第3話 紺碧の渚
扉を抜けた先にまず広がってきたのは、あろうことか
「足元暗いから気を付けてね」
柔らかい口調で橙は言ったが、足取りは早い。なにせ九十分しかないのだ。森の中を呑気にハイキングしている余裕はなかった。
「――エヴィさぁん、そういえばなんでみんな明かりの一つも持ってないんですか? 洞窟に入るのがわかってるなら必要じゃないですかぁ」
橙たちの歩みになんとかついていっている様子の夕夏は息を切らしながら尋ねた。
「んー、荷物になるし、そんなに使わないからじゃん?」
「使いますよね!? ゼッタイ大車輪の活躍しますよね!? ああもう! こんなことなら持ってくるんだった――」
一人大騒ぎしている夕夏だったが、突如として彼女の口が止まった。あまりのことに開いた口が塞がらなかったからである。
紅々町裏頭一丁目――進行者はいつしかここのことを【紺碧の渚】と呼ぶようになった。
洞窟の中なのに渚とは一体どういうことなのか。
――特に考える必要はない。名前の通りなのだから。
ざあ、ざざあ。ざあ、ざざあ。
「洞窟の中に……空が……っ!」
深い青。黒に近い、深い青だった。
森を抜けた先に広がっていたのは、紺碧の空と、紺碧の海。空も海も同じ色は、どこが境目なのか目を凝らしてみないとわからない。
ざあ、ざざあ。ざあ、ざざあ。
瞳に広がる星空。月明かりに揺れる波の煌めき。
そして体に感じる生暖かい風が、浜辺のヤシの木々をたおやかに揺らす。浜辺にはヤシとは別に何本もの電柱が電線を繋ぎ、不規則に刺さっていた。
「そういえば、やけに暑いような……」
季節は完全に夏だった。
「行こう。時間が惜しい」
橙は何も動揺することなく、浜辺を歩き出した。
浜の砂に足を取られながら、海に沿って進む。
「いつ見ても幻想的な空間ですよね。崖の中にいるなんて忘れてしまいそう」
周囲を見渡しながらミアが呟いた。
「お気楽な事言ってないでさっさと歩く」
「ヘーゼルさん、いつもは私たちに帯同しないのに今日はどうしてまた」
「……気分だよ、気分」
「はあ、そうですか」
軽くいなされたような気がしたが、ミアには前を歩くヘーゼルの表情はわからなかった。
それから一分ほど経ったところで、橙は歩みを止めた。
「ここだ」
場所はとある電柱の前だった。そこかしこにある電柱と特に変わった点はなかったのだが、何かがいた。
「――そろそろ来る頃だと思ったよ。進行組合の諸君」
「そりゃどうも。ピカンも元気にしてた?」
「これが元気に過ごしているように見えるとでも?」
「うん、見えないね」
橙はにっこりと笑いながら、電柱の近くに座り込む者に声を掛けた。
橙がピカンと呼ぶそれは身動きが取れない状態にあった。電柱に括られた頑丈な鎖。鎖は後ろ手に掛けられた分厚い手錠に伸びており、恐らくこの電柱の周囲一メートルも行動することができないのだろう。
性別は声の高さからして女性。黒いスーツは砂浜に座っているせいで汚れきっていた。そして注目すべきはミアよりも低い身長と、黒い毛並みの耳と大きな尻尾。
「ヘーゼルさんと胡桃沢さんに……似てる?」
「おやキミは……見ない顔だな。なんだ上谷、新入りがいるのなら紹介したまえ」
ピカンは夕夏を下から上まで舐め回すように見ると、口の片端を吊り上げながら言った。
「悪いけどピカン、おしゃべりするのは君を動けなくしてからだ。ワト爺、よろしく」
「合点」
ワトは言うと、続けて、
「〝
「――ぐえぇッ!」
そう呟くと、突如としてピカンの上に巨大な抹茶色の岩石が降ってきたのだ。岩石はミアの剛腕やエイヴリィのエヴィボードと同じく、透けて見えた。
「ぐ……苦しい……! いいじゃないか上谷ァ! ボクはもう抵抗する気はないし、そもそもこんな手錠されていたら動けないだろう!」
「そう言って君は幾度となく進行者の邪魔をしてきた。これが最善なんだよ。さて――」
橙はピカンから進行組合のメンバーに向き直ると、これからすることを伝えた。
「今から七分間、ここを一歩も動かないように」
瞬間、全員は動きを止めた。夕夏も見よう見まねで止まってみる。
「……みんながそうするから止まってみたけど、なんで? 時間ないんじゃないの?」
「紺碧の渚攻略条件は、『動かないこと』なんだよ」
「動かない……?」
首を傾げる夕夏に橙は続けた。
「厳密には移動しないって言ったほうがいいかな。とにかく立ち止まって七分間待つ。そうすると二丁目への道が開かれるんだ」
「なぁんだ、超簡単じゃん」
