☆日常
「――や、あや、綾!」
はっと気が付いた。
瞼を上げれば、眉根を寄せて心配そうにこちらを見るお母さんと目が合う。
「……お母さん」
「よかった、起きた」とほっと息を吐く。
「どうしたの?」
起き上がって訊いた。私、何か心配されるようなことしたっけ?
「どうしたって、珍しく部屋から出てこないから見に来てみたら、急に寝てるんだもの。何かあったかと心配するわよ……ただ寝てるだけみたいでよかったけど」
「あー……」
そういえば昨日、睡眠薬で無理矢理寝たんだっけ。何か変な夢を見ていた気がする。
ユキタ……とかいう兎人間と、透明人間の夢。
「……ごめん。昨日、睡眠薬を飲んだの」
無意識に指をいじっていた。ぎゅっと拳を握って膝の上に置く。
お母さんは、少しだけ目を眇めた。
「そう……体調に変わりはない? でも……」
「大丈夫」
不安そうに言い淀むお母さんに、私は笑みを見せて立ち上がる。
「起こしてくれてありがと。早く準備しないと遅れるよね」
「綾ー、大丈夫か?」
玄関からお父さんの声が聞こえてきた。
うん、と私は頷いて、部屋から顔を出して声を掛けた。いつもお父さんの朝は早いのだ。
「大丈夫ー、心配かけてごめん!」
「本当だな? 父さん行ってくるよ」
「行ってらっしゃい!」
さあ、いつもの朝だ。うっかり沈みそうになる気持ちに発破をかけて、私は意識して笑顔を作る。
少し遠回りをしたせいで、学校に着くのはちょっと遅れてしまった。教室に入ると、またゆかりが怪訝そうにしつつも声を掛けてくれる。
「おはよ。今日も遅め? 大丈夫?」
「うん、偶然偶然。大丈夫」
事故現場の道に、どうしても行けなかっただけだ。
まだ――あまりにも、怖くて。
「お、あややんやっと来たー」
美雪もやってくる。
「何の話してたの?」と私。
「昨日の事故のことだよー。あややんも興味あるよね?」
笑みが固まりそうになった。
「……そういえば、昨日の夜にニュース記事で見たかも」
「ねー! 行方不明なんだって。本当かなー」
「でもどこ行ったんだろうね……ちょっと心配」
と、美雪はころころ笑い、ゆかりは顎に手を添えて首を傾げる。
なんとか話を続けた私の不自然さには気づかなかったようだ。笑顔の形の頬が、地味に痛む。
「ゆかりはお人好しだなー! そいつゆかりを振ったんでしょ? いくら先輩としても許せないよね。なんて言われたんだっけ?」
「ごめん、僕は君のことあまり知らないから、ってさ。もう諦めたからいいんだけどね。私としてはもう吹っ切れてるし」
「なにそれ、なら知れよってことだよねー。ゆかりが気にしてないからいいとして、せめて何も知らないで振ってくんなっての――」
「うるさい」
一言。美雪を止める静かな声がした。
見ると、やっぱりまた花矢さんだった。席が近かったせいで耳障りだったんだろう。
私達が黙ったのを無表情な目でじっと見詰め、彼女は本を読みはじめる。星空の綺麗な表紙の小説だった。
少しばかりほっとする。やっと、翔くんへの悪口が止まってくれた。
「何なの急にー」
「向こうで喋ろう美雪、綾」
あんなふうに、私も二人を止められたらいいと思う。一言。見事な一閃だった。
けど、怖い。そうした後二人になんて言われるかわからない。特に美雪だ。
「行こー、あややん」
美雪に嫌われたら……何ていうか、永久に嫌われてしまいそうだ。ゆかりはクールな人だから分からないけれど、美雪の今の様子を見ていれば、行き着く先は嫌でもわかってしまう。
嫌われたくない。他に居場所もないのに……それが、怖い。
「綾?」
はっとした。
ゆかりが心配そうに私を見ていた。
今日は……色んな人にそんな顔をさせてしまう。
じくり、と胸の奥で痛みを噛み殺して、私はゆっくりと笑みを浮かべてみせる。
「ごめん。寝不足でぼーっとしてたよ」
「もー、大丈夫なのほんとに?」
「ごめんごめん、それより昨日のドラマさ――」
楽しいんだ。あんな悪口みたいな雰囲気じゃなければ。
そう、言い訳をして、二人を止められない私が嫌いだ。嫌われるのを気にして、曖昧に笑ってしまう私が嫌い。
花矢さんのことも、嫌ってなきゃいけない。二人に反抗するのはリスクが高すぎる。
本当は、嫌ってるように見えてなきゃいけないのだ。どれだけ――なんでもないように悪口を止めてしまう花矢さんが格好よくて、憧れていても。
今の笑顔は偽物じゃない。
それなのに、いやに緊張するのはどうしてだろう。
鬱々とした気持ちのまま、夜になってしまった。
「今日は、睡眠薬使えないんだよね」
呟いて冷えた水を飲むと、キンとこめかみが痛む。ぞっと悪寒がしてくしゃみが出た。
「やば、また風邪かな」
私はスケッチブックを抱えて布団に潜り込む。
薄い灯りの中で、私はシャーペンの炭素を紙に擦り付ける。
昨日みたいにパニックにならないための苦肉の策だ。なにかしていないと、どうしても事故のことを思い出してしまう。
とはいえ、絵を描くなんて随分久し振りだ。
小学生くらいのときは、よく描いてたんだけどな。好きだったけど、いつからか自分の画力に自信がなくなって、もう描かなくなっていた。
描くのは、昨日の夢に出てきた兎人間――ユキタだ。
意外とふわふわしている白い毛並みを、うまく再現できていると思う。白兎らしく、瞳は赤だ。
影をつけていると、何となくユキタが浮かび上がってきて見えた。つぶらな瞳が輝き、毛並みが風になびきだす。
あれ、おかしいな。私は眠れないはずで、これは夢のはずないんだけど……?
「ね。言ったでしょ。眠れなくても来られるって」
ユキタの独特の柔らかい声がする。
「……ユキタ?」
緩くくくっていた髪が解け、パジャマからワンピースに服が変わる。
ユキタを中心に水彩画の絵の具が広がるように、あの電車の景色が色づいていく……。
昨夜の夢が、眼前にぶわりと広がっていった。
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