第一章 ヴェイグ

☆最悪の日

「――ぁぁあああ‼」

 甲高くタイヤの擦れる音が響く。いやだ……っ、思わず手を伸ばした瞬間、少し先にいたはずの、見慣れた華奢な体が黒い車に吹き飛ばされる――

しょうくん、翔くんッ‼」

 どごんっ、と総毛立つような鈍い音が、耳に、届いて――。

「いやあああああ」

 目の前で、車が家の塀にぶつかって止まる。私はふらりとよろめいて、その場にぺしゃんと尻餅をついた。

 左肩が痛い。さっき、翔くんに突き飛ばされたからだ。やけに熱く感じる肩に手を当てる。

 ……助かった。助けられた。私は死んでない。

 ――でも、翔くんは?

「翔くんっ」

 車が邪魔で翔くんがどうなったか見えない。呼びかけるも、返ってくる声はない。

 いや、そんなはずない、翔くんが、そんな――。

 不安にかられて車の下を覗き込む。道路に手をついて、ぬるりとしたものに触れたのが分かった。

 違う、絶対に違う、見ちゃいけない――見たら後戻りできなくなる。そう分かってるのに、私は震える掌に目を落とす。

「っぁぁあああっ」

 手のひらにべっとりとついていたのは、暗く赤黒い――血、だ。

「いやだ……っ、やだよ翔くん‼」

 うるさい。自分の声のせいで頭がくらくらする。

 通勤通学中の人たちが何事かと集まってきて、辺りは段々騒がしくなってくる。それでも私は、へたり込んでしまって、その場を動くことができなかった――。



 翔くんと出会ったのは、花崎はなさき高校に入って五日目のことだった。

 その日の放課後、私は初めての生物委員の仕事を一人でしていた。理由は簡単、二人組のはずの委員会の仕事に、相手の人が来なかったからだ。

 うちの学校ではうさぎを飼っていて、私はひとり黙々とうさぎ小屋の掃除をしていたのだけれど。

「あれ。君、生物委員の人だよね?」

 そう言って、声を掛けてくれたのが翔くん――橋月はしづき翔くん、だったのだ。

「は……橋月先輩」

 入学して五日も経っていない私でも知っていた。私のひとつ上、高二で、同じ委員会の先輩だ。顔合わせのときに初めて見て、同級生たちが「イケメン!」と騒いでいたから記憶に残っている。確かに間近で見ると、黒く少しふわふわした髪や透けた焦げ茶の瞳が格好いいと思う。

 そんな彼は一人でいる私を見て、何も言わず「じゃあ僕、手伝うよ」と言ってくれたのだ。

 それから三ヶ月、家も近いと判り、時々一緒に登校したり、仲良くさせてもらっていたのだ。

「先輩だなんてなんか恥ずかしいな。翔だけでいいよ。この際敬語もやめたら?水森みずもりさんらしくない」

「あ、じゃあ、私のことも綾って呼んでください!」

 という訳で、先輩なのに翔くん呼びだ。少し照れる。

 だけどこれは、クラスの友達には秘密にしないといけない。こんな事がバレたら、イケメン好きの皆にタダじゃおかれないだろうからなぁ……。

 なんて思いながら、今日も、道の途中で翔くんに会ったのに……まさかこんなことになるなんて。

 住宅地から大通りに出る道で、彼は車に轢かれたのだ。それも、私を庇って。突き飛ばして。



 事故の後、私は来てくれた警察の人と少しだけ話をしてから、学校に向かうことになった。

 私はかすり傷一つなく、無事だったからだ。休んでもいいとは言われたのだけれど、まだ登校時間には間に合うし。

 私は足早にその場から離れる。怖くて、車の方は見られなかった。

「んっ、んんっ」

 どうしてもふらついてしまう足をしっかりさせようと咳払いする。さっき叫びすぎたせいで喉ががらがらだ。

 事故の原因は、運転手の居眠り運転だったらしい。私にとっては朝っぱらから居眠りできる事自体が羨ましいんだけどな。

 でも、翔くんは――私を庇って。車が。道路に広がった、赤黒い血溜まりが――

「あああああ、もう駄目だ……っ」

 まなうらの残像が怖くて、前髪をぐしゃりと掴み頭を振った。適当に結んだ癖毛が頬に当たって痛い。

 さっきからずっとふらふらしている。ふらふらするのはいつものことだけど、それにも増して頭が痛いのだ。

 どうか……翔くんが無事でありますように。

 拭いきれない血の感触に蓋をしながら、私は祈らずにはいられなかった。

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