟んで向かいあう。白髪ならぬ灰髪の彼は四十代くらいで、シックな銀眼鏡を掛けていた。彼は私を安心させるような静かな笑みを浮かべる。

「ユキタがいるから心配はしてないけど、新入りなら戸惑うことも多いでしょう。折角だからヒントをあげます」

「ヒント……あ、合言葉の」

「そう。一度しか言いませんからね、ヒントは、店名です」

 店名……ロータスか。

 訳せ……ってこと?訳は何だっけ……あ。

「もしかして。『蓮』、じゃないですか?」

 この間ちらっと見ていた英和辞典で見覚えがあったのだ。

 翔くんが私の顔を覗き込む。

「綾って頭良いよね。英語に詳しいし」

「そんなことないよ!」

 灰髪の男性と向き直ると、彼は少し目を瞠り、それから歯を見せて笑った。さっきまでの雰囲気とはすこし違い、ちょっと驚く。

「ご名答。入店を許可します」

 そして、ドアチェーンを取り外した。

「今更ですが、わたしの名前は蛍石ほたるいし。このカフェの店主です。店名のわからない人は、入店させないようにしていましてね」

「どうしてですか?お客さんが集まらなくなるかもしれないのに」

「集めなくてもいいからですよ」

「あ、そうか……」

 お金が要らないから、食べていけるか心配しなくていいのか。慣れないな……。

 おかげでこんな変わった店に出会えるのだ。私と翔くんは蛍石さんに促され、店の奥の方の四人席に座る。カウンター席以外は全部四人席で、私達以外にお客さんはいない。

 内装もまたお洒落だった。木目の見える壁に大きな窓。天井は高くそこから大小も長さもばらばらな電灯が暖かい光を放って垂れ下がっている。それがまるで星座のように見えて、お店全体をお洒落に見せてしまうという不思議。

 惚れ惚れする私に、「ご注文は?」と声がかかる。思わず翔くんの方を見た。翔くんが頷いたので、カウンターに立つ蛍石さんに向き直る。

「あの、ここへ来たのは注文じゃなくて、話をするためなんです」

「――話?」

 何かにお湯を注いでいる蛍石さんが顔を上げずに言う。手元はカウンターに並ぶコーヒー豆の袋で隠れて見えない。今更ながら店内に香ばしい匂いが流れていることに気付く。

「畑の案山子のことです」

「案山子?それはまた急に……なにか不都合でも?」

「あれ、私に譲ってくれませんか」

 蛍石さんは少しだけ笑った。

 それから両手にマグカップを持って、私達の席に歩み寄る。

「どうしてまた?農業でも始めるつもりですか」

「違います。……あの案山子、私の友達で」

「友達?」

 うう、うまく言えない。蛍石さんはずっと微笑んでいる。……からかわれてるのかな。本心なのかよく判らない。

「まぁ、コーヒーでも飲みながらゆっくり話してください」

 そう言って私達の前にマグカップを置く。

「わ、ホットコーヒー」

 淹れたてだ。さっきお湯を注いでいたのはこれだったのか。

「それで、案山子の友達っていうのは?」

「あ……えっと」

「彼女の友達が、現実世界で事故に遭って身体だけここに来てしまったそうです。それがあの案山子、ということですよ」

 翔くんがコーヒーを啜りながらさらりと言ってくれた。お面つけてるのにコーヒー飲めるのか。

 ていうか、と、友達って……。

 少し黙った蛍石さんが、つと私の方を見る。

「あれ、つい二十三時間前くらいに買って設置したばかりなんですけどね……君、名前は?ってあれ、どうされました、顔が赤いですよ」

「な、何でもありません。私は綾です!」

 確かに顔は赤いと思う。自分が最初に言ったとはいえ、あんなにさらっと友達と言われると、流石に照れるよ……。

「そ、それより。あの案山子はどこで買ったんですか?」

「買ってはいないですがね」蛍石さんはふわりと笑う。「貸出屋さんに案山子を頼んでいたんですよ。うちは料理も出しますが、食材なんて売ってないので全部自家製ですからね。この世界にも鳥はいますから、案山子がいないと困るわけです」

「丁寧に説明ありがとうございます」

「いいえ。この店を訪れる人は新入りの人も多いので、説明は慣れたものなんですよ。ともかく、先代の案山子がので、貸出屋さんに注文しまして。今日届いたものを設置したばかりというのが現状です。お友達ということも知らなかった」

 そして、こんな事も言った。

「最近はユキタも見当たらなかったから、貸出屋に頼むしかなかったんですよね」

「えっ?……っと、さっきから訊きたかったんですけど、ユキタとは、知り合い?」

 ぱっと翔くん――ユキタの方を見ると、その耳がわずかに左に傾いていた。黙っているのからして、どうやら戸惑っているらしい。あぁ、面倒だから、兎面のときの翔くんのことはユキタと呼ぼう。

「そうですよ。ねえ?ユキタ」と蛍石さん。

 しかしユキタはカップを置き、しゅんと耳を垂らす。

「……ごめんなさい。僕、ずっと黙ってたけど」


「どうやら僕、記憶喪失みたいで……」


 飲もうと思ったコーヒーを噴き出しかけた。

 なにそれ⁉これまで普通に私と話してたのに、記憶喪失?嘘でしょ!

