第一章 五人のこども(二回め)

2.「でも、やっぱり死んじゃダメだよ、お兄ちゃん?」

「お兄ちゃんっ、起きて。朝だよー」


 という声が聞こえる。

 いやいや、そんな、ありえない。いくら人生には三つの坂があるっつったって、これはない。とある朝、世界一きゃわわな妹が兄を起こしにくるなんてシチュエーションがわが身に降りかかる、だとを? すでに七周半まわってすっかり衰退したといわれようが、これが全宇宙のダメ兄の夢とロマンと希望と山椒は小粒でもピリリと辛い(意味不明)であることに変わりはないだろを。


「ねーえ、お兄ちゃーん、聞こえてるー、きーこーえーてーまーしゅーかぁー?」


 うはっ、サ行がいえてないよ、この妹。おれと三つしか年齢が離れていないにもかかわらず。あざといなあ、あじゃとしゅぎゅる。

 でも、そーいえばそうだった、こいつはこんなしゃべりかたをしていた。ひさしく聞いていなかったからすっかり忘却の彼方だったけど、これはまぎれもなくわが妹の声。


 すると、どういうことになるのかな。


「ムニャムニャ、もおちょっとお、あと五分だけ、寝させてくれえ」


「しゅかたないなー、五分は無理だけど、五秒なら寝ててもいーよ?」


「ありがたきしゅわわわ、Zzz」


「いーちっ、にーいっ、さーんっ、よーんっ、ごっ。ハイッ、時間でぇーしゅっ」


「――あとろくじゅーせっと、えんちょーで」


「ダメでぇーしゅ。起きて起きて。じゃないとくしゅぐっちゃうぞっ」


「むしろそれはごほうび」


「あ、起きた」


「しまっ」


 た、ついガバッとふとんを押しのけて起っきっきしちまったぜ。ここで「どこが?」などという無意識(またの名をリビドー)のツッコミが聞こえてきたら末期症状だけど、あいにくと、じゃねえよっ、さいわいにもおれはそうじゃない。


 ふとんとともにガバッとかっ開いたまぶたの向こうに拡がっていたのは、懐かしいわが家の光景。おれの部屋、正確にはおれと父親の共有部屋だ。だもんでこの室内に満ちるニオイは野郎くさい。しかもばっちり加齢臭が混じっている。このニオイは嗅ぎまちがえようがない。ぜひとももう一回嗅ぎたかったとはいわないけど、正直、わずかばかりのノスタルジーを懐いてしまったのは、妹には決していえない秘密だ。


「どったの?」


 ほとんどおれの視界を蔽うようにわが妹の顔面がまぢかに迫る。その顔だちは城下でいちばんの美少女、とはいえないものの、間違いなくわが家でいちばんの美少女だ(ちなみにおれんちの女性陣は妹と母さんのふたりきりです。ツンデレ幼なじみとか空から落ちてきたいわくつきの女の子とかがちゃっかり居候していたりとかはしません、あしからず)。

 この距離感。これもまた涙がでるほど懐かしいネ!


「なんでしょんなオバケでも見たみたいな表情カオ浮かべてんの?」


「なあ、妹よ」


「なあに、お兄ちゃん?」


「きょうに限ってどうして起こしにきたの、いつもは起こしてくれないよね?」


「やっぱりわしゅれてるぅ」


「忘れてる? 何を」


「王しゃま」


「王さま?」


「うん。お呼ばれしゅてるんでしょお? だからお母さんが起こしゅてきなしゃいって」


「それは、つまり、アレかな、魔王を倒してくれたごほうびとしてわが姫を嫁に、とかそういったたぐいの?」


「ああん? 何いってんだろ、この人類ヒトは」


 最愛の妹に、ロシアの美少女のごとき冷たい目であきれられた!


「デスよねー。魔王と相打ちしたのち、勇者だけがばばんっと復活!、なぁーんてご都合主義イマドキあったりしませんよねー。知ってた。ええ、知ってましたとも、この兄は。そーはいっても何ごとも検証してみないことには真実には到れんというのもまた事実ではあるまいと?」


「あっ、もしゅかしゅて夢見てたん? この惑星ほしを救う夢! なあんだ、意外とやる気まんまんじゃーん、最後が相打ちってのもなんだかお兄ちゃんらしー」


「控えめなんですよ、きみの兄は」


「でも、やっぱり死んじゃダメだよ、お兄ちゃん?」


 珍しくシリアスなわが妹の表情に、おれの心臓ハートは窃かに大ダメージを受けた。

 よしッ、これでモチベーションは再充填された。勇者たる者、妹の頬を涙で濡らしてはいけないのだ、これがどんな奇蹟、はたまたやくたいもない呪詛の結果であろうとも、やりなおしの機会が与えられたことを、いまは素直に歓びたい。




