夏の華のせい

 澄み渡る水面みなもに飛び込めば、瞬時に火照った身体が冷えていく。

 だがそこに心地良さはなく、ただ悲しみが涙となって溶け広がるのみ。

 水面に浮かべば、澄み渡る青空に浮かぶ白い鱗雲が目に映る。

 耳を浸せば、街の喧騒も遠くなり、心も独りの世界に浸される。

 このまま世界が終われば良いのに、私は目を瞑りそう願う。

 ああ、全てを出し尽くした私は、まるで役目を終えた夏の精。

 伽藍堂となった私は、夏の残滓に沈み泡となって消えゆくのだ。

 いざさらば、また会う日まで――


「……何してんの?」


 詮無い妄想を止めて目を開けば、そこには私を見下ろす男。親の次くらいにはよく見た馴染みの顔。


「分からない?」

「制服でプールにダイブする妙チキ女子高生の気持ちなんて、普通は分からん。てかもう九月末だし風邪ひくぞ?」

「ふんだ、妙チキで悪かったわね。今年は海にも行けなかったし、ここで静かに夏の終わりをうれえてんのよ。邪魔しないでちょうだい、シッシッ」


 今の私は夏の精。独りで感傷に浸りたいの。

 そうして私は再び顔を沈め始めるが……


「……冬真とうま先輩にコクって玉砕したからではなく?」

「なっ、ななな、なんで秋空あきらが知ってんのよ!?」


 思いがけない言葉に慌てて顔を上げることとなった。

 この男、どうしても非情な現実に引き戻したいらしい。恨めしや。


「いやまぁ、本人から聞いた?」

「ぐにゅぅ……」


 意地の悪い人ね。よりにもよって秋空に言わなくてもいいのに。からかわれるのがオチだわ。

 それで秋空の知る通り、つい先ほど私は、仲の良い水泳部の先輩に思い切って告白した。すると「残念……いやもう本当に残念なのだが、その申し出は受けられない。物事には順序というものがある。キミはまずこの一夏の気の迷いを捨てて素直になりたまえ。それでもまだが巡るというのであれば、その幸運を甘受しようではないか」と、良く分からない断り文句でフラれてしまったのだ。冬真先輩はいつも不思議なことを言う少々変わった人で、そこがまた魅力的であったりもするけれど……周りは困らされるのが常であり、現にこうして困らされた私は単独着衣水泳大会を開催中。


「で、さっそく私をからかいにきたってわけね? ――ってかあんた、良く見たら汗だくじゃないの……普通そんなに走ってまで煽りに来るかしらぁ?」

「あ、いや、溺れ――はしないか。ただ……フラれたくらいで、そんな気を落とすなよ……なんて、な……」


 秋空はそっぽを向いて頬を掻きつつ、消え入りそうな声でそう呟く。


「え……なによ、ひょっとして慰めてくれてるの? あんたらしくない事するわね。熱でもあるんじゃ? 水かけよっか?」

「うっせぇよ! ったく可愛くねぇヤツだな!?」


 秋空はバカでガサツで唐変木なぽんぽこぴーだけど、実はものすごく優しい人……これだけ長い付き合いになれば色々あったし、もちろん知っている。だから心配して来てくれたのは分かっているけれど、彼にはこうしていつもいつも悪態をいてしまう。ああ、本当に可愛くない。


「こんな女、フラれて当然だよね……」

「いやまあ……妙チキで可愛くなくても、そこを気に入ってくれる男もいると思うぞ?」

「ふーん。それでまさか、オレだぁ、とか言い出すんじゃないわよね? あはは」

「……」

「ちょっとぉ、何とか言いなさいよ! 私がスベったみたいになってるじゃない」


 これまで何かの拍子にこういう雰囲気になったことはあるが、どちらからともなく誤魔化してきた。私達の間には似合わない、そういった暗黙の了解がいつの間にか出来ていたのだ。


「なっ、夏華なつか!」

「は、はい」


 突然真面目な声で名前を呼ばれ、かしこまってしまった。

 さらに秋空は、口元をギュッと引き締めて叫ぶ。


「オレはずっと前から夏華が好きだ!」

「ちょ、なに、こんな時に冗談――」


 だめよ夏華。

 本当は分かっていたんでしょ、先輩の言葉の意味。

 いつまで可愛くない女でいるつもり?

 意固地な夏華は水底に捨てなさい!

 私は夏の残滓に身を沈め、覚悟を決めて浮き上がると、


「――うん。私もよ、秋空!」


 胸の前で両手を組んでハッキリと告げた。

 すると、長年押し留められていた何かが熱い涙となって湧き上がり、頬を伝って水面へと零れ落ちた。

 ああ、私はこんなにも……先輩には本当に悪いことをしちゃったわ。後でお詫びとお礼を言わなきゃ。


「…………いつから?」

「ん、中一くらいかな」

「はぁ……ならもっと早く言いなさいよ、フラれ損じゃない。秋空はほんと素直じゃないわ」


 でも照れ隠しの悪態まで零してしまうのは、どうか許して欲しい。


「いや、そりゃお互い様だろ? あと玉砕は自業自得だから!」

「むぅっ! どうせ夏華のせいですよ、そんなの知ってるわよ! ばーかばーか!」


 私は再び水面に身を沈め、水底で火照った顔を冷ます。

 先ほどとは違って実に清々しい、まさに生まれ変わった心地だ。

 さあ、浮かべば秋の空が待っている。

 その時は、少しだけ素直な私でおあいしましょう。

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