「今でこそこの紺碧の渚は進行者にとって最も簡単な場所になったけど、最初の頃はその条件がわからず、闇雲に探し続けることしかできなかった。おまけにそこで潰されてるピカンが邪魔をするお陰で動きを止めることもできず、攻略は難航。結局二丁目への扉が開かれたのは進行を開始してから五十八年後。とある中華料理屋の店主が望みを繋いでくれたんだ」
「ごじゅう……はち……? じゃ、じゃあピカンさんはずっとここに!?」
「町役場の公務員には七年という寿命はないんだ。この町が存在し続ける限り、生き続けていられる」
夕夏は思わず息を呑んだ。
「だから僕たちはね、砂浜に落ちているこの七年時計の数だけ、運命を背負っている」
「え……?」
夕夏は足を動かさないように浜辺を見渡した。先ほどまでは月明かりに砂が反射しているものばかりと思っていたが、暗がりに目を凝らすと何か別のものが光っていることに気付いた。
「ひっ――!」
それはおびただしい数の七年時計。この地で無念の死を遂げた進行者たちの命の形が、抜け殻となっていたるところに転がっていたのだ。
「う……うぐ、息が――って、お前はヘーゼルじゃないか!」
背中に乗る岩石で息も絶え絶えになっていたピカンが、ヘーゼルを見つけると声を張った。
「チッ……」
ヘーゼルは見つかったことに対してばつが悪そうに舌打ち。
「なんだいヘーゼル! お前が裏頭に来るなんて珍しいこともあったものだ! 一体どういった風の吹き回しだい?」
「サポートをしに来たんだ。進行課としてな」
「……は?」
すると、ヘーゼルの言葉にピカンは血相を変え、
「じょ、冗談を言うのはよしたまえ! なんの意味があってそんなこと! お前もボクたちと同様に公務員になる道を選んだクチだろう!? 万に一つもないだろうが、もしこの連中が〝記憶のダム〟に到達してしまったら、その時ボクたちは……!」
「いいんだ」
「何を言って――」
「このまま死なせたくないヤツがいる。ウチはもう十分に楽しんだからさ」
「――」
ピカンはひとしきり唖然とした様子を見せると、平静を取り戻してから言う。
「お前はいいかもしれないけどね、それはあくまで一個人の意見だということをゆめゆめ忘れないでくれたまえよ」
「ふん、百年以上こんなところに括りつけられて何が楽しいんだか」
「ねぇりじちょー、いまコイツ〝記憶のダム〟って」
「……ピカン、それはどこにある」
ピカンはヘーゼルとの会話で、橙たちには馴染みのない言葉を使っていた。
「言ったところで着けるはずがないさ」
「言うんだ」
「断る。なんでわざわざヒントを言わなきゃ――」
「言えッ!」
浜辺に怒声が響いた。残響は
――ざあ、ざざあ。ざあ、ざざあ。
「……な、なんだよムキになって」
「……」
「理事長、落ち着いて下さい! 〝記憶のダム〟という場所があることがわかっただけで大きな収穫じゃないですか!」
「僕はミアがそんなに落ち着いていられることが信じられないし、許せないよ」
「私は理事長のそんな姿、見たくはありません」
ミアが涙を溜めていることに気付き、橙はハッとした。
瞳はあるはずのない空に浮かぶ満月のように、光り輝いていた。
橙は自分の行動を強く恥じた。進行組合のリーダーとして皆を引っ張っていかなければならないのに、周りを見てどうだ。自分が取り乱したことに対して動揺の色を示しているじゃないかと。
「――みんな、悪かった」
そうして、頭を下げた。
「らしくねえぞ、理事長」
ため息をつき言うカメリア。その声はどこか安心しているように見える。
「お前の気持ちはワシらがよくわかっとる。じゃが進行は始まったばかりじゃ。いつも通り冷静に行こうや、上谷よ」
「ワト爺……そうだね」
橙は一度顔を伏せ、また顔を上げた時にはいつもの柔和な表情に戻っていた。
「あと十秒もすれば七分が経つ。リスの小娘よ、貴重な情報感謝するぞ。その岩はワシがそれなりに離れれば消えるからのう。もう少しの辛抱じゃ」
「それなりって……はいはい。お心遣い痛み入るよ――最後にヘーゼル」
「ん」
「ボクもいつか、ここから出られるのかな」
「いつかな。だが同時にそれは」
「皆まで言うな。わかってるさ」
「――時間じゃ」
ワトの言葉と同時に、地面が揺れた。
「海が、割れてる」
紺碧の海は満月に向かってまっすぐ伸びるように割れ、一本の道を作り出したのだ。
「一丁目進行完了。ワト爺、時間は?」
「十分きっかり。予定通りじゃ」
「よし、みんな動いていいよ。次に行こう」
紅々町裏頭一丁目【紺碧の渚】。寄せては返す優しい波が心地よい、夏の夜。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます