★ヴェイグ
「っはぁ、はぁ、はぁ……」
恐怖で息を切らし、へたり込む私とは違い、翔くんは涼しい顔で私の背中をさすっている。
「手荒な逃げ方でごめんね。少しでも遅れたら、身ぐるみ剥がされると思って……怪我はない?」
「はぁ、うん、大丈夫……何なの、ここの人たちは……っ、何であんなに現ナマに執着するの⁉」
まだ右手に持っていた一万円札を、ぶるぶるする手でなんとか束の中に戻す。
左手には、黒猫のお面を持ったままだ。
「あぁあ、このお面、どうしよ」
「貰っておけばいいよ。どうせここにはお金がないらしいし」
私はふっと顔を上げる。周りに誰もいないからか、翔くんはお面を外していた。
「……お金が、ないの?なら、私の一億円は」
「一億円⁉」その綺麗な瞳が見開かれ、はぁ、と小さく溜息を零す。「……そんなに持ってるなら、先に言ってもらわないと」
「仕方ないじゃん、お金がないなんて思わないでしょ」
私が腕を組むと、翔くんは「それもそうか……」と少し笑った。
「そのことも、教えられてたの?」
「そうだね。この世界にはお金が存在しない。だからその分、――何でか知らないけど、現ナマに対する執着は凄まじい。綾も、盗まれないように気をつけたほうがいい。さっきので分かったと思うけど、現ナマ、って口に出すのも危ない」
「それは……嫌というほど分かった、けど。お金なくて生きていけるの?」
「うん。そうなるような仕組みになってるんだってさ。現に、駅に改札はなかったでしょ?食べ物も、別に食べなくても普通に生きられるようになってる」
「へぇ……」
改札がないのは、そもそもお金がないからなのか。
「じゃあ、利益とか考えなくていいし、自分のしたいこと何でもできるんだね」
私が呟くと、翔くんは頷く。
「そういうことになるね。大抵のことは、
「いや……」
思わず目を逸らす。絵を描きたい、なんて、いま私のせいで身体を失ってしまっている翔くんの前では絶対に言えない。
でも、と私は無理矢理に思考をそこから引き剥がす。
お金がないのに、現ナマには異常に執着するなんて……変な世界だなぁ。線引がよく分からない。
「そういえば、この世界この世界……って、ここには名前がないの?」
思いついてそう言うと、翔くんははっと口に手を当てた。
「……そうだ。言うの忘れてた」
一拍置いて翔くんはそう呟く。
「忘れちゃ駄目でしょ!」
「だ、だって色々あったし……僕も混乱してたし!しくじった……一番最初に教えてもらったのに……」
翔くんが申し訳無さげにうなだれるので、なんだかこちらがいたたまれなくなってくる。
「もういいよ、とりあえず教えて?」
頷いて、翔くんが口を開く。
「この世界の名前は、”ヴェイグ”だ」
vague――ヴェイグ。曖昧な。ぼんやりした。そういう意味だったはず。
「その単語、こないだ英語の授業に出てきたな……曖昧、みたいな意味だっけ?この世界、曖昧だからそんな名前なの?綺麗な名前だと思うけど……」
不安になり訊くと、翔くんはぽかんと口を開けて、そのあと、どこか嬉しそうに柔らかく笑った。
「――そういうことかな。僕もそう思うよ」
「じゃあ、計画の第一段階に進もう。この畑の持ち主の所に行こうか」
ということで、私達は畑をぐるっと回って、近くにあった建物の前に立った。
「洒落てる……食事が要らないのに、現実より洒落た店があっていいの⁉」
「はは、その分変わった店が多いんだけど」
木造の、めちゃくちゃお洒落なお店――それもカフェのようだ。こういうとこゆかりたちと前行った。
黒い看板には『カフェ lotus』と流れるような筆記体で白く彫られている。ロータス……意味は何だっけ。
翔くんはすでにしっかりと兎面を装着している。そしてその顔のままこちらを見詰めた。
赤い眼に射抜かれ、ぎくりとする。
「一つ言っておくけど、ここでの僕は”ユキタ”だからね。橋月翔ではなくて」
「え……何で?あだ名じゃん、それ」
「ここは、居場所のない人が訪れる世界だよ。素顔も素性も知られたくない人たちばかりだ。綾も気にするならあだ名を作りなよ」
「うーん……」私は眉を寄せる。私はお面もつける気はないのだ。黒猫の面は、大量の札束とともに私のリュックの中で揺られている。
「私はいいかな。現実と混ざりそうだし。ていうか、ユキタって何が由来なの?」
「ええ……」
翔くんは少し頬を掻く。
「……べつに、何となく、だけど。口からついて出てきたと言うか」
「そうなの?」
「なに」
「もうちょっとなんかあると思った」
まあいいや、と私は気を取り直す。
「じゃあ、ユキタと、綾、ね!」
いざ直談判!
私は勇んで、入口の扉を開いた。
ちりり、と可愛いドアベルが鳴る。が。
中に入ろうとした私を、開けたはずの扉ががったんと阻んだ。
「んなっ」
何事⁉よく見ると、ドアと壁の間に細く……ドアチェーンが掛かってる!
「なにこれ!扉は開くのに入らせたくないのか!」
「あははっ」
叫ぶ私を翔くんは爆笑する。ひどい。少し開いた扉の隙間に真っ直ぐ掛かるチェーンはきらりと輝く。
「――いらっしゃいませ」
「うぉぅっ」
ぎくりとする。急に声だ。
ドアチェーンの向こうで、灰色の髪の男性がこちらを見詰めていた。
固まる私に、そのまま彼はにこりと優しく笑いかける。そして言った。
「――合言葉を述べよ」
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