第14話 下拵え

「まずは木を見て、爪痕を探すのを手伝ってほしいでござる」


 外に出た二人は小次郎の指示に従って、ヒグマが残した爪痕を探す。

 小次郎としては元々はカムイから逃げるために教えられた知識だったが、それが逆に役に立ったわけだ。

 普段屋敷を囲む森の中には人間が入ることがない。

 屋敷内への物品の搬入や出入りは全て地下通路を使っているため、地上は屋敷の周囲を離れれば完全に野生動物の住処である。

 そのためか、目当てであるヒグマの爪痕もフェイトが思うよりも簡単に見つけることができた。

 いつヒグマが出てもいいように、フェイトもハンマーを出そうとしたのだが、小次郎はそれを制する。


「待つでござる」

「何故? ヒグマが近いのに、身構えないのは危険ですよ」

「野生の獣……とくに猛獣は殺気に敏感でござる。ヒグマもそうとは限りませぬが、カムイならば今のでも警戒して隠れるでござる」


 フェイトも身構えて注意をはらいこそすれ、殺気立っていたつもりはない。

 それでもダメだと語る小次郎の気は殺気などなく、むしろ枯れ枝のような静けさをしていた。

 流石はアイジーでも神に近いと呼ばれた料理人ということか。

 フェイトも真似して闘争心を極力消すことに努めて、小次郎とともに一本の木となる。

 その状態でゆっくりと進んでいくと、目当てであるヒグマがそこにいた。


「ぐ、ぐるああああ!」


 歩くときに踏みしめた地面に潜っていた枝が折れる。

 その音と視界に入ったフェイトたちをみたヒグマは声を上げて立ち上がった。

 眼の前にいる二人を餌だと思ったのか。

 それとも敵と認識して立ち向かおうとしているのか。

 どちらにせよ、ヒグマは二人にその爪を立てようと腕を振りかぶる。

 今度こそ応戦しなければいけないと考えたフェイトは咄嗟に「盾」を出してヒグマの攻撃を防ごうとする。

 だが小次郎は気配もなく前に踏み出しており、「盾」を出したときには早くもヒグマの後ろに回り込んでいた。

 彼にとってヒグマは気絶させる必要すらないのかもしれない。

 フェイトもそれなりに戦闘には自信があるのだが、もし正面から小次郎と戦えば勝てるかは怪しい。

 そう肌で感じたときには、小次郎は既に抜刀した大太刀でヒグマの首を落としていた。

 分厚い毛皮をも一気に断ち切ることができたのは、刀の切れ味や重さもあるが、一番の要因は小次郎の振るう刃筋の良さだろう。


「どれだけ硬いものでも、極論を言えば刃筋さえ乱さなければ切断できる」


 とは、フェイトも刀鍛冶であるおじいちゃんによく聞かされていた。

 それをヒグマという動く相手に軽々とこなす小次郎の剣の腕は相当高いようだ。


「無事でござるか?」

「ええ。小次郎さんがいとも簡単に倒してしまったので、盾を出す必要すらなかったようですね」

「とんでもない。拙者も無我夢中で挑みかかっただけで、フェイトどのには容易く見えたとしても、それは錯覚に過ぎませぬ。その証拠に気が動転して、気あたりで動きを封じることもしなかったでござるし」

「そうですか。逆にカムイと比べればヒグマ程度、小技に頼るまでもないという余裕だったのかと思いましたよ」

「いやあ、あはは」


 彼自身の申告に従うのなら、小次郎にとってはヒグマは焦るほどの相手だったらしい。

 焦った理由が相手の強さではなく、彼の心持ちだということにフェイトは気づいていないのだが、小次郎自身はわかっているため二の舞いを踏むまいと心に刻んだ。


「とりあえずこの獲物を屋敷に運びましょう」


 血抜きをして重さが多少減ったとはいえ、流石にヒグマの巨体を一人で運ぶのは一苦労。

 そこでフェイトは屋敷から男手を呼んで、皆で担いで屋敷に中にまで運び入れた。

 執事の案内でヒグマを調理場に運び入れると、予め用意されていた吊るしのフックに体をくくりつける。

 高いところから吊るされた大柄のヒグマは、もう息の根が止まっているのを理解していても迫力充分だ。


「これだけの目掛を吊り下げてもビクともしないこの天井……ここまで頑丈だとは、便利な機械よりも拙者には驚きでござるよ」

「たしかに山人国には鉄筋コンクリートなんてありませんからね」

「拙者にはそれがどのようなモノかはわかりませぬが、ともかくこれで面倒な仕掛けは自作せずに済むでござる」


 そろそろ調理に入るのだろう。

 小次郎は幅の広い中華包丁を取り出すと、空に投げた人参を試し切りして状態を確かめた。

 さっさっと軽く振り回した包丁の軌道を通過した人参は飾り切りにされており、浮かび上がった優しげな女性の顔は小次郎の器用さを物語る。


「お上手ですね」


 その顔がまさか自分のこととは思わないフェイトは純粋に彼を褒めて、彼はそれに頬を赤らめた。


「これは料理の腕前には直結しない曲芸に過ぎないでござる。だがしかし……この切れ味ならば、研ぎ直しは必要ないでござろう。下がっていてくだされ、フェイトどの。及川どのがご所望の活け造りでは、拙者も包丁を振り回す故、近づくと危険でござる」

「わ、わかりました」


 近づくなと言うだけのことはあろう。

 ヒグマを相手にして、殺気を一つも建てずに大太刀で仕留めた小次郎から漂う気迫に、フェイトの背筋が凍りつく。

 殺気とはまた違う強力なプレッシャー。

 神に近いと呼ばれた料理人の本気とはこれほど凄まじいのか。


「では……始めるでござる」


 だらりと脱力したのは加速の前の貯め。

 そこから腕をしなるように振るって包丁を振り回し始めた小次郎の周りはさながら刃の嵐である。

 まずは分厚い毛を少しずつそいでいき、泥と刈った毛を弾き飛ばしていく。

 ハラハラと毛が落ちていき、毛穴に詰まった汚れまでこそぎ落とされた。

 瞬く間に裸にされたヒグマ。

 だがまだこれでは不完全であり、活け造りの作業は続いていく。


「柳葉を取ってはもらえぬか?」


 毛の処理はここまでなのだろう。

 フェイトから柳葉包丁を差し出された小次郎は、先程とは一転して静かにヒグマに刃を当て始めた。

 毛を処理した熊肉から汚れなどを完全に落とすため、一度流水をかけた熊の表皮を柳刃で削いでいく。

 フェイトはこれが正しい熊肉の処理なのか知らぬまま、只々その技量に感服して眺めるだけである。

 時間はかかったが表皮の処理も終わり、あとは切り分けて調理するだけ。

 内蔵肉はまた別の処理が必要であろうが、活け造りに使う筋肉部分が仕上がるのはもうすぐだ。

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