第4話 記憶
夕夏は過去にたった一度だけ、橙に叱られたことを思い出した。
塾があったのにもかかわらず、橙の家で一緒に遊んでいたからである。彼の家に母親からそこにいないか電話が入り、あっさり発覚したのだ。
夕夏はばれてしまったことにおどけて笑ってみせた。すると叱られた。
――ねえ夕ちゃん。やんなきゃいけないことをやらないで、やりたいことをしにくるのはいいよ。でもね、そのせいで誰かを困らせるのはダメだ。悲しませる嘘は絶対についちゃいけない。
普段と違う声のトーンに、にこにことしていた夕夏も次第にこれは怒られているんだと自覚し始めた。そして泣いた。
――とお兄に嫌われてしまった。私は悪いことをしたんだ。
泣きじゃくる夕夏の頭に、橙は手を乗せた。
――夕ちゃんは優しいから大丈夫。いつでも待ってるからね、またおいで。
頭のてっぺんから伝う、温かみのある何か。
気づけば涙は止まっていた。
「よーし、これから二丁目だ! 一丁目はスムーズにクリアできたから、ここで躓かないように行こう」
「あんなのおままごとにもなりやしねえ。もうちょい早くできないもんかねぇ」
割れた海に現れた扉の向こうは薄暗い通路だった。カメリアは首を鳴らしながら気だるそうに言う。
「この無駄に長い通路を走ればね」
「クソが! 誰だよ二丁目の前にこんな道作ったバカは!?」
慌てて走るぞ! と叫びカメリアは橙を追い抜いた。
「ちょっとカメリアっち先走りすぎ~! 待ってよ~!」
「……おーい、リーダーは僕なんだがー」
橙は前を行く二人に嘆息しつつも、ゆっくりと走り出した。
「ふふ、皆さんはりきってますね」
「…………」
「夕夏さん?」
「――ん?」
「泣いてるんですか?」
「えっ、ううん! なんでもないよ! なんでも!」
「なんでもなかったら泣いてないでしょうに」
「ほんと気にしないで! ちょっと昔のこと思い出しちゃっただけだから」
「昔、ですか」
「……あ、ごめんね」
「いいんです。仕方のないことなので」
紅々町に迷い込んできた者は、次第に元いた世界の記憶をなくしていく。まだここに来て二日の夕夏にはその実感がなかった。こうして昔の記憶が不意に蘇ってくるのだから、まだ記憶をなくしてはいないのだろう。
「お前が危機感なさすぎなんだよ、ミア」
ここで二人の会話にヘーゼルが割り込んできて、続ける。
「みんなお前のために頑張ってる。それなのに当の本人はこの落ち着きようだ」
「私のためなんて……きっと町の方を助けたいから――」
「それもあるが! 少なくともお前のことも大いに考えているはずだ! ……応えてやれよ」
ミアの言葉を遮ってヘーゼルは声を荒げた。通路に湿った残響がこだまする。
「……ミアさんに、何かあるんですか」
これまで所々で感じていた不穏な空気に、夕夏はいよいよ耐え切れずに訊いてしまった。きっと訊いてはいけない。本人が言う気になるまで待たなければいけない。そう感じていたが、このままではミアがどこか遠くに行ってしまいそうな気がして。まだ出会って二日の間柄だが、頼れる先輩というか、ミアの人柄の良さは強く感じていた。
「私、とお兄の力にもなりたいし、ミアさんの力にもなりたい。このまま何も知らないでミアさんが危ない目に遭っちゃうだなんてこと、絶対にイヤ」
「……っ」
夕夏の真っすぐな眼差しに、ミアは堪らず目を逸らした。しかし夕夏はそれを許さない。目を逸らした方に体を移動させ、もう一度彼女の目を見る。
「ミアさん」
あの日――橙が行方不明になってしまった時と同じ気持ちになるのもうごめんだ。そう思ったのだ。
「ミア。きっとこいつ、話を聞くまで動かないぞ」
「……」
「ウチから言ってもいいか?」
「…………それでは夕夏さんに申し訳が立ちません! 何より、自分の心の弱さに腹が立ちます!」
目を強く閉じ、ミアは叫んだ。まるで自分を叱責するかのような苦しい叫び声だった。
「……逞しく。私はここに来る前も、そしてここに来てからも、逞しく生きていくんです!」
夕夏に向き直り、ミアは言う。
「理事長たちと随分離れてしまいました。足早に歩きながら話しましょう」
ヘーゼルとミアを先導するように、ミアは勢いよく歩き出した。
「ヘーゼルさん、これで良かったんでしょうか。私、出しゃばりすぎちゃったかも」
「いいんだ。これでいい」
先を歩く小さな背中を見ながら、ヘーゼルは微笑む。
「――バカ。自分と向き合うのが遅すぎるっての」
そうしてミア・マイヤーは、置かれている状況――自身の残り半年の寿命――について話を始めたのだった。
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