★電車

 頭の片隅に残る、淡い淡い記憶。

 暗闇に射し込む無数の光のように、碧い銀河が私達を見下ろしている。

「忘れないで、綾ちゃん。ここは、世界の果てなんだ」

 ああ、夢が覚める。これ以上覚えてない――



 ふっと気がついた。

 電車の中だ。

 どうやら私は眠っていたらしい。久し振りの感覚に顔を上げれば、朝日に染められ黄金に輝く街並みが、走行中の車窓から見える。

 ふ、と軽く笑い、私は暫く先程の記憶の残滓に思いを馳せた。座席の端に座って伸びをしつつ。

 世界の果てにまつわる記憶だ。

 小二くらいの頃だろうか、私は、を見たのだ。

 今ではもう名前も顔も思い出せない、誰か――大人の男の人に、しっかりと手を引かれ、私はその光景を目の当たりにした。

 視界は隅々まで黒く、明かりひとつない。そんな中で、異様なほど激しく煌めく、青い青い星空――そんな場所を。

 あれは何だったんだろう……どこへ行けば、もう一度見られるんだろうか。もちろん少しは知識もついて、世界の果てなんてものがないことは嫌というほど知っている。どこで星空を見上げても、あの夢のような景色には敵わなかったことも。

 それでも、あの人はあの場所を、世界の果てだと言ってくれたんだ。

 もう一度だけでいい。もう一度、あれを見られたら。もう一度、あの人に会えたなら――

 そこで我に返った。

 気がついてみれば、私は休日に着るような薄桃色のワンピースを着ている。外出するときには必ず雑に結うはずの明るい茶髪はほどかれて、くしゅくしゅにねじれたまま垂れ下がっていた。