 蛍石さんも目を見開く。ユキタは、噎せる私を気遣いつつ話した。

「高校の時の記憶はあるんだけど、それ以前のことはどうやら覚えてないみたいで。自分が誰かとかは、流石に分かってたから、あんまり気にしてなかったんだ……最初からヴェイグにいるような気がしていたし。ほら、最初に綾と電車の中で会ったでしょ?あのときは、綾が誰かも分かってなかったんだ。綾が案山子を見て飛び出したのを追いかけてるうちに、だんだん綾が誰なのか、高校で何してたとかぼんやり思い出せたんだけど……」

「それじゃ、高校に入る前のことは覚えてないの?」

 ユキタは頷く。まさか私のことまで分からなかったなんて。

「そういうことはもっと早く言ってよ!よく私と普通に話せてたね⁉」

「綾と話す分には、ちゃんと記憶があったから……ヴェイグの人たちがみんな僕のことを知ってるみたいに話しかけてきてはじめて、おかしい、何か忘れてるんだって気付いたんだからしょうがないでしょ」

「ユキタって高校生なんだ……てっきり二十代くらいだとばかり」

「蛍石さん……驚くのそこですか?」

「だって、ユキタはわたしより長くここにいますからね。綾さんは知らなくて当然ですけど……」

 ていうか、と私は身を乗り出す。

「それってあの事故のせい?――あっ」

 ――しまった。蛍石さんの前で事故のことを言ってしまった。

「……すみません。聞いてしまいました」

「ユキタごめん……!」

 どうやら蛍石さんは、今の一言で案山子の正体が誰だか分かってしまったみたいだ。頭良いなぁ……必死で謝る私に、ユキタは右耳を少し折って、気にしないでと言う。優しい。

「綾の言う通り、多分事故のせいだと思う。だから、ごめんなさい、蛍石さんのことも全く思い出せないんです」

 蛍石さんは笑みの形を保ったまま、少しだけ眉を下げた。

 寂しそうに見えた。ふたりは仲良しだったのだろうな。

 そう思うときゅっと胸が締まった。

 あのとき私が、早く車に気付いていたなら――

「もう、綾、変な顔しないでよ」

「ご、ごめん」

 私はごしごしと手首で目元を拭う。ユキタは心配そうに、私の手首にぷつりとついた涙を拭った。

「でも、ユキタだって現実で中学高校にも行ってたはずでしょう?私みたいに、昼と夜で分けてここにいたのかな。蛍石さん、ユキタ、透けたりしたことありましたか?」

「透けたりは……してなかったですね。わたしも古株ですけど、ユキタはそれ以上で、ずっとヴェイグにいましたよ。運び屋をしていて、手に入りづらいものはユキタに頼めば何でも手に入るって評判でした」

「……そういえば、蛍石さんも透けてないですね」

「お店をやってると大多数の人を相手にしますから。特定の人との居場所を持たないので、透けないことが多いのですよ」

 それに、と蛍石さんは首を傾げる。

「今聞いた感じですと、綾さんは昼か夜にだけヴェイグにいるんですよね?そういった事例はあまり聞きません。あっても最初だけです。ここに呼ばれる人々は、最初は夢としてヴェイグを認識しますからね」

「夢……」

 ――今の私と同じ。

 少しだけ胸が騒ぐ。

 ……いい、今はユキタのこと。ずっとユキタがヴェイグにいたとはどういうことなんだろう。

 翔くんの中学時代は知らないけど、学校には通ってただろうし。ヴェイグに住んでたわけじゃないだろうけど……でも、蛍石さんが言うにはそうも思える。

 もしそうなら、わざわざ現実に戻ってきたのはどうして?

 ユキタが覚えてないみたいだし、私も訳が分からなくなって頭が熱い。とりあえず後で考えることにしよう。そのときには翔くんも記憶が戻ってるかもしれないし。

 気を取り直して、私は蛍石さんの方を向く。

「……という訳で、案山子を私に譲ってほしいんです。今あの身体は行方不明ってことになっていて、現実に帰したいので」

 蛍石さんは私に目を向け、少しだけくしゃりと笑む。多分不惑くらいのお年だけど、その顔はちょっとどきっとするような、悪戯っぽい笑顔だった。若いときは美男子だったんだろうな……。

「わたしも、案山子がないと困りますからね……あ」

 ぽーっとしていた私に、こんな事を言った。

「案山子の代わりに、頼みを聞いてもらえますか?」

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