第8話 2人目:犬人の水術士

 目の前に現れた獣人は全身が灰色の毛皮で覆われており、ピンと尖った口吻マズルの先端で黒く艶やかな鼻がかすかに動いている。背は俺よりも高く、体もがっしりしている。女のようだった。


「どうも。ちょっと祠が気になって。」

 俺がそう言うと、獣人は口を開けてうれしそうな顔をした。

「町中にあるリナーリルの祠は珍しいんですよね...。だいたい寂しい場所とか森の奥なので。」

「リナーリル…っていうと…?」

「えっ?」

 獣人が不思議そうな顔をした。空想郷では常識なのかもしれない。


「俺、ここに来たばっかりの転生者なんですよ。まだあんまり色々わからなくて。」

「あーッ!転生者の人なんだ…!へぇぇ…!」

 獣人はキラキラした目で俺をじっくりと眺めはじめた。残念ながら俺には、羨望できるようなものは何もないのだが。


「実は…」と俺は事の顛末とやるせない現状を話した。


 獣人はウェノラと名乗った。彼女は犬人マルマリと呼ばれる種族だった。

 リナーリルは女神の名前で、ウェノラはリナーリルを信奉する魔術師だったのだ。


 しばらく話をして色々なことを教えてもらっていると、ウェノラの口から意外な申し出が飛び出た。

「良かったら…一緒にダンジョン、行きますか?」


「でも俺、何もクラスが無いですよ?」

「まぁ、たぶん大丈夫です。二人でさっと入って金目のものだけ取ってすぐ帰れば…。」

「そんな感じでもアリなんですか?もっとこう、怪物とガンガン戦ったりだと思ったけど。」

「それはそうなんですけど、戦いを避けながら潜るスタイルの人もいるんです。魔法で気配を消したりとかして。わたしも、少しだけどそういう魔法が使えますよ!」

 ウェノラはちょっと誇らしげに言った。


「でもなんで一緒に行ってくれるんですか?足手まといにしかならないと思うけど。人助け?」

 俺はちょっと不安だった。こいつは詐欺師とか追い剥ぎかもしれない、という思いがよぎったのだ。なんせいきなりスリに遭ったからな。


「人助け…かもしれないですねぇ。わたしの仕えるリナーリルは雨と水の神だけど、放浪の神でもあるんです。彼女のしもべは水のように流れることを好み…成り行きに身を任せる、というか。そういうところがあります。他の神々みたいにしっかりした教団も神官団も神殿もなくて、信徒はゆるやかにつながってる感じ。居心地がいいんですよねぇ。」

「神殿がないってことは、こういう祠があるだけ?」

「あ、はい。そうです。大昔は神殿もあったらしいんですけど、リナーリルがすべて成るがままに、というご性格なので、壊れたものはほったらかし、朽ちるに任せるという感じで。この祠もボロボロでしょう?」


 ウェノラが言う通り、石の祠も女神の小像も苔むして荒れ、ヒビや欠けが目立つ。

「掃除とか修復しないんですよ、わたしたち。ちょっとかわいい神様ですよね。」

 かわいいというのはよくわからないが、彼女が自分の神に愛着を持っているのは伝わってくる。


「で、その神様が、俺をダンジョンに連れてってくれることと何の関係が?」

「これも貴重な出会いですよ。あなたが朽ちたリナーリルの祠に目を留めて、わたしと出会ったのもひとつの成り行き。水のように流れてみようかなと思って。」


 ウェノラの真意はよくつかめなかったが、彼女から害意を感じなかったのは事実だ。信じてみてもいいと思った。どうせ行き詰っているのだ。

「じゃあ、水術を教えてくれるんですか?」

「あー…いや、それはすぐには難しいかなぁ。やっぱり魔法書を読み込んだりしないといけないんですよ。」

「やっぱり簡単にはダメか。でもすごいな、相当修業したんでしょう?」

 ウェノラは薄い白っぽい服に緑色のケープを羽織り、長い木の杖を持っていた。首にはカニを象ったペンダントを着けていたし、なんだか強い魔術師といった佇まいだったのだ。


「あー…恥ずかしんだけど、実はそれほどでもないんですよね。初歩の術しか使えなくて…。ほんとはもっと魔法書を買って勉強しなきゃいけないんだけど…。」

「だけど…?」

「気づくと推し冒険者のグッズとかを買っちゃってて…財布が空なんですよ。」

 ウェノラはそう言って、へらへら笑った。


 俺は少し心配になった。

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