 おまけに、たまにしか使わない茶色のリュックを抱きしめている。めちゃくちゃ大事なのだ。ここにはが入っているのだから。

「……これ」

 そこまで考えて、私はふはりと笑った。

「夢だな」

 確実に夢だ。こんなめちゃめちゃな状況は。

 髪を解いて外出することなんてあるはずない。ついでに何なんだ、現ナマって……普通にお金、現金でいいじゃない。

 リュックを持ち上げればずっしりと重い。もしかしたら札束かもしれないな。いくらあるんだろ。

 と、そのとき、電車が突然止まった。

 すぐにぷしゅーと扉が開き、何人かの乗客がするすると降りて行く。

 そうだ、駅名は何だろうか。少し身を乗り出して見ると、……なにこれ。『とんぼのとちゅう駅』とあった。何でひらがななんだ。

 確かに車窓の景色にはトンボが飛んでるけど。というかこの電車、どこまで行くんだろうか。

 少し考える。横を見れば俯いた三十代くらいの女性がいる。訊いてみようかな。普段なら訊かないけど、どうせ夢だし。

「――あの」

 声を発した瞬間、びくんと彼女は顔を上げた。

「教えてもらえませんか? この電車はどこまで行くんでしょう」

 すると、女の人は変な反応をした。

 視線を彷徨わせると、露骨に目を逸らしたのだ。

「……え。いや」

 覗き込むと、彼女はぐいーんと体ごとそっぽを向く。いやいやいや。

「え、あの、すみません?」

 私なにかやばいこと言ったっけ?もう女の人は体がよじれそうなほど私から明らかに逃げている。なんでだ。

「あの、ほんと、教えてもらうだけなんで!」

 ほとんど必死になって叫んだ。となれば彼女も必死で身をよじる。もうこれはいたちごっこじゃないか。

「どこへ行くかだけでいいですから――」


「多分その人、答えないよ」


 さらりとした、柔らかい声がした。

 扉の閉まる音がする。見ると、そこに――

 兎の耳をつけ、兎の顔をした人間がいた。

「ぎゃぁあああっ」

 不覚にも座ったまま腰を抜かしてしまった。

 何こいつ⁉ 首から下は普通の人間なのに、頭は全部兎、それも白兎なんだけど⁉

 いやにリアルだ。めっちゃ怖い……服装は至って普通の黒のパーカーのフードを外した姿だから、余計に怖い……兎なのか人間なのかはっきりしてほしい……。

「驚いた?」

 しかしそいつは平然として話しかけてくる。ともかく駅に出て逃げられないかなと思ったけれど、すでに電車は走り出した後だった。逃げ道を塞がれた……。

「安心して。これはお面だから」

 とそいつが言うので見てみれば、確かに喋るとき兎の口が動いていない。兎耳の説明はつかないけれど……そうだ、これ、私の夢なんだった。

 夢ならば怖いことはない。なんでもありだ。ただの私の妄想なんだから……よし、落ち着こう。

 居すまいを正して兎人間と向き合う。不思議そうに耳をぴくんと折るそいつに、こちらから話しかけてみる。

「分かった。私は綾、君は?」

「僕はユキタ。カタカナでユキタ、でいいよ」

「僕、てことは男の人なんだね」

「そう。ていうか同年代だけど……急にしゃきっとしてどうしたの?」

「だって夢だから」

 あ、言ってしまった。夢の中の人にこれは夢だ、なんて言ったら怒られてしまいそうだ。

「……夢?」

 しかしそいつ――ユキタのお面の表情は変わらない。ユキタ……雪うさぎみたいなのが由来なのかな。

 首を傾げるユキタは微妙に怖いけれど、どうやら怒っている訳でもなさそうだ。そうなるとつい言い募ってしまう。

「珍しいよね。私は眠れないから、久し振りに寝たと思ったらこんな夢を見てるなんて……」

「眠れない?」

「私、不眠症だから」

 予想外に柔らかい返事だったせいで、思わずぽろりと零してしまった。

 まぁいいよね、夢だから。

「一年くらい前から、もうずっと眠れない。その分寝なくても何でか元気だし、あんまり害はないかなと思うんだけどね」

 すると、ユキタの耳がぴんと伸びる。

「そっか。……なるほど、それで夢だね」

「どういう意味?」

「おいおい話すよ。それより、隣の人を見て。僕と話したから見えるはずだけど」

 意味が分からない……と思いつつ言われた通りにさっきの女の人を見ると――

「ひぃっ」

 なんと半透明になっていた。他の周りの人たちもだ。透けて電車の座席が見えるくらいである。やっぱりめっちゃ怖いんだけど……⁉ なんで今日に限ってこんな悪夢なの!

「どういうこと⁉」

 少し用心してユキタの方を見る――がしかし、ユキタだけは透明になっていなかった。何だか拍子抜けな感じ。

「その人、ここに居場所があるんだよ。居場所を得た人は、それを失いたくないから他の人と話そうとしないんだ。余計なつながりを増やして居場所を無くさないために」

「は、あの?何の話?」

「そういう人は半透明に見えるんだけど。僕はこっちの住人だから、僕と話したことで君もこの世界に認識されて、ここの人と同じ視界になったってことかな。つまり、この世界にいられる人に選ばれたんだよ。おめでとう」

「はあ、どうも……」

 もう少し分かる言葉で言ってくれ、兎人間……。

 ともかくユキタと話したせいでこうなったようだ。私も無茶苦茶な夢を見るのだなあ……。

 なんて思っていたら、ユキタがずいっと近づいてきた。

「それ怖いよユキタ」

「解ってないよね、綾ちゃん」

「あう……」

 見抜かれていたらしい。無様にも目を逸らす私を見て、ユキタがふと笑うのが聞こえた。顔が見えない分、笑っているのが分かりづらい。

 そして、ユキタはこんな事を言った。

「ここを夢だと思ってるなら、きっと明日の夢にもここが出てくるよ」

 私は眉を寄せる。

「……どういう意味?私、不眠症なんだよ。睡眠薬がないと眠れないのに……というか、使うのも制限されてて、明日は寝れるはずないんだけど」

「眠れないから、ここに来るんだ」

 ますます訳が分からない。「もう少し詳しく言ってくれない?」とかなり大きな声で言ったけれど、もう何故かユキタには聞こえていないようだった。無視かも。そんなら無視するな。

「ほら、目が覚めるでしょ――」

 そんな柔らかい声が耳元でふわりと溶ける。気がつけば視界は白みがかっていて、あっという間に電車もユキタもまるごと白に呑まれてゆく。

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