 とある朝、世界一きゃわわな妹が兄を起こしにくるなんてシチュエーションがわが身に降りかかったことは、何もこれがはじめてってわけじゃない。


 かつて一度だけ経験したことがある。


 そのときのことをおれはハッキリと憶えてる、おれの海馬や大脳新皮質はどうだか知らんけど。ひとつだけ確かなことは、わが妹のほうは何も憶えていないということだ、当たり前だ。彼女にとってはこれがはじめてなんだから。


 ようするに、そーゆーこった。

 いやいや、どーゆーこっちゃか、細部まで突きつめようとすればおれにもちんぷんかんぷんなわけだけど、逆にひと言ですませようとすればこれほど簡単なこともない。


 すなわち、ふりだしに戻る、だ。


 ところが話はそこまで単純じゃないことは、わが家から一歩足を踏みだしたところで判明した。おれの記憶が正しければ、この旅立ちの朝、おれは妹とのあまあまタイム(個人の感想です)を優先させたあまり、約束の時間ギリギリになって王さまの許に参上つかまつることになるわけだけど、それというのもわが家から王都アフラのお城までは毎日愛犬の散歩を欠かさないトップブリーダーのワン・チャン氏(仮名です)の健脚でも三〇分以上かかるからで、家をでた時点ですでに約束の時間まで三〇分を切っていた、だから記憶の中のおれはその道程をほとんど全編全速力で駆けぬけたのだ。おかげで謁見中、吐き気を抑えるのに必死で、ひと言もしゃべることができなかった、端から見れば緊張のあまりムッツリしていたようにしか見えなかったかもしれないが、実はそういった裏の事情があったんですよ?


 同じようにおれは全力で走った。

 いや、走ろうとした。が、できなかった。一歩めを踏みだしたところで、通りの向かいで自宅の前を掃除していた顔見知りのニカイドウーの奥さん(新婚三箇月)と、あわやごっつんこするのを回避しなければならない事態に陥る。


「まあ! 気をつけてよ、ナキリ。きょうは大事な日でしょ?」


「ええ、ごめんなすって。すっとこどっこい」


「すっとこどっこい、って。相変わらずヘンなことばを使う子ねえ。どこの方言?」


 ふう、あっぶねあぶね。

 危うく昼下がりのよろめき劇場が幕を開けかねないところだった。あの奥さんは美人だけど、おれの好みは断然、食パン銜えた同い年くらいの転校生だ。


 ちがう、そうじゃない。このちいさな一歩から始まるストーリーは、まったくべつのジャンルに属していなければならぬ。何がおかしいのかといえば、最初の一歩だ。ここは当然、ちいさな一歩じゃなくちゃいけない。そっから始まって、みぢかなものだと晩ごはんのお使い、おおきいところじゃ国家転覆の阻止まで、大小さまざまな困難クエストをえっちらおっちら乗り越えて、振りかえればいままで誰も見たことのないジャイアント・ステップスを踏んでいた、というのが理想である。


 だってのに、おれときたら。


 今度は慎重に第二歩めを刻む。

 身体感覚としておかしなところは何もない。今朝妹に起こされる前の、すなわち魔王との戦いから引き継がれた記憶上の、と同じ動きをしていれば齟齬は生じない。おれの膝やおれの足くびは、マスターであるおれの脳の命令を素直に受けいれてくれ、行きたいところへ、どこまでも瞬時におれを運んでくれる。およそ三年近くにおよんだ冒険の賜物だ。


 だが、理屈として、というより物理的にこれはおかしい。

 魔王を倒す旅に出発する直前の時点で、おれはピッチピチの十代半ば、成長期のまっただなかにいた。仮に旅にでることがなかったとしても、三年もあればネコも杓子も成長しようってもんだ。成長とひと言でいっても、おれがいましているのは知識とか経験みたいな抽象的な話じゃない、もっと単純で、誰の目にも明らかな、身長や体格のことをいっている。


 三年前のおれは、きのうのおれよりちびで痩せっぽっちだった。


 これは厳然たる事実だ。

 だから、そのつもりで最初の一歩を踏みだした。あの頃の歩幅はこんなもんだろうから、せっかくだし景気づけにちょっと大袈裟にしておいてもいいのかな、ってつもりで。


 そしたらアレだ。

 学園ラブコメだ。

 いや、学園ラブコメは端からおれの願望だ。


 ともかく、知識や経験の引き継ぎであれば超理論として受けいれ可能である、アカシックレコードだかなんだかに保存されてでもいるんだろう。でも、この見ためと行動の結果の乖離はどうやって説明すればいいんだ?


 考えているうちにお城に到着、しかも約束の時間の一〇分前に。いうまでもないことだけど、おれは息切れひとつしちゃいなかった。

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