第15話 お節介
表面の処理が終わったところで、小次郎が切り出したのはヒグマのもも肉。
熊の部位の中ではキメが細かく柔らかいとされる部位だ。
サク取りが終わったもも肉のブロックをまな板においた小次郎は肉の表面と包丁を水で濡らすと、風切り音を立てながら薄く切りつけた。
(冷気?)
見物していたフェイトが寒気を感じるほどに、熊の肉を刺し身にし始めてから、台所には冷気が満ち始める。
原理は気化熱の応用とは思われるが詳細は不明。
一種の魔法の域にある小次郎の包丁術により、熊のもも肉は一瞬で凍結するとともに、ほどなく自然解凍されていた。
これにより雑菌や寄生虫は一瞬のうちに処理されて、そのままでも食べられる状態となる。
一種のルイベに近いにだが、肉質はほとんど生という点がルイベと異なっていた。
「あとはこのタレを」
肉の切りつけが終わり、最後に小次郎が用意したのは刺し身につける特製のタレ。
血抜きした際に採集した血をベースにしたもので、そこに薬味と茨城県産の醤油を混ぜたものだ。
一先ず及川が所望した刺し身は完成したので、小次郎はそれを真っ先にフェイトに振る舞う。
フェイト的には熊肉自体が食べたことがないのに、出された小皿には生の刺し身が盛られている。
本当に美味しいのかすら疑う食べ慣れていないモノだが、とりあえず小皿を受け取って箸を持つと、彼女の鼻孔を淫靡な薫りが刺激した。
麻薬に引き寄せられるように伸びた箸が肉を掴み、フェイトは流れるように一切れを一口で啄む。
(噛むと口の中で溶ける?)
秘包丁で切られた熊肉には隠し包丁も入っていたようだ。
もきゅりと噛みしめると細かくほどけた肉片が口の中で溶けていき、フェイトの口の中には強烈なうま味だけが余韻として残った。
あまりのうまさに媚薬の効果でもあるのか。
小次郎に対してフェイトは不意にときめいてしまう。
それだけこの刺し身はうまい。
「美味しいです」
「お口に合ってよかった。これなら及川どのも喜んで貰えそうだ」
早速大皿に盛り付けた小次郎はフェイトを連れて及川のベッドに向かった。
味見をした余韻で少し顔が赤らんでいるフェイトと艶のある顔をした小次郎。
二人の様子を邪推しつつも、それならば満足がいくモノを用意したと納得した彼は受け取った刺し身を早速食べる。
「これはうまい。わしが求めていたモノよりもうまいかもしれん」
「満足していただけたのならば良かったでござる。しかし拙者の仕事もこれで終わり。さりとて山人国にも帰れる道理もないし、そもそもフェイトどのの妖術がなければ帰り道もわからない。いかんせんどうしたものか」
「そうじゃな」
小次郎と及川はわざとらしくフェイトを見る。
小次郎は行く宛がないのでフェイトのところで世話になれないかと考えてのも。
そして及川は本当ならばこのままずっと小次郎を自分の専属料理人にするつもりで呼んだわけなのだが、彼がそこまでフェイトにぞっこんの様子ならば自分のところに引き止められないと考えての目線だ。
及川も政界のフィクサーなどと呼ばれたりもしており、知らない人間からは悪党扱いもされるのだが、彼は本質的にはお人好しである。
それ故に小次郎がフェイトのことを好きであるならば、彼を全力で応援しようと思っていた。
お題はこの刺し身だけで充分。
もう自分はいつ死んでも構わないと。
だが──
「その心配はありませんよ。元より及川さんは貴方を専属料理人として雇うために呼んだと伺っています。今回の料理も最優先の依頼というだけで、今後も専属料理人を続けてもらえばいいでしょう。ですよね、及川さん」
フェイトも雰囲気を読んで小次郎の身柄を引き受けるであろう。
あの雌の顔は味見をしたときに小次郎に惚れているに違いない。
そんな思い違いをした及川に対して、フェイトは当初の取り決めを真顔で追従してきた。
「ちょ、ちょっと」
「なんでしょう?」
驚いた及川はフェイトを呼んで耳打ちをする。
「キミは小次郎くんと離れ離れになっても良いのか? わしが彼を独占して、若い二人の恋路を邪魔するのは無粋な話だと思うし、身を引くつもりなのじゃが」
それに対してのフェイトの返しは、及川の想定を外れていた。
「まさか、料理が上手だという理由だけで、会ったばかりの小次郎さんを好きになったりましませんよ。漫画じゃあるまいし」
「しかし……さっきのあの顔は……」
「及川さんの勘違いでしょう。そもそも私には好きな人が居ますので、彼を裏切るようなことは出来ませんよ」
どちらかといえば及川が勘違いをしているだけで、フェイトの反応の方が常識的と言える。
だがあのときのフェイトは小次郎の料理という魔法にかかりかけていたので、及川の目を節穴と言うのもまた酷な話であろう。
残業もここまでと言うことで、ほどなくして及川の屋敷を出たフェイトと残された二人。
告白する前に振られた小次郎と、勝手に応援したのが余計なお世話だった及川。
お互いに気まずさも残しつつも、とりあえず小次郎は当初の及川の予定通りに、このまま彼の専属料理人として働くことになった